2011年12月26日月曜日

#63 世界も日本も苦難の年が終わるーー野田首相は突っ走れ

日本では1月の大雪、3月の東日本災害と原発事故、そして9月の奈良・和歌山県の豪雨災害、タイでは洪水と続きました。日本経済も打撃を受けました。世界ではヨーロッパの財政危機、アラブ諸国を始め、年末には金正日死亡と政変が起きました。まあ、こういうことは今年の10大ニュースや回顧を取り上げるメディアに任せて、ここでは書かないことにしましょう。
 今、諸君の多くは苦難をかかえているでしょう。しかし、戦時下の窮乏を強いられた先人や東北の被災者の皆さんを思えば耐えられる。

 今年、若者に贈る言葉 
 私の情報源と言うと、新聞、月刊誌、テレビニュースなどに限られている。情報の現場に身を置いていないし、専門分野のように深く勉強もしていない。テレビで専門以外のことについてしゃべる出演者と変わらず、あまり信用しない方がよい。
 ただし、ばらばらの情報を集めて結論(正確には仮の結論)を出す思考法には注目してほしい。そう、諸君も諸々の情報から結論を引き出すことを無意識のうちにやっている。これを専門用語で帰納法と言い、逆にある事象を論理の規則に従って説明することを帰納法と言う。こんな用語の定義はどうでもよろしい。私もどっちがどっちか定義を間違うことがある。
 大事なことは、もう少し意識して帰納法的思考によって判断することだ。世の中がよく見えてくるし、仕事でも私生活でも役に立つ。何よりも諸君の思考力を高めてくれる。
 私が好きなテレビ番組の一つに『臨場』という警察ドラマがある。ここで捜査が一定の結論に向かう時に、「オレのとは違うなあ」と言って検死官が名セリフで異論を唱える。諸君も自身の感性によって、メディアが安易に世間の流れをつくる中で「オレのとは違うなあ」という感性と帰納的思考を磨いてほしい。感性は思考の始まりだ。

◇ 野田首相は突っ走れ 
 先日、首相は「政権延命を考えていない。民主党のために政治家になったのではない」と述べた。つまり、国のために政治家になり、首相になったのだ。世論調査も選挙も忘れて、国難に立ち向かってほしい。
 彼が信念を貫くにも党内対策と野党対策の両方に神経をすり減らさなければならない。原発も、財政危機も、年金・消費税改革も多くの問題は、自民党が先送りしてきたことに起因する。自民党は政権与党に一歩譲りながら、できる限り修正協議をして法案の成立を支援すべきだ。そうすることで、次の総選挙で第一党になれるだろう。
 他方、民主党では小沢、鳩山両派が自民党より政治の足を引っ張っている。この政治の癌を助長しているのが、NHKテレビと読売新聞だ。ちょっとした小沢と鳩山の動きやコメントを報道している。小沢と鳩山がお好きなのだ。反対意見がほしいのなら、ほかにまともな人材がいるではないか。
 両派の議員は、事ある度に離党をほのめかす。先のTPP協議に反対した山田元農水相以下の小沢派議員が離党を発言したが、誰も離党しない。反対を唱えさえすれば選挙基盤の得点になるからだ。原田元総務相とともに小沢の跡目争いを意識しているかもしれない。
 小沢派と鳩山派の若手議員よ、今のままでは落選するから、仲間とともに両派から離れた方がよい。新グループとして政権に協力した方がよい。世間の空気は若手議員に不利になっている。
 民主党は、首相がいかに努力しようともどっちみち次の選挙で負ける。有権者大衆は政権交代を望み、保守党志向になるからだ。それなら首相は覚悟を決め、信念に基づいて任期いっぱいを朽ち果てる覚悟で政策課題を実行してほしい。
 
◇ 金正恩の登場 
 喩えてみると、会社で経営に関わってこなかった28歳の息子がいきなり新社長に任命された。それも兄二人をさしおいて。周囲は80歳を超える先代の番頭たちばかり。新社長が賢いのなら、しばらくは雛壇に飾られることに甘んじて、番頭が失脚するか死ぬまでは我慢し、その間に腹心の部下を育てるだろう。
 正恩は国の金庫を開けると金がないことに驚くだろう。どうなるか?
 現在、国連決議により各国が経済制裁を課しているが、中朝国境はざるの穴で中国政府が行っている支援は続く。中国政府は38度線を韓国と向き合う国境と考えているだろうから、現体制維持を戦略にする。北朝鮮をチベット化して直接統治することは金がかかるからだ。
 軍によるクーデターは起きないのか?
 よく跡目争いであるように、番頭将軍が別の息子をかついで自分が実権を握るためにクーデターを起こすケースだ。しかし、中国政府がいちはやく正恩を後継者として承認し、アメリカも暗黙した今では、両大国を敵に回して危険を犯すことはないだろう。今のままの地位で優雅な生活を捨てはしない。
 それにしても、国民の多数も兵士も痩せ細っているのに比べ、幹部は丸々と太っていることに気付かないのだろうか。洗脳によって思考力を失っているのは仕方がないにしても、感性まで奪われているのだろうか。
 日本は何をすべきか?
 中国政府は脱北者の取り締まりを強化している。在中国日本大使館が脱北者を受け入れないという誓約書を取った。脱北者にはもはや海に逃げるしかない。日本政府は日本海側の監視を強めなければならない。

◇ 若者が政治を変える
 先月の大阪市長選挙では若者が動いた。若者が動けば国政選挙も変わる。諸君に問いたい。国政に何を望むのか?諸君の要求は何か?    
        (完)

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2011年12月8日木曜日

#62 今年のプロ野球界を回顧ーー来年はどうなるか?

久しぶりにプロ野球界について書きます。評論家として経営とともにスポーツは私の専門分野でありますが、これまでプロ野球に関しては経営の視点から月刊誌などに書いてきました。
今年もいろいろありました。ざっと振り返ってみましょう。 

◇ 独立リーグとNOMOクラブ 
 去就が不安定だった三重球団は四国アイランドリーグから撤退し、結局、球団を解散した。三重県の立地は四国リーグに参加すること自体無理があったようだ。残念なことではあるが、結果として四国4球団にとっては遠征経費が軽減につながる。
 年末になってクラブ野球の雄、元メジャーリーガーの野茂が持つNOMOベースボールクラブが、堺の使用球場の閉鎖になることから存続の危機に瀕している。このクラブはアマチュアであり、選手が生業を持って練習は夜間に行っているから、移転する球場は照明設備を備えていなければならない。
 さらに、球場の使用が実現しても、地元自治体が地元球団として助成金を出してくれるかどうか。また、移転しても選手の仕事が見つかるかどうか。なんとか切り抜けてほしい。
 プロの独立リーグとアマチュアのNOMOクラブでは、どちらも少数とは言え、12球団のプロ野球に人材を送っているが、選手の将来の生活に関しては独立リーグの方が不安が大きい。
 
◇ 女子プロ野球 
 受けた質問や会合での話をまとめて対談風にしてみよう。
 「あんたが書いた女子プロ野球(本稿#51)で、女子プロの実力は高校野球の下位くらいと評価したが、あれちょっときついのと違うか?」
 「そういう意見はほかにもある。この中で実際に試合を観たのはオレだけやろ。ちょっと技術的に言うとやな、彼女たちは投手でも打撃のパワーでも男に比べて弱い。守備は巧いけど。下位の高校チームの投手を打てないし、投手は打たれる。一試合なら高校に勝てることがあってもリーグ戦をやるなら力の差が出るよ」
 「うん、なるほどな」
 「ほら、11月に第一回女子野球ジャパンカップといのがあってな、これにプロ2球団ともに高校女子野球部に負けた。正確に言うと勝てなかった。というのは同点で規約によって抽選で負けたのや」
 「へえー、そんな大会があったんかいな。ところで、なんで話題になったことがある吉田えりを採用しないのか?」
 「吉田は女子プロの打者に打たれると思うな。なぜかと言うと、女子プロの打者は基本通り手元にしっかり引きつけて打つから、ボールをよく見ている。女子プロでは投手のボールが早くないから、ナックルの効果がそれほど生きないと思うよ」
 「彼女はどうしているの?」
 「アメリカの独立リーグで男たちの中で唯一の女子選手としてやっていると聞く。かつて属していた神戸の独立チームと同じで、話題性があるんだろうな」
 「食っていけるの?」
 「おそらく年収5千ドルももらっているかどうか。食っていけないから親から仕送りを受けているやろな。女子プロ選手は年収200万円だからええわな」
 
◇ 横浜新球団が決まった 
 「横浜DeNAベイスターズ」に決まり、これで親会社の社名を冠しない球団が広島だけになった。元の親会社TBSはこれで年間経費の約20億円の赤字負担が無くなった。DeNA社は球団の経営改善を進めるだろうが、新進のIT企業に重い負担になる。
 今回も読売渡辺会長はIT企業による買収に当初乗り気ではなかったという。彼は楽天加入にも反対した。IT企業が持つ球団は三つになったが、彼はお気に召さないようだ。
 因みに、過去の球団親会社の数をたどると、映画3、新聞4、鉄道8だった。その時代を表していて面白い。若者世代はどこまで知っているだろうか。

◇ 読売巨人騒動 
 読売新聞グループが巨人の清武元代表を相手に訴訟を起こした。本来、清武元代表と渡辺読売会長の個人間の確執なのであるが、読売は総力をあげてきた。これでは会社法に照らして清武側には歩がないから、勝ち目がない戦だ。
 ただ、世間は判官びいきで反渡辺感情が強くなるだろう。
 世間はもう忘れたかもしれないが、近鉄・オリックスの合併騒動の時には、渡辺会長は1リーグ10球団制を推進した。これに対し、私は月刊誌で長文の反対論を書いた。プロ野球史を研究してみると、1リーグ10球団制はプロ野球を読売の事業と考えているから、読売の宿願であるようだ。プロ野球がセ・パ両リーグに分裂するきっかけをつくったのも当時の正力松太郎会長の10球団制構想だった。
 プレーオフ制が実施された時、渡辺会長は「パ・リーグの3位球団と巨人が日本シリーズで対戦できるか」と反対した。皮肉なことに、その巨人が3位でプレーオフに出場し、しかも敗退した。読売にとってはお家の一大事なのだろう。
 お荷物球団が三つもある現状に抜本改革がなされないのでは、いつか1リーグ10球団制構想が復活するかもしれない。これについては、いずれ改めて稿を起したい。

◇ ソフトバンクの皆さん、お疲れ様でした  
 ソフトバンクの選手と関係者にとっては長いシーズンだった。
やっと台湾で行われた11月29日のアジアクラブ選手権で彼らが野球から解放された。日本球団5連覇はならなかった。エース級投手を使わずに予選では9-0で勝った韓国に3-5で負けたのだ。勝って当たり前で、観客が4~7千人しか入らない、メディアも関心を払わないこの大会は日本球団にとって重荷だろう。        (完)

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2011年12月5日月曜日

#61 上海たより、その(4)ーー「皮影戯」とは?

堅い話が続きました。今回はI氏からのたよりをお届けします。メディアが伝えないことなので面白いですね。
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 午後から帰国する客との打合せを終えて、フリーとなった北京の休日。
 地下鉄円明園駅近くにあると、HPで当りをつけた『皮影戯』劇場・記念館を目指しました。ところが、見つけた場所はモヌケの殻、何人かの通行人に聞いても『皮影戯』とはナンじゃ?という反応のみ。かなりの努力をして、ようやく引越ししたばかりであることを警備員から聞きだし、本屋のオバサンから、団員の子供が前を通っていたから、引越し先はたぶん円明園の南門付近であろうと教えてもらいました。
 斜陽期の場末の映画館のような建物の回りに、引越し荷物が散在しており、受付の女性が日本人の客は珍しい、と非常に喜んでくれて60元のチケット(円明園入場券付き)を渡してくれました。HPの住所変更がなかったことについては、笑って不問に付されました(1ヵ月後の今も前住所のままです)。
 上演30分前のステージと客席には、人影はなく、記念館らしきものも閑散。中国人の客も珍しいのではないか?と呟やきながら、時間つぶしに円明園を散歩しました。頤和園と並んで、北京北西に所在する清朝の離宮。最盛期の粋を凝らした名園が1860年の英仏連合軍に蹂躙されたことでも知られています。そんな遺蹟公園を時間つぶしに歩くなど、とんでもない贅沢だと怒られそうですが、遅めの昼食は園内屋台のお好み焼きと素焼きの壷入りヨーグルトという慎ましいものにしたので勝手に許して頂きます。
 
 『皮影戯』とは民間伝承の影絵劇のことで、解説文には、皮影芸術は、西漢武帝時代に、その雛形が誕生し、今日まで2000年に渡り伝承されている。俗に「灯影」、「影戯」等とも呼ばれており、劇に登場する人物や道具は全てロバ皮牛皮を加工彫刻し色を入れて作られている。それを「亮子」と呼ばれる幕に押し付け、操り線や歌、道具を使って物語を表現してゆく、とあります。 「非物質文化遺産(Intangible Cultural Heritage )」と位置づけられていますので、日本で言えば、文楽・歌舞伎・能などの「無形文化遺産」に当るのでしょうか。

 灯りを落とした会場に入ると、子供連れの観客が20人くらい座っていました。一つ目の出し物を「亮子」も向こうで演じたあとに、挨拶に出てきたのは、小学校高学年か初級中学生という感じの子供たちだけでした。舞台裏見学を挟んで、録音と思われる演奏と語りで三幕を演じて、打ち出し。約一時間の異次元体験でしたが、古典芸能鑑賞という先入観で訪ねた者には、かなり素朴で熱心な子供劇に思えました。

 今年の端午節(旧暦5月5日)の休日は6月6日で土日に続いて3連休でした。文楽劇場の制作責任者から京都の大学教授に転じた後藤センセと、共通の友人の立っちゃん(同期入社。会社を辞めて、家業を大きく伸ばしてから、実弟に社長職を譲って、別の起業で悪戦苦闘。ようやくユトリができた昨今です)が上海にやってきました。センセからの事前の要請は、「特に無いのですが、できれば『皮影戯』の調査をしたい、何とか実演を見物できれば幸い」という短いメール。当方も「ナンじゃそりゃあ?」状態でしたが、CS(CUSTOMER SATISFACTION。顧客満足)という商社マンの基本姿勢をクスグル高等戦術にまんまと乗って、先の北京での「諜報活動」となりました。
 しかし、肝心の上海では、身近な中国人に聞くも、やはり「ナンじゃ、そりゃあ?」
「爺さんが話していたかも?」という感じで、上海では断念か、と思っていたら、熱心な人が街はずれの七宝地区で演っているようだという口コミ情報を届けてくれました。
 上海の西郊の青浦・松江区から江蘇省にかけては水郷地帯で、清朝末期までは水運で栄えた町や郷鎮が点在しています。その幾つかが保存されて、「老街」として観光ガイドにも載っています。その一つの朱家角を先ず訪ね、村の城隍廟(鎮守神を祀った廟)で、怪しげな運勢判断の道士に引っ掛かったり、螺旋状天井を持つ昆劇舞台を発見したり、各家の門口の菖蒲の飾り物や粽作りを見物。更には馬桶(マートン。旧来からの室内用簡便トイレ)を堀で洗うシーンを偶然見かけたのは幸ウンでした(馬桶洗いのオバサンからすれば、酔狂な3人のオッサンが対岸から凝視しているのを怪訝に思ったかも?)。

 そして目指す七宝「老街」に移動。人混みを掻き分けてようやく『皮影戯』を上演している小屋に辿りつきました。入場料はなんと5元(65円)。あまりの安さに驚いたのも束の間、6畳くらいの部屋に5列くらい椅子があり、30人強の観客がぎっしり押し込まれました。「亮子」も2mX3mくらいの小ぶりなものでした。しかし、胡弓や笛などの鳴り物は実演、語りも肉声で迫力十分。肉声であるけど、何を言っているかは殆ど分からないな、と思っていたら、子供連れの教育ママ風の奥様が「標準語で演じなさいよ!何が何だか分からない」と声を上げたのに抗して、幕の内側から演者の老人が「昔からうちらは、こない演っているんや!」 と上海語で言い返した(ようです)。
 そんな遣り取りとは関係なく、立っちゃんを初め、半数近くが途中退場。一演目毎の入れ替え制であることに気付いたのは、二番演目を見終えて、興が乗ってきたセンセと二人で居座っているところを、案内係から追い出されてからでした。しかし追加料金は要求されませんでした。そこで三番演目は舞台裏から、6人くらいの年配の演者の手さばき、語り、演奏を覗き見しました。
 その後、整備された記念館を見学、立派に編集された説明書を買おうとしたら、無料で渡してくれました。入場料といい、入れ替え制度の甘さといい、何とも鷹揚な印象が残りました。どうもこれは営利団体ではなく、観光地としての七宝「老街」再開発のための一環事業のような気がしました。その無料の説明書によると、南宋の頃に北方から首都の杭州に伝わり、七宝近辺には清朝光緒帝時代に伝播、その後、毛耕漁(1850~1907)という名手が出て、興行的にも認知され、1920年から30年代には上海市中の大劇場で常打ち公演をするほどの人気であった、その後の内乱、戦争そして革命の時代をくぐり、七代に亘り流派は伝わってきたが、映画やテレビなどの娯楽の普及とともに衰退の一途を辿った、とあります)
 
 「非物質文化遺産」の継承は他所事ならず、日本でもセンセも含めて大変な苦労をされているわけでして、中国においても、北京の子供に演じてもらうやり方、上海の一種のテーマパーク内部で演じるやり方、いずれも一概に是非は言えないな、と思いました。センセの事前の考察は、インドネシアのガムラン(gamelan)音楽とともに演じられる影絵劇が中国に伝わったのではないか?という「南方由来説」なのですが、中国では、独自文化の「北方由来説」が強調されているようです。ただ、いずれにせよ、魯迅の初期作品『社戯(宮芝居)』に描かれているような、農村の人たちのささやかな娯楽の世界の一つであったのでしょう。
 
 帰国当日も、朝から上海の城隍廟をお参りして、廟周囲に広がる豫園「老街」を散歩しました。ところが、その外れの小さな店に、『皮影戯』の影絵人形を売っているのを偶然発見。あくまでも現金決済を主張する店主に、立っちゃんを人質に残して、センセは銀行に走りました。店主の張涛兄さん曰く「お師匠さんが『皮影戯』の演者であり、その指導を受けて制作しているが、七宝での実演は見たことはない、すぐに見に行きたい」とのことでした。     
 旅の終わりに、念願の影絵人形を入手できたので、CS度は上がったことと思います。
 その二週間後にまた、城隍廟の奥深くの店にしかない旨い素麺(一杯8元。精進料理)を食べに行った折に、張涛兄さんの店を冷やかして聴いたら「商売で忙しくて、まだ七宝には行っていない」とのことでした。「あんたのような物好きと違って」という枕詞は呑み込んでくれましたが、顔には書いていたようです。
          
(了)





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2011年11月29日火曜日

ネット月刊誌『言論大阪』#20,12月,2011  ダブル選挙の始末記ーー若者の投票が選挙を動かした

 大阪のダブル選挙は知事も大阪市長も維新の会候補が完勝しました。特に大阪市長選挙では、私が本稿の前回で期待した通り、若者世代が立ち上がったことで投票率を前回選挙より12%以上引き上げ、40年振りに61%の高率になりました。
 多くの若者世代が投票に行ったというのは私の推測ですが、根拠はあります。例えば、20代の投票率が共産党と公明党の青年組織を除けば10%台という記事を見たことがあります。
 若者諸君、よくやってくれました!

テレビの速報が暴走 
 今回のダブル選挙では、開票が始まったばかりでNHKも民放局も当選確実を伝えた。開票30分後には当選者の記者会見が行われた。いくらこれまでの出口調査の実績があるとは言え、これはやり過ぎだ。あるテレビは投票終了前に当選確実を伝えた。
 選挙の詳しい分析では新聞にかなわないテレビが速報によって特徴を出さなければならないにしても、例は少ないが、当選確実の取り消しをしたことがある。テレビはせめて半分の開票が終わるまでは当選確実の報道を自粛すべきだ。
 因みに、私が滞米中の80年代に大統領選挙でテレビの速報が競争の度を超えて、東部と3時間の時差がある西部ではまだ投票中である時に当選確実を報道したことがある。これでは西部の投票者の中には棄権者が出る。この時に世間の批判が強く起こり、その後テレビ各局は自粛を申し合わせした。

大阪都実現の前にステップがある 
 私は橋下新市長の登場を喜ぶ一人であるが、大阪都構想を必ずしも支持していない。本当にこれがベストかどうか疑っているからだ。橋下市長も市民の約30%が「よく分からない」と新聞のアンケート調査を認めている。
 先ずできることからステップを踏んで実行してほしいことがある。
 それは、大阪市区の統合を進めることだ。これなら自治体法を変えなくてもやれる。そして、大阪都構想の障害にならない。
 人口270万人の大阪市に24もの区があることはクレージーだ。1989年に東区と南区を統合して中央区とし、同年に北区が大淀区を合併して以来、22年間も24区のままだ。人口840万人、面積620㎢の東京23区に比べて、人口270万人、面積220㎢の大阪市とは比較にならない。大阪市には人口10万人を超える区が半分以下しかなく、最大は平野区の20万人で最少は浪速区の5万人。歴代市長も市議会も市民サービスの向上として24もの区役所をそのまま放置してきたものだ。市民も無関心だった。橋下市長の大阪都構想はここに着眼したのかもしれない。
 
大阪都より関西県をつくる 
 本稿#6「大阪市は大き過ぎない、大阪府が小さいのだ」で、私は大阪府、奈良県、和歌山県が合併して関西県をつくることを提唱した。関西県の新県庁所在地は奈良市にする。
 他方、大阪市は隣接市いくつかと合併して横浜市を超える日本第二の都市を復活させる。横浜市の人口は370万人であるが、面積は大阪市の倍もあるのだ。橋下前知事の大きな器量をもってすれば、小さい大阪府をこねまわしてもしようがない。大阪市が長年現状維持にとどまってきたのは不思議なくらいだ。
 不思議なことと言えば、江戸時代の旧藩をいくつかまとめた明治の廃藩置県が今もそのままになっていること。関西県が先駆けになって、岡山県と鳥取県、広島県と島根県、香川県と徳島県などの合併が実現してほしいもの。 
 これも将来の道州制への障害にならず、そのステップとして考えればよい。もっとも私は道州制も必要かどうか疑問に思っている。もう半世紀も議論しているだけで、実現までは遠い。若者世代が決めることになるだろう。
 些細なことであるが、私は「道州制」の名前が気に食わない。「新州制」か「自治州制」にすべきだ。なぜなら、北海道は一語で島あるいは地域の名前であり、ごく稀な例外はあるが北海と道を切り離して使われることがないからだ。私はかつて東京都を除く全国で県に統一することを提唱したことがある。従って北海道県と呼ぶべきなのだ。そして今は北海道州と呼ぶべきだ。このことは鹿児島県と比較すれば分かる。鹿児島県を鹿児島と県に区切っても通用する。九州も九州州でよいが、提案されている福岡州よりはましだ。

大阪都構想が分からない?
 既成政党を脅かす存在になったことから、政治家は「大阪都の中身が分からない」と言う。構想自体は明確であるのだから、これは構想が「ベストかどうか分からない」と言うべきだろう。
 橋下構想の最大の効果は、大阪全体の改革の必要性を府民に向かって強く知らしめたことだろう。府民にその必要性を一つの形として認識させ、無関心を一掃した。そのために投票率が上がった。
 橋下市長殿、あせることはない。大阪改革の提唱は受け入れられた。これから行政の現実を知り、民意も考慮しつつ具体的な政策の詰めに取り掛かってほしい。そして「現在の大阪都構想がベストかどうか?」を常に考えてほしい。段階的に目標を達成すればよいのだ。

若者よ、一つ要求せよ
 大阪市が長年提供している敬老パスは、70歳以上の高齢者、約30万人に市交通機関の無料乗車サービスだ。年間予算は27億円と言われる。全国の政令都市で唯一のサービスだ。平松前市長は一度は利用上限を3000円に定めることを提案したが、議会に拒否された。
 選挙中には両候補とも「敬老パスを継続する」と公約していた。「継続する」は守るにしても、形を変えることは公約違反にならないだろう。上限を設ける、あるいは他市でやっているように一回の乗車を100円に割引するという施策がある。
 若者諸君、27億円の半分でも半分以下でもよいから、浮いた予算を若者の雇用や公的機関で訓練するための予算に振り向けることを要求する時だ。いろいろな点で経済振興に働く。
 天は自ら助けるものを助ける!

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2011年11月17日木曜日

ネット月刊誌『言論大阪』#19、11月、2011  若者よ、投票に行こうーー同日選挙まであと10日


 府知事と大阪市長の同日選挙が27日に迫りました。
 特に大阪市長選は次代の大阪市をどうするのかを問う重要な選挙です。従来の常識で考えると、平松候補が有利な情勢になっています。なぜなら彼は市役所幹部から職員組合とその家族を含む市役所族、連合の労組、自民党・民主党に加えて共産党の全政党(公明党は自主投票)から支援を受けているからです。現職の上にこれだけの組織票を固めているのです。
 若者諸君、週刊誌が書いている「橋下ダブルスコアで当選」の予想を信じるなかれ。投票に行って橋下候補を当選させよう。

橋下候補が勝てるか
 大阪市の有権者数は約200万人で投票率が前回選挙並みの50%とすると、投票数は100万票、当落ラインは50万票ということになる。共産党が候補の擁立を止めたことで、前回獲得した16万票が平松候補に行く。中にはどちらの候補にも投票したくないという棄権者もいるから、13万票くらいか。これは橋下候補にとって手痛い。
 一方、橋下候補の確定票は維新の会の市会議員がまとめる票だけ。これを除いて橋下ファンの個人票に頼らなければならない。もし若者諸君が投票に行き、投票率を10%上げるなら20万票のほとんどは橋下候補に行くだろう。それでも充分とは言えない。

なぜ橋下候補がよいか
 これだけの支持勢力に押されている平松候補は、構造的に次代の大阪のために大きな改革はできるはずがない。彼の市長在任中に地道な改革をしてきた一面はあるが、前回市長選で掲げた主要な改革の政策は先送りされている。しょせん保身と現状体制維持の既成勢力に対して抗することができない。さらにもう一つの弱点は、彼が掲げる政策はほとんどが橋下改革に反対する政策であり、彼独自の発想に欠けることだ。
 橋下市長に変われば、当初は市政に混乱と批判を招くだろう。これは改革の代償であり、政治に限らず避けて通れないことだ。いずれ大阪市に活気をもたらすに違いない。
 諸君は平松候補が大阪に変革をもたらすと思うか?

橋下候補は独裁者か
 橋下候補に対する週刊誌の攻撃がすさまじい。新聞に出た週刊誌の広告では、「父親は暴力団関係者」、「橋下は同和の出身」だと書かれている。彼の氏素性が何であれ、彼が今何者であるかしか有権者は問わないだろう。
 彼が独裁者呼ばわりされていることにはもっと広がりがある。4年の任期はある、選挙がある、議会もある、法律の規制もある、それに軍隊を持たない。彼は強いリーダーであって、どこが独裁者なのか? 
 そのうち評論家などの類が彼をヒットラーに喩えるかもしれない。確かに、ヒットラーは第一次大戦後にドイツ帝政を倒したヴァイマル共和国が、混乱を収拾できないことからヒットラーのナチス党の台頭につながった。ヒットラーは合法的に政権を取り、軍隊を背景にしなかった。

橋下候補が市長になっても政策を全面支持することはない
 橋下候補は前回の知事選挙で広く府民の支持を受けて当選した。維新の会は府議会選挙でも過半数の議員を取った。しかし、大阪市議会選挙では過半数を超えなかった。彼を支持する有権者の割合が大阪市で低いことも市長選挙で不利なことだ。
 茨木市民の私も残念なことに、橋下候補に投票したくとも大阪市長選挙に投票権がない。
 そうかと言って、私は橋下改革者を支持するが、彼の政策をすべて支持するわけではない。例えば、大阪都構想には反対し、大阪市が近隣市と合併して日本第二の都市にカムバックすることと、隣りの奈良県と和歌山県を統合して関西県をつくり、新県庁を奈良市に置くことを提唱している。詳しくは、トップページの左側にある項目「言論大阪」の下記を読んでほしい。
  #6 10月、2010
  #9 1月、2011
  #14  6月、2011

余談。「W選」表記が気になる
 WはVが二つの字形であるが、もともとUが二つでdouble-uと発音される。そのWが日本では二重の意味をダブルとして使われるが、「W選」は誤用。さすがNHKと全国紙は「ダブル選」、「同日選」と正確に使っているのに対し、民放テレビは「W選」と誤用している。


≪追記≫11月20日
 投票日まで7日。私の市長選予想では投票率が60%を超えたら橋下候補が当選、50%なら落選。 橋下候補を生かすも殺すも若者諸君が鍵を握る。諸君にとってこれほどエキサイティングな選挙はめったにないだろう。
 一度も投票に行ったことがない若者は煩わしいと思っているかもしれない。しかし、家を出てから帰るまで30~60分で済む。こうして一度行くと次の選挙にも投票するだろう。
 チャンスを逃がすな!!

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2011年11月13日日曜日

#60 TPPと「歴史は繰り返す」の例ーーいつも日本が崩壊すると反対

友達のジョーク、「あれなあ、農業の自由化で騒いでいる問題、ピーピーピーと聞えてオレのピーピーの小遣いを突かれているようや。オレはよう分からんわ」。
 別の教養人タイプの友達が言う。「少しは理解していると思うが、世間は無関心やで。農協と反対政治家が世間の上空でやっている空中戦みたいなものやな」。
 彼らが言っていることはTPPのことで、太平洋を取り巻くアジア諸国ほかとの貿易自由化交渉のことです。交渉参加国は、アメリカ、ベトナム、ブルネイ、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、ペルー、チリの9ヶ国です。シンガポールとブルネイを除いて農業品に競争力があると言われます。
 いろいろ意見が分かれていますが、日本がこの協定に参加すれば、農業が大きく変わり、私は若者諸君にはチャンスが増えると見ています。

◇ TPPをめぐるおかしな意見とその背景 
 党内でも反対者が多い中、野田首相は11日にTPP交渉の協議に参加することを表明した。 
 記憶にたどって顧みると、日本の産業史において大きな貿易交渉は3度目のことだ。後で詳しく述べるが、最初は1960年に始まった工業製品の自由化の貿易交渉だ。2度目は1986年からのサービス貿易と農業の自由化の交渉でウルグアイラウンドと呼ばれた。いずれも野党と産業界の大反対の中で自民党政府が交渉に決断した。決着を見るまでに前者では4年、後者では7年かかった。
 議論がある程度なされたら、首相が決断することは当然のことであり、必ずしも多数意見によらず社長が独自の決断をすることは珍しくない。いつまでも議論をしていることは許されない。
 いくつか反対意見を挙げて論理のおかしいことを指摘してみよう。
 「バスに乗ってしまったら降りられない」
 一旦交渉に入るともう交渉から抜けられないと言うのだ。まして今は交渉に入る前に各国との協議を始めた段階。協定合意に至るまでの個別課題にあまりに日本に不利であれば、途中でさえ交渉から降りることはできる。交渉事とはそういうものだ。
 「説明不足であり、政府はもっと説明責任をはたすべき」
 すでに一年も議論されてきて、メディアでも報道されてきた。説明責任という言葉は政府追及の常用語になっていて、他の政治課題に対してもよく使われる。今はまだ交渉の協議にやっと入った段階であるから、得られる情報には限界がある。
 「TTP協定に関して世論を問え」
 私は仕事柄大衆の平均よりは強い関心を持ち、広く情報を集めている。それでも今協定に締結するかどうか問われれば答を出すのに躊躇する。他の交渉参加国はこれまで9回も協議を重ねてきたことに比べれば、政府が持つ情報には精度を欠くかもしれない。農業や保険・医療の自由化など日本に大きく不利益なことを要求されれば、個々の案件について民意を問うことがよいだろう。

◇ 工業製品の自由化とコマツ 
 工業製品の自由化について特に日米政府の間で1960年には交渉が始まっていた。その後94%の自由化、つまり両国で関税が撤廃された。
 当時の野党、労組、大衆にいたるまで自由化に反対した状況は今のTTP参加に反対するのと酷似している。「日本の産業が崩壊する」と言われたことが、今は「日本の農業が崩壊する」と言われる。当時産業界が今の農業自由化と同じくらい時期尚早という意見で大反対した。それを敢えて自民党政府は自由化を決断した。日本にとっても国際競争力を高めるのにメリットがあったからだ。
 この自由化を見越して、世界の建設機械の巨人キャタピラーが日本に進出した。63年に当時の新三菱重工と合弁で新キャタピラー三菱を設立したのだ。
 当時、日本企業の富山工場で駆け出しの技術者だった私は、小松製作所(現在、コマツ)の粟津工場など主力工場では強力な改革運動が進められていたことを思い出す。彼らの努力が実り、その後国内市場だけではなく、海外でも競争力を高めた結果、今日海外では巨人キャタピラーを凌ぐ建設機械メーカーになった。
 コマツに限らない。他の日本メーカーも自由化を梃にすることによって経営の構造改革を行ったのだ。

◇ ウルグアイ・ラウンド協定とその後の日本農業 
 同協定は1986年から始まったサービス貿易と農業自由化に関する通商交渉のことで、決着したのは93年だった。コメの自由化については、今と同じように農業団体と農家を票田にする国会議員の大反対があり、決起集会やデモが激しく行われた。結局、コメの輸入を国内消費量の4%まで認めることで、日本新党の細川政権が決断した。91年にアメリカ産のオレンジが自由化されたが、嗜好の違いから大騒ぎした割には輸入量が伸びなかった。
 滞米中の当時、私は日本の甘い、そして皮がすぐむける日本産みかんがアメリカになかったのでカナダで買ったことがある。当時、アメリカ政府がオレンジの自由化を日本政府に要求する一方、日本みかんの輸入を禁止していた。

◇ TPPを先延ばしにしてどうするのか?
 若者諸君に考えてもらうネタを提供してみよう。
 1)日本の農業と農協の改革は進むのか?
 2)農業族議員の選挙対策に国益が損なわれていないか?
 3)他の参加国は日本の参加をどう考えているのか?
                      (完)

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2011年11月2日水曜日

#59 デモはなんだったのか?ーーニューヨークからの報告

先月(10月)中旬から2週間、マンハッタンとプーキプシに滞在しました。プーキプシはマンハッタンの中心部グランドセントラル駅から列車で北へ120キロ、1時間半のところにある別荘町です。私はアメリカより近隣のアジア諸国や国内の旅行をしたいのですが、娘家族の招待にあずかってニューヨークに行ってきました。
 ちょうど反格差を掲げるデモの最中(現地ではOccupy Wall Street、ウォール街を占拠せよ、と呼ばれる)でしたから、アメリカ人の意見を聞き、現地のメディアで情報を得ました。いろいろ考えさせられることがあり、報告してみたいと思います。

◇ アメリカのデモについて 
 連日続いているウォール街でのデモでは、もう一つ目標がはっきりしない。「リーマンショックで破綻した大金融会社(銀行や証券会社)が政府から公的資金の支援を受けながら、トップ経営者が数百万ドルの年収を受け取っているのはけしからん」、「金融取引一回ごとに課税せよ」という声が聞こえる程度だ。メディアの解説では、しきりと「わずか1%余りが年収100万ドル以上を稼ぐ一方、90%の年収平均は3万ドルに過ぎないという格差がある」と言っている。テレビに映るデモの顔ぶれを見ていると、彼らの年収がとても3万ドルも得ているとは思えない。一部は富裕層が住むセントラルパーク周辺まで歩いて、大会社の経営者のアパート(日本ではマンション)前で抗議の声を上げた。何を政府に対し、あるいは世間に対して訴えているのか分からない。
 アメリカ人経営者や専門職の友達によると、デモは失業者や低所得者の不満が背景にあるだけだという。彼らは組織化されていないことから、私有地の広場と公道を占拠して多数が逮捕されている。私の印象では彼らは隙だらけだ。市民運動家の支援はあるが、世間からの支持は広がっていない。
 新聞に寄せられた読者意見には、失業率は9.5%と高いが、それでも得られる職、例えば、彼らは建設労働などきつい仕事を取らないという批判があった。私が乗ったタクシーの運転手も同じ批判をしていた。因みに、ニューヨークのタクシー運転手の職はインド、パキスタン、エジプトなど外国人系の移民にとっくの昔から取られている。街頭の屋台もほとんどがヒスパニック系だ。彼らの中には現在の低収入を我慢しながら、いつか一段上がる志を持っている人もいるだろう。
 アメリカ社会には、根強くAmerican Dream志向とフェア精神があり、どちらも日常用語として使われる。そのためスーパースターを支持し、受け入れる。成功者がいくら高額の年収を得ようとも批判されることは少ない。問題は、公的資金によって再建された大会社の経営者が高額の年収を得ることがフェア精神に反することだろう。他方、経営者にも、ルールに従って株主総会の承認を得たことだという言い分がある。彼らの年収は基本給料と業績評価によるボーナスに基づいている。
 他方、ルールから外れた不正行為は、例えば、インサイダー取引に対する司法による処罰は厳しい。日本に比べれば重罪とされる上、判決即刑務所送りだ。
 
◇ 日本のデモについて
 ニューヨーク滞在中に、世界に広がるデモを伝えるテレビニュースで東京にもデモがあったことを知った。
 帰国して私が講師をした会合の中で、12人の高中年の出席者に東京のデモについて尋ねてみたところ、2人しかテレビニュースと短い新聞記事を知らなかった。そこで、インターネットで検索してみると、出ているわ出ているわ、デモ参加者をバカ呼ばわりする、敗者と決めつける投稿がいっぱいあった。なんと冷たいことよ。デモグループは経産省や東電に行き、「反格差」と「反原発」を訴えたという。これは的外れだろう。彼らは「若者に仕事を寄こせ」の一点に絞り、開会中の国会に行くべきだった。
 しかし、私がインターネットを使って緩やかな連帯の「若者政治ネット」をつくるように呼びかけたのは、本稿#8で2009年7月だったが、私が呼ぶ中国の「ネット紅衛兵」を元祖とするインターネットを使った集会を実行したことを高く評価したい。なに、最初はこんなものさ。なんでも、新製品の販売が成功するには時間がかかるものが多い。
 若者よ、なんでもいい、将来を期して職に就くことだ。きたない、きつい、危険の3Kの仕事でもナンバーワンになることだ。本稿#18を読んでほしい。諸君が仕事を取らなければ移民に取られる。いや、今そうなりつつある。
 先日野田首相が行った所信表明演説の中には、「若者」、「雇用創出」の言葉がひと言もなかった。投票に行かない諸君たち若者は関心の対象ではないのだ。

◇ 余談、アメリカのテレビ
 アメリカのテレビを観ていて驚いたことが二つある。
 一つは、チャネルが1000以上もあること。4大テレビ局が国際版からお買い物チャネルを持っているし、地方局、通販、スポーツ、天気、宗教、映画、子供番組などの専用チャネルがわんさとある。一時に一つのチャネルしか観られないのにどうやって経営が成り立っているのだろう。そう言えば、台湾にも100チャネル以上あった。
 二つ目は、タレントから専門家までごっちゃにしたバラエティ番組が一つもないこと。政治でも経済でも、真面目な専門家による対談番組が主流だ。一般の大衆はこんな番組を観ているのだろうか。
(完)

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2011年10月12日水曜日

#58 日本の外交はお人よしーー対費用効果を考えよ

 世界の各地ではインタネットによる呼びかけで集会やデモが起きています。
 デモは私が呼ぶ中国の「ネット紅衛兵」から始まり、「アラブの春」と言われるアラブ諸国に広がって、今フランスやアメリカ各地でも行われる事態になりました。彼らのデモにはリーダーがいないこと、組織もないこと、失業率と格差改善が目的で平和集会ではないこと、若者が立ち上げたことが特徴です。アメリカでは労働組合が後追いしています。
 さて、我が国では若者の声が聞こえない。なぜなのか?若者よ、東京頼りではなく、地方から集会を起こしてみよう。

◇ 国連への拠出金を減額せよ 
 2011年度の各国の拠出金分担率は、アメリカ22%、日本12.5%(230億円)、イギリス、フランスなどヨーロッパ各国5~6%、中国3.2%、韓国2.3%、ロシア1.6%となっている。常任理事国の中でしばしば決議に対して拒否権を発動する中国とロシアの分担率が低過ぎ、日本の分担率が高過ぎることは異常と言ってよい。
 日本は世界の先進国で最悪の財政状態であり、特に、東日本震災の復興に巨額の資金が要る今こそ拠出金を減額する好機だ。2%でも3%でもいい、減額して国連に揺さぶりをかけるべきだ。
 因みに、私が滞米中の90年代に、アメリカは減額どころか、拠出金の支払いを拒否したことがある。議会が人事改革、予算削減、本部職員数カット、会計検査改革を求めて予算を通さなかったからだ。国連改革のために、ソーンバーグ上院議員(元ペンシルベニア州知事、スリーマイル島の原発事故対応で有名になった)を国連高官として送り込んだが、あまりのひどさに匙を投げた。その後、支払いを再開したが、この揺さぶりによって分担率を25%から22%に下げた。今も約千億円の滞納金があるという。
 アメリカでは長年バーチ協会という右翼団体が各地に「国連脱退」の看板を立てていた。彼らはユネスコを反米として非難し、中には「国連に金も出さないアフリカの国連高級職員の優雅なニューヨーク生活のためにアメリカの税金を使わせるな」という意見もあった。私が住んでいた町でもこんな過激な意見を言う少数派がいた。不況で失業が増えると、貧困層が急進的な愛国団体に取り込まれる。
 日本においても、拠出金の原資は我々の税金だ。3%、7億円くらいの減額ならアメリカ政府は反対できない。世界に日本の拠出金を知らしめる好機でもある。最近の震災復興や原発事故に対応する巨額予算に比べれば、拠出金の230億円は目立たないほどであるが、国家として世界に筋(論理)を通すことが日本外交に必要なことなのだ。
 
◇ なぜ日本の外交には戦略思考がないのか? 
 最近新たな投資先としてミャンマが日本企業に注目されている。
 若者世代は知らないかもしれないが、ミャンマがビルマと呼ばれる時代に、日本は長年にわたり最大級の経済支援をしてきた。それが軍事政権になると、中国と接近して援助資金を引き出している。日本の援助は忘れられた。ごく最近、ミャンマ政府は中国が進めていたダム建設を中止させた。近寄り過ぎることに警戒したのだろう。

 次は中国への支援。自民党政府は長年ODA援助として有償無償の資金を与えてきた。その中国がアフリカやアジアに国家戦略のために経済支援をしていたのだ。日本では国会議員のほかに民意として、「日本政府からの資金を使って中国政府が他国に経済支援するのはおかしい」と批判が出た。やっと小泉首相の時に中国への援助を中止した。中国政府は日本からの援助について中国国内では知られないようにしたという。我々の税金を使った支援の効果はなんだったのか?
 少しは中国の選択戦略を取り入れて、従来の日本外交を変えられないものか。

◇ 南スーダンへの自衛隊派遣に反対 
 現在、日本は南スーダンに1次に続いて2次の自衛隊調査隊を送っている。
 先日には、バン国連事務総長が来日して野田首相に、PKOとして本格的な治安部隊を派遣するように要請した。このまま行けば派遣するかもしれない。
 ここは我慢して派遣を中止する英断を求めたい。外交に対する一般大衆の関心は薄い。しかし、政府を動かすには若者世代によって民意の高まりが必要だ。
 南スーダンは今の隣国スーダンから独立したばかりであるが、中国は国境地帯の石油開発に数年かそれ以上の期間、技術者と大量の労働者を送って利権を固めている。南スーダン新政府との関係も深い。隠れ人民解放軍も支援しているかもしれない。中国政府は確固たる戦略を進めているのだ。
 さて、こんなところにのこのこと自衛隊部隊を送ることは誰のための利益になるのか?
 財政難の中、復興資金と国内経済の再建が緊急の課題であるのに、国家予算つまり税金を使う余裕はない。防衛予算も「選択と集中」に従い、東アジアの安全と権益を確保するために使われるべきだ。内向きになる、という批判には耐える時だ。
 顧みると、イラク戦争に航空輸送部隊を送る時、国会の質疑で質問者が「危険だから自衛隊派遣に反対」と言っていた。これが海外で報道されていたら、恥ずべきことだった。軍隊に対して安全が保障される紛争地などあり得ないからだ。
 これからは、派遣2原則として、自衛隊は人道のための派遣が主任務であることと、攻撃的な戦闘には派遣しないことを海外でも政府が強く広報してほしい。危険だから派遣しないと言うのは国家の面子に関わることだ。
 幸いなことに、 これまでの自衛隊派遣では戦死者が一人も出ていない。世界の軍隊派遣では奇跡か強運と言えるだろう。しかし、もし不幸にも戦死者が出たら政治家、大衆からメディアまで政府を批判して騒ぎ立てるに違いない。もともと殉職者が出る危険は自衛隊員に限ったことではない。現に東日本震災では何十人という警察官と消防員の殉職者が出た。
 参考までに、最近のデータによると、各国のPKO派遣数は下記の通り。
 中国 2041人、韓国 604人、日本 200人、ロシア 100人(航空輸送部隊のみ)。
 中国の派遣が突出しているのは、自国の権益を守るためだろう。世界に嫌われても気にしない中国外交にはなかなか太刀打ちできない。日本外交はどうするのか?
 最後に、野田首相には南スーダンへの自衛隊本部隊を派遣することを中止してほしい。万が一何かあれば政治が混乱することが避けられないからだ。
 経済政策をどうするのか?若者の雇用創出をどうするのか?
 若者諸君、ぼやぼやしていると財政赤字のツケを回されることになるぞ。(完)

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2011年10月4日火曜日

ネット月刊誌『言論大阪』#18,10月,2011  関西の電力危機はこれからーー関西はどうなるのか?

 前回#17「大阪人の節電3.8%」で関西電力の停電対策について書いたのは9月14日でした。偶然にもその翌日、韓国では予告なしの大停電が起きました。今回はこれから書くことにします。

◇ 韓国の大停電 
 電力使用オーバーで突然韓国全土にわたり大停電が起き、復旧に5時間がかかった。平日の午後3時半のことだったから、企業から家庭、交通信号、ATMにいたるまで被害が広汎に及んだ。
 韓国では発電と送電が分離されているが、どちらも公社、つまり国の機関だから、政府は損害賠償をすると発表した。読売新聞など日本の新聞が報道した。
 電力公社は大口需要家に自主節電を呼び掛けていたというが、関電の例ほどには官民一体の徹底がなかったようだ。私が思うに、韓国は日本の政治や先端技術ほどには民生の情報収集を行わず、特に関電の動向には関心が低かっただろう。
 韓国の事例から、停電の復旧には5時間かかるという目安が分かった。

◇ 読売新聞大阪を叱る
 関西の節電率について、読売新聞は三つの違うデータを報道した。
 先ず9月11日の記事では「関電管内 節電率わずか3.8%
 続いて9月13日の記事では「節電浸透 家庭用電力16%減
 さらに9月23日には「目標乱立 混乱招く」という見出しの文中では、節電率が約5%にとどまった、と書いた。
 これから言えば、混乱を招いたのは読売新聞の方だ。 
 その日の大阪版の紙面を決める編集会議が行われると聞く。同じ記者が書いたのか、それとも別の記者が書いたのかは分からないが、いずれにしても三つの記事には整合性がないことに会議では誰も気づかなかったのか?近々の記事を記憶していないのか?大阪版の紙面は限られているのだから、せめて大阪版の編集をしっかりやってもらいたい。
 まだ新聞が伝えないことがある。例えば、万が一停電が起きたら緊急節電をどうするのか?そのまま電力供給を復帰したら遮断回路が再び飛ぶからだ。テレビ番組は後追いばかりで、出演者にも信を置けないので、私は新聞を頼りにしている。後追い報道だけではなく、先を読むことも新聞の使命だろう。
 私は滞米時代を含めて読売新聞の読者である。時々保守偏重の記事があるが、中道保守のバランスを評価し、朝日新聞など他紙はインターネットの要約版か、図書館で読む。
 かつて滞米時代にシンポジウムの基調講演講師として招かれたことがあり、全国版には「論点」に3回採用されたことがあるので、恩義の気持ちもある。読売月刊誌にも長い論文を2回掲載してもらった。かつて東京本社の親しかった知己はみんな定年退職されてしまった。

◇ 関西の電力危機はこれから
 関電は11基の原発を持っている。現在このうち7基は定期検査中か運転待ちで動いていない。さらに来年1月には残る4基も定期検査に入るので、全基が止まると言われる。
 総発電力の半分以上を原発に頼る関電にとって死活問題だ。それどころか企業から家庭にいたるまですべて影響を受ける。
 原発問題については「若者塾」#57と55で書いた。批判も受けたが、冷静になって現実を直視してほしい。
 東電の原発事故から余りにも大きな犠牲が生じた。しかし、これにより各電力会社の安全に対する緊張が生まれた、各社の社内改革も進む、産官学の利権集団と化した原子力ムラも解体される、など原発の安全性が高められることになった。
 関電による節電要請は技法においてまずかった。その一方で彼らなりに危機感を持って対処し、今回は最悪の事態を回避した。
 問題はこれからだ。まだ現実に電力危機がある限り、関西に新たに雇用を作り出す企業の進出は望めない。私が本稿#4で提唱しているように、八尾空港が伊丹空港に移転した後の跡地を企業に売却することも困難になっている。
 原発について諸君はどう考えるか?関西の市民はどう考えるか?

《情報交流》
 関西経済同友会が、御堂筋に自転車道と水路を設ける提案をした。次世代の大阪をつくるのに素晴らしい提案だ。若者諸君も支援してほしいと思う。
 もう一つ欲をかくと、御堂筋のどこかからなにわ筋に抜ける自転車道をつくり、梅田公園まで走れるようにしてほしい。梅田公園は「うめきた」に代わる名称で、本稿#13で詳しく書いた。
 
 




 
 

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2011年9月28日水曜日

#57 経済政策こそ最重要課題ーー経済が震災と原発事故を支える

 若者諸君、どうか慎重に読んでほしい。今回は問題発言と取られかねない内容を含みますが、私が信じることを書きます。次代に深くかかわることです。

◇ 新内閣も経済政策より原発事故対応に偏重
 今月発足した野田内閣には、首相を除く17人の閣僚には原発担当と震災復興担当の2人の大臣が含まれる。その他原発と復興にかかわる会議体や委員会が置かれている。
 他方、震災復興を含む国家経済の根幹を担う大臣は経済産業大臣だけで、しかも農業が専門である前大臣は舌禍で辞任した。この任命をまったく理解できなかった。しかし、幸いにも更迭するきっかけになった。私は経済で救国の任に当たるには、通産省のエリート官僚であった岡田前幹事長が最適だと思っていた。
 新大臣になった枝野前官房長官は、弁護士で経済の経験がなく、その上、官房長官の時に原発事故対応に深くかかわった。彼の思考には原発がつきまとうだろう。しかも東電の管轄は彼の職務範囲だ。こう見てくると、政府の組織と戦力は国の経済復興より原発対応に偏重していることが分かる。言い換えれば、震災復興と原発対策には充分対応できる体制になっており、しかも目に見えやすく、一本にまとまっている課題だ。
 他方、経済政策には諸説があふれており、今なお議論の段階にとどまっている。政府は議論するだけで決められない。従って実行もできないでいる。いや、民主党政権になってからこんな状態のままだ。今、経産省は素人大臣が辞任したり、改革を訴えるエリート官僚が退職に追いやられたことで批判の対象になっている。この国家の経済を預かる経産省自体がトラブルなのだ。しかし、見方を変えると、企業経営でもそうであるが、トラブルの時こそ改革のチャンスなのだ。枝野大臣は権限のもとで何でもできる。
経済とは経国済民(または経世済民)のことであり、つまり国を経営し、国民を支えることを意味する。
 経済再建によって税収が増えることは、震災復興と原発対応にも支援になる。経産省は震災と原発を他に任せて、ひたすら実効ある政策を立て、果敢に実行してほしい。

◇ 反原発は世論の支持を受けやすい
 本稿#55で「原発ヒステリー」とぎらつくタイトルを付けたこともあって、予期通り評判が良くない。私が原発推進派に取られた。それではどうするんだ?という質問を受けたので私の考えを述べてみよう。
 先ず、今ある原発を段階的に廃止し、将来は全廃する。おそらく30~50年くらいかかると言われる。
 第二に、新規に建設しない。新規建設を止める結論によって代替発電の開発が進むだろう。
 第三に、既存の原発は古い順に廃止していく。従来の安全基準に立地によっては津波対策を強化する。
 第四に、放射能廃棄物の再処理技術の開発を継続し、世界で最高水準の新技術を開発する。

 日本の原発は安全である、と言えば反論されるだろう。しかし、工業施設の一般的安全性から見れば、原発は安全である。福島原発の事故は対応を誤ったことによる突出した例外だ。
 他方、化学プラントも事故を起こすし、飛行機だって墜ちる。我々はそういう世界に生きている。原発との共通点は、時に起きる小事故が保守技術によって修復されていることだ。そして決定的な違いは、原発が最悪の場合に放射能漏れを避けられないことだ。だから原発はいつか廃止しなければならない。この点については国民の総意がある。

◇ 野田政権は民意を超越できるか 
 いずれ総選挙がある。衆参同時選挙も言われている。
 もし候補者が私のような意見を演説で述べれは落選するだろう。まして選挙基盤が弱い小沢グループを中心とする当選一回議員にとってはなおさらだ。だからと言って、民意の支持がある性急な反原発が本当に問題解決になるだろうか?
 現在、国の経済を支える企業は円高、電力不安など4重苦とも6重苦とも言われる困難に見舞われている。このままでは税収も増えない。震災復興と原発は担当組織に任せて、政府と経産省は国全体を見て有効な手当てを迅速に尽くしてもらいたい。
 緊迫した財政状況においても、文部科学省は来年度予算の概算要求で全学校に緊急地震速報を設置するのに75億円、全小中校の耐震化に1500億円、小学校に放射線測定器を配るために7.4億円を盛り込もうとしている。これらは震災に悪乗りしているようなものだ。なぜ緊急度の順に、例えば、3年計画としないのか?こんな例は他の省庁からも出てくるだろう。大臣と官僚も歳出削減の時代認識が足りない。
 党内野党を抱える野田首相は、従来型予算編成を変えるのにひと苦労を強いられる。予算枠に縛られる企業経営者なら、誰もが「選択と集中」のキーワードを認識している。野田首相にこの言葉を贈りたい。

◇ 若者よ、アクションを起こせ 
 最近、政府関係者から雇用創出の言葉を聞かない。ここで私のささやかな提案をしてみたい。
 一つは、失業中の若者に運転免許証を国費支援で取らせること。返還を求めると回収に役所の事務コストが増えるから渡し切りでよい。こうすれば職種の機会が広がり、いずれ所得税によって投資を回収できる。
 もう一つは、海外から受け入れる研修・技能実習の制度を一時中止することだ。本当かどうか、中国からだけでも20万人になるという。多くの中小企業では労働者として使っている。中には最低賃金の半分しか支払わず、長時間労働を強いている。彼らは本国で職が得られないので日本に出稼ぎに来ているのが実態だろう。私がかつて改革の経営者を務めた中小企業でも技能実習というより、労働者として使っていた。
 明らかに賃金格差を悪用して日本の若者の雇用機会を奪っている上、日本政府が補助金を出しているという悪制度だ。中国人が帰国後に反日感情を持ったのでは投資効果もない。
 滞米中に80年代不況と呼ばれた時代を経験した。労働組合を先頭にして、「外国人より自国人を優先しろ」と世論が高まった。外国人排斥に結び付く悪い面があった。
 日本ではこんな世論もないから、日本人はおとなしいと思う。
 政府は即効性がある雇用対策を打て。若者はネットで呼び掛けて自ら勝ち取れ。
                                    (完)

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2011年9月14日水曜日

ネット月刊誌『言論大阪』#17,9月,2011  大阪人の節電3.8%ーーここに大阪の風土が出たか?

 
 9月に入ってようやく電力危機が終わろうとしています。来る冬に暖房によって再び電力危機に見舞われるかもしれませんが、それまでは一息つけそうです。
 他方、9月になるや台風12号が襲来、和歌山、奈良、三重の各県に大雨災害をもたらしました。伝えられる災害の規模は自治体の手に負えるものではなく、法律に基づいて「激甚災害」に指定され、国から復興資金の支援がなされるでしょう。金がない国も大変だ。
 それにしても、台風の通過地域にありながら、大阪は今回も災害の被害とは無縁。皆さんはどう思いますか?

関電管内の節電3.8% 
 関西社会経済研究所が行った調査によると、関電が7月以降要請した15%、政府の10%の節電目標を大きく下回り、関電管内の節電率は3.8%にとどまったという。全国平均の9.9%にも遠く及ばない。にわかには信じがたい。関電の唐突な要請に対する反発があったかもしれないが、調査に誤りがあるのではないかとさえ思う。
 関電の要請より早く自治体連合の関西広域連合は5~10%の節電を呼び掛けている。いずれにしてもこれだけの要請に対して企業や市民は応えなかったのだ。
 関電管内というのは地域が広いのであるが、ここでは地域で最大の電力を使う大阪人について書いてみることにする。
 大阪に出戻りしてから16年になるが、かねがね大阪の風土についていろいろ感じていたことは、どうも大阪人は私の言葉で中益の心に欠けていることが一つだ。中益とは、私益と公益の中間のことで、献身とか奉仕とか崇高な公益の心ではなく、ちょっとだけ公益のために貢献することだ。例えば、前回で述べたように、交通ルールに従って右側を歩き、自転車は左側を走るようなこと。電車では優先座席を年寄りに譲ることもそうだ。誰でもできることだ。
 話を戻すと、節電の心がけも中益ということになる。私は節電率3.8%に大阪の風土が出たと思っている。

 《追記》この#17稿を書き終わってから、もう一つの新聞記事(読売、9/13)が出た。これによると、関電の8月の販売電力量が前年同月比で家庭用が16.1%の減少、大口需要家を含めた平均で9.4%の減少だった。
家庭用では7月が1.5%増だったから市民も節電努力をしたのだ。私は一片だけの情報に頼ることは危ないと改めて自省した。

関電の節電要請はなんだったのか? 
 関電の15%節電要請には私も驚いた。だから突然の大停電が設備に損傷をもたらし、復旧に時間がかかるのだと当初推測した。停電が長引けば、温度と湿度を一定に保たなければならない半導体製造の工場、医薬品の研究所、冷凍倉庫などが、受けた直接被害に対して損害賠償の請求をするだろうと推測した。
 ところが、電力会社の技術者で定年退職した友達に尋ねたところ、電力設備の損傷は起きないシステムになっているとのこと。というのは、需要の増減に応じて発電量も自動的に調節されるようになっているからだ。需要が発電量を上回る時には他の電力会社から送電を受けられるようになっている。最悪の場合でも遮断機が働いて送電が止められ、発電所に被害が出ない。従って復旧に時間がかからない。こういうことだった。
 そうならば、なぜ関電は突然節電要請をしたのか?
 うがった見方をすると、広域行政の節電目標5~10%では不安があると判断した関電は15%に上げることで、経営責任を担保したのだと思う。というのは、15%以下で万が一全停電が起きても需要家に対する損害賠償の責任から免れるからだ。
 現実に東電の賠償責任の影響を受けて、大阪のテレビなどが論理と感情をごっちゃにして騒ぎ、誤った世論がつくられる結果、関電も賠償に巻き込まれる恐れがある。東電が巨額の賠償を負うのは原発事故に対してであり、関電とは事情が違う。また、関東での政府による節電要請には法的強制力があるのに対し、関電に対する政府要請は自主的な対応である点にも違いがある。
 関電が求めた節電要請は、電力事業者として停電をなんとしてでも起こせないという面子か使命感があるかもしれないが、私は会社を守る経営者の判断ではなかったかと思う。

我が家の節電と被害
 関電からの請求書に書かれた我が家の前月に対する節電率は30%を少し超えた。
 もともと年初から収入減に備えて経費の節約プロジェクトを実行していた。電気について言えば、スイッチの入り切りを徹底して無駄な消費を抑える、テレビは極力観ない、電球を節電型に換える、などの心がけを実行していた。ただ、電球は切れた機会に蛍光電球に取り換えたが、LEDは高いので見送った。居間にある二つのシャンデリアには各々3個の電球が付いており、切れた時にだけ蛍光電球に換えるので、まだ2種類の電球が付いて見た目が良くない。
 各地の自治体が役所の蛍光灯を一斉にLEDに取り換えたという話を聞くが、彼らは大量の蛍光灯をどう処分したのだろうか?LEDをつくるにも相当の電力を消費するので、もったいない気がする。
 さて、こんなところに関電の節電要請が出た。我が家を取り仕切る家内はさらに節電を強化して、原則クーラー禁止をやった。1ヶ月後、私は睡眠阻害でばてた。最近では少し規制緩和になり、寝る時にはタイマーで2時間の使用を許された。それでも節電率は19%だった。 (完)

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2011年9月5日月曜日

#56 上海たより(3) 中朝国境の町

 日本のメディアが伝えない現地情報についてI氏からの寄稿です。今、国連決議によって世界は北朝鮮に対して経済封鎖をしていますが、中国の北朝鮮支援はざるに空いた大きな穴みたいなものです。私の見立てでは、いざ北朝鮮が破綻すれば大量の難民が中国に流れ込む、韓国との38度線国境が揺らぐなどを中国政府が恐れているのではないでしょうか。
 若者諸君、長文でありますが、貴重な情報を終わりまで読み切ってください。諸君の得意な台詞、「オレには関係ないよ」は危ない。

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 ベランダの朝顔の病葉を摘みながら、ふとこの夏を振り返ってみると、中国東北地方の遼寧省そしてコリアに関することに多く触れたことに思い至りました。

 きっかけは、古川薫の小説。それを渡してくれたのは、滋賀県野洲市の得意先社長でした。戦前の上海生まれの氏は、児玉源太郎の信奉者でして、児玉神社や生家跡を山口県周南市(元は徳山市)まで訪ねて行くくらい熱心な方です。徳山小学校を卒業した縁のあることから、児玉公園で同級生の吉田光雄君(リングネーム長州力で知られています。ミュンヘン五輪に韓国代表で出場)たちと草野球をして遊んでいたなどと話すと、とても喜んでくれました。
 その後、社長から児玉源太郎や乃木希典に関する本が届くようになりました。二年ぶりのお会いしたこの夏は、古川薫の『斜陽に立つ』を渡してくれました。司馬遼太郎が偏頗な思い込みや個人的な嗜好を、「歴史」のように仕上げている誤謬を正した書物という位置づけの本でした。主な舞台はやはり日露戦争、そして遼東
半島の旅順でした。
 それと前後して、東京の岩波ホールで羽田澄子監督の『はるかなる故郷~旅順・大連~』というドキュメンタリー映画、というか、戦前に監督自身が送った外地生活の跡を辿る記録映画を見ました。『人間の条件』や『風雪の門』とは違って坦々と旅順や大連を映像化され、声高な意見が聞こえてこない映画でした。

 以前から気になっていた遼寧省丹東市へ出張したのは7月11日でした。25年くらい前に、開発テーマを探そうと、東北三省をかなり奥地まで歩き回ったことがあります。コーリャンで合板を作れないか、良質の広葉樹を探して突板にする、野生黒スグリからエキスを抽出する、滑石(タルク)の第4の鉱区を見つけよう・・・ 黒龍江省のソ連国境近くや吉林省の長伯山系の山奥を巡りながら、地元の人から、一つ山越しゃ他国(朝鮮)の町だよと言われ、戦前にこんな所まで鉄道を敷いて、日本人が分け入っていたことに、改めて溜息をついたことを思い出します。
 そのような山間の鉄道を乗り継いで、延吉から通化そして丹東に辿りついたことがありました。それ以来の丹東訪問でした。

 この数年、丹東は注目され続けています。北朝鮮と鴨緑江を隔てただけの国境の町ということもあり、政治的にも経済的にも要地であります。5月に、鉄道好きの総書記が中国各地を訪問した直後に、中朝国境の黄金坪島に共同開発区を作る、という情報が流れ、気の早いマスコミは「いよいよ改革開放か」と騒ぎ立てました。安全保障貿易の観点からも、現地の実態を確認しなければならない、と大連から高速道路を3時間半ほど走り、丹東を訪れました。
 繊維縫製事業で提携しているボスの伝手の御陰で、丹東市政府の要路の方と面談ができました。「極めて微妙な事柄である」と前置きがあり、慎重な言葉の拾い方をした呟きを聴き取らせてもらいました。
 
 ・丹東市の開発は、旧区+新区+港湾の結合で着々と進んでいる
 ・国家事業として東北開発は至上命題であり、その鍵は大連郊外の長興島
  開発区(次期首相と目されている李克強副首相が遼寧省のトップの頃に、
  旧満鉄の開発資料を参考に指定された、と長興島開発誘致関係者の話)と
  丹東開発区である
 ・これらの開発は丹東独自のものであり、隣国とは全く関係ない
 ・中朝共同の黄金坪開発区のテープカットが6月に行われたのは事実だが、
  具体的な作業は、未だ緒にも就いていない
 ・相手方の立法も資金手当ても為されていない(ようだ)
 ・中国からの対朝貿易の約80%は丹東経由であるが、見返りに安価な労働
  者を連れてきて、活用しているなどというのはデマである。彼の国の出国
  規制の厳しさはご存知の通り・・・・・・

 面談後、ボスの案内で黄金坪島地区に連れて行ってもらいました。
 島と言っても、小川で隔てられている地域で一部は陸続きになっていました。鉄条網と高電圧線で二重に囲まれており、中国語と英語で三ヶ条のお達しの高札がありました。
 ①乗り越えてはならない ②物を投げ入れてはならない ③話したり、物々交換してはならない。
 撮影禁止とは書かれていないことを確認して看板を撮りました。
 境界の向こう側は、草茫々で彼方に小さな建物が見えるだけでした。
 とても開発の槌音が響く、といった光景ではありませんでした。丹東側の政府機関や体育館などの構造物と境界の向かいの草地の間に立ち、ボスは一言、「30年前に決心した国と未だに決心が付かない国の違い!」と語りました。柵の隙間から、片足だけ越境(CROSSING)して、役人との会食場へ移動しました。
 とても親密な内輪の人たちだけの会食だったせいか、かなり興味深い話も聴けました。食事途中のアトラクションで、久しぶりに民族楽器の長鼓の演奏などを楽しめましたが、こちらの意識過剰のせいか、007の世界を前にしているような気分もありました。

 早めに終わった会食のあと、ボスたちと離れて、タクシーで旧区探索に出掛けました。途中にライトアップされていたのは、鴨緑江を跨ぐ二代目の橋であり、列車が通らない時にはトラックが使う、との事。その少し上流に日本が架けたという初代の橋が、朝鮮戦争の際に米軍に空爆された残骸のままにあり、観光名所化している由。
 運転手や足裏マッサージの兄さんに聞いても、異口同音に答えるのは、隣国からの人は外観で直ぐに判る、勲章付きの軍服の団体か選ばれた高官子弟だけ。一般人が来れるはずがない、との言葉でした。またこの地域は元々満州族が中心であり、延辺地区のような朝鮮族が多数を占める土地柄でもないことを教えてもらいました。

 翌朝、朝霧の向こうに広がる緑の土地を眺めました。まさに指呼の間とはこの事と感じる実質的な距離と、政治が隔てる距離の違いの大きさに改めて不条理を感じました。1959年12月から始まった北朝鮮帰国事業で総計9万3340人の在日コリアンや日本人配偶者が「帰国」(菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業 「壮大な拉致」か「追放」か』中央公論新社より)。その中には『キューポラのある街』で吉永小百合・市川好郎が演じた姉弟の子分のサンちゃんのように新潟港向かった子供もいたでしょう。また、二十歳頃から交流のあった在日コリアン夫婦が突然音信不通となり、旦那が勤務していた北朝鮮系貿易会社に尋ねに行っても、そんな人が在職していた事は知らないといった鉄仮面の反応は今も鮮明です。

 直後の東京出張の際に、ソウルオフィスの責任者に決まったO氏と新宿で韓国映画を観てから、彼の案内で新大久保のコリアンタウンで会食しました。
 名作『鯨とり』が23年ぶりにリバイバルされるという週末でしたが、客は我々を含めて3人だけでした。『鯨取り』は大阪天六で、やはりO氏と二人で観て以来。主演のアン・ソンギはその後国民的俳優として信頼を集めており、『祝祭』『シルミド』そして小栗康平監督の『眠る男』にも出演(楽しみに観に行きましたが、ずっと眠るだけで台詞なしでした)。『鯨とり』で失語症の娼婦役を好演したイ・ミスクは、現在では「美人だけどイケズなオバサン役」に嵌まっているとは、O氏の受け売り。1988年のソウル五輪前の混乱期閉塞期の韓国の映画は骨太でした、とは現在の韓流映画についていけないイケズなオッサンの抵抗の弁です。
 そして、日本女性のグループがマッコリをぐいぐい呑んでいる、コリアとの接点の一つの新大久保へ。丹東の話をするには、雰囲気があまりにもアッケラカンとしすぎて、彼我の落差を感じるばかりでした。ましてや、コリア問題の源流の一つは日清・日露戦争に遡るのではないか?といったことを話題にしていたグループは居なかったでしょう。

 8月21日の日経新聞には、お召し列車でロシアに向かった総書記の動きとともに、「黄金坪は6月の着工後2ヶ月を過ぎても、造成などを進める動きはない(中国側丹東の経済関係者)」という記事が載っていました。
 ただ、鴨緑江に架かる現在の橋の下流には、大型の橋が建設中であり、丹東側は橋から、そのまま大きなスペースの土地に直行できる閉鎖型の道路が造成中でした。極めて微妙な問題なので軽率な分析は控えるべき
でしょうが、「保税区」に仕上がるのではないか?と推測しました。
 また国務院新聞弁公室編集の『中国的対外援助』(2011年4月人民出版社)には、2万3000文字のなかで、2ページ目の序言に「朝鮮」の2文字が記載されているのみで、統計や文章はアフリカ、南米、東南アジアに対する援助についてのみでした。ここにも極めて微妙な問題扱いの一端を観察するのは穿ちすぎでしょうか? 丹東の関係者に感謝するとともに、今後の動向は一筋縄では無く、定期的な注視が必要だと感じています。
              (了)




 



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2011年8月28日日曜日

#55 原発ヒステリーに染まるな――危ないメディアの構造

 日本全土がメディアによって性急な脱原発に煽られ、それはヒステリー症状を呈しています。メディアは我々を原発に賛成か、反対かの二者択一に追い込み、さらに賛成派は悪で、反対派は善という色分けを強めています。
 若者諸君、なんでも世の中が一方的に流れたら、警戒する必要があります。こういう時には、「待てよ」と立ち止まってください。
 皆さんがこの稿を読まれる時には民主党の新代表が決まっているでしょう。反原発だけには候補者間に対立はなく、争点にはなっていません。しかし、原発は国政の課題の中でほんの一部です。
 
◇ 脱原発の前に技術開発が必要
 核兵器がいつの日か世界において廃絶されることは万人の願いだ。これに何人も異論を持たない。核が安全保障のための抑止力になっているとは言え、我々の生活には直接必要がないものだ。
 他方、原発からはこれまで40年の間、生活に直接恩恵を受けてきた。東日本大震災がなければ、今のように性急な脱原発運動はこれほど大きくならなかっただろう。
 菅首相の発言を伝える新聞では、彼は「脱原発」という言葉を使っていない。「原発依存の社会を変える」と言っている。例によって、メディア、中でもテレビが世論を煽るためにつくった造語だろう。テレビの出演者たちがこれに悪乗りした。彼らの多くは脱原発でテレビに出て飯を食っている。きわめて少数派が性急な脱原発に流されない発言をしたとしても、勢いの中では消されてしまう。
 今、脱原発のためには代替の発電が必要という当たり前の議論はさておいて、私はもっと重要なことが見落とされていると思う。
 世界を見るといい。中国は無理があると思うほど急激に原発の建設を推進しているし、ほかにも原発技術では中後進国が原発を推進している国があまたある。日本も含めて先進国のメーカーが原発を建設しても、その後の保守技術がついていかない。特に、中国の安全技術は危ない。原発技術者の底辺がせまいからだ。もし中国で原発事故が起きれば、放射能が黄砂に乗って日本に流れてくることに対しては防ぎようがない。
 日本だけではなく、世界的に原発が衰退するとなるなら、新たに専門技術者が原発の仕事を選ばなくなるだろう。原発技術からの人離れをどう止めるのか?
 そのために日本が貢献できることがある。
 それは今回の原発事故から学んだ安全技術を総括した上で、さらに研究を進めることだ。具体的には、既存の原発の安全性を高めるほかに、使用済み燃料の処理技術を開発することだ。「もんじゅ」の再処理炉が行き詰まっているが、従来の発想にとらわれない気鋭の技術者を投入して開発を完結することだ。さもなければ、使用済み燃料棒が世界でどこまでも増え続けることになる。
 それでも、いかに処理しても最後には放射能廃棄物が残る。これが原発の究極の問題だ。だからこそ、廃棄物を最小にする再処理技術が必要なのだ。日本はこれによって世界に貢献できる。
 若者よ、千年に一度と言われる大震災に過剰反応するなかれ。若い世代の技術者に世界貢献に挑戦することを強く望みたい。

◇ 菅首相の功罪
 菅首相の功績に関しては、メディアは罪だけしか報道しなかった。
 ところが、首相には大きな功績がある。現実と幻想の違いさえ見定められない鳩山前首相の後を受けて政策を大きく転換したことだ。私は、同じ政党の首相が前首相とまるっきり反対の政策に変えた例をほかに知らない。
 因みに、鳩山前首相の理念と政策を思い出してみよう。
 「命を守る政治」、「友愛外交」、「アメリカと中国に等距離の外交」、「CO2ガス25%削減」(彼は原発維持だったのだろう)、「普天間基地の県外移転」など。
 今日の日本を見れば、彼がいかに国を危うくしたか分かる。菅首相も民主党もよくぞ彼を首相から降ろしてくれたものだ。
 ところが、菅首相は東日本大震災以後、首相から市民運動家に変身してしまった。
 広島と長崎の平和式典において、さらに福島(東京だったか)の反核集会でも反核と反原発をごっちゃにして演説した。退陣の腹を決めてからの最後っ屁だったか。
 菅首相はよく耐えた。なにしろ、会社の取締役や大組織のリーダーも経験したことがない閣僚に足を引っ張られた。中立であるべき西岡参議院議長からは背中に矢を撃たれた。取締役(閣僚)が取締役会(閣議)で社長(首相)に対し、反対意見や批判を述べることは許されるが、外部のメディアに対し発言することはもってのほか。こんなこともわきまえない閣僚の無知さよ。
 若者諸君よ、この経済危機にあって、鳩山前首相も菅首相も、そして直接責任者の海江田経産大臣も、雇用創出をはじめ景気回復などの経済政策には手を打てなかったことは、諸君たちに不幸だった。声を挙げてほしい。

◇ 次期首相
 よもや経済評論家、テレビキャスター出身の海江田大臣が首相に選ばれることはないだろう。祈りたい。
 いまだ政局と選挙にしか頭が働かない小沢元代表と、頭の構造がおかしい鳩山前首相に操られる首相なんて悪夢だ。両者に共通する点は経済音痴だ。
 小沢組長の睨みと金縛りで自主意志を抑えられている新人議員たち。無記名投票の代表選挙で自主投票をやれるかどうか。新人議員たちよ、新しい次代の政治に挑戦してほしい。

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2011年8月14日日曜日

ネット月刊誌『言論大阪』#16,8月、2011  大阪の自転車無法化ーーかつて大阪市民は動いた

 新聞が「自転車事故が10年で7倍に増加」と報道しました。多分、大阪府内の自転車事故数は全国最悪かもしれません。
 私は14年前に刊行された小著『大阪がかわる 地方がかわる』の一節「自転車無法地帯を行く」で自転車の法規無視に驚いたことを書いています。それから改善されるどころかまだ悪くなっています。最近、警察は全国的に自転車利用者に法律を守らせることを重点課題に掲げました。成果に期待したいですね。
 今月は大阪の交通に関する話題を取り上げてみます。

◇ かつて大阪人は改善に動いた
 私が高校生の頃だったか、大阪市は車の警笛が鳴り響く騒音の町だった。
 それがある日、条例か、行政指導か、大阪市民運転者が全面的に協力して警笛を自粛し、今日のように町が静かになった。勝手気ままな市民もその気になればできるのだ。
 ところが、自転車走行者はもっとたちが悪い。私が住む茨木市では交通マナーの悪さは自転車、歩行者、バイク、車の順だから警察の努力がどこまで通じるか。中でも女の自転車走行者の間に右側通行、一旦停止無視、携帯電話をしながらの走行が常態化している。警察は彼女たちを甘やかさないでほしいものだ。
 14年前に執筆の調査で警察署を訪ねた時、なぜ自転車の法規違反を取り締まらないのか、訊いた。すると、担当警察官は取り締まり困難の理由を二つ挙げた。一つは、違反件数が多過ぎて手に負えないこと、他は送検しても裁判所が取り上げないことだった。この状況は今も変わらない。それでも、ダマテンで取り締まり日を決めて罰金切符を出せば効果があるはずだ。
 私も小路の角で右側走行で曲がってきた女に痛い目に遭わされたことがある。それ以来予期して衝突を避けたことは何度あったか。ある時、穏やかに「自転車は左側だよ」と忠告したら、「放っておいて」と言われた。
 もう一つの例。住宅地の小路を通っていた時、交差するさらに細い小路から自転車が飛び出してきて、私の自転車の前輪に接触した。一旦停止もせず、右左も確認しない年寄りの女性だった。無知なのか、勇敢なのか?私は詫びる彼女に言った。「これがね、車だったら塗装に傷をつけて、3万か4万円の修理費を請求されるよ」と。彼女はただ「そうなんですか」と言っただけ。
 恐いことは、刑事犯罪者と違い、自転車走行者は普通の市民であり、違反者の底辺が広いことだ。中には法律さえ知らないのが少なくないだろう。

◇ 短期の駐輪場が増えた 
 大阪市も当市も歩道に不法駐輪する様が目にあまった。障害者用の道もお構いなし。歩道の一部に自転車専用道を設けると、ここにわんさと不法駐輪する不届き。
 茨木市においても不法駐輪対策は長年の課題だった。対策として不法駐輪車をトラックで運び、違反者に不便と罰金を課してきたが、効果に限界があった。「オレは3回やられた」という常習者が後を絶たないことから、私は他市で見た短時間専用の駐輪施設をつくることを提唱していた。「市民は一日に100円の駐輪費を惜しまないが、30分には金を払いたくない」という心理に行政が応えなければ問題解決にならないからだ。 最近、段違いの枠に駐輪する施設が増やして、行政の対応がめざましい。
 他方、市民のマナーの悪さは変わらない。私は大人をあきらめて小学校から交通法規の教育を強化することを提唱している。自転車に限らず、「法律を守らなければならない」ということを教える。次代には改善されることを期待するほかなさそうだ。

◇ なぜ左側を歩くか 
 大阪市でもどこでも多くが左側を歩く。なぜなのか?
 法律遵守の意識が弱いこともあるが、地下鉄やJRの駅ではわざわざ左側通行を指示していることも弊害になっている。おそらく、人の流れを考えると左側通行がなめらかになる、と考えたのだろう。私は検証もしない机上だけの考えだと思っている。こういうところは実に歩きにくい。
 そこで、「人は右、車は左」という原点に帰って、歩行者の右側通行を徹底してはどうか。現状より悪くなることはないだろう。
 私の考えに対して、かつて知人は「大体やな、生理的に人は左側を歩く方が快適なのや。ほら、競馬でも左回りが多い。馬の習性に合っているのや」と言った。人と馬、私は今も本当にそうなのか?と頭が混乱している。
人か馬か、生理論はどっちてもいい。要するに、各自が勝手に法律を解釈して違反を正当化するなら、世の中が乱れるのは当然だ。今ある法律が気に食わないのなら、法律を変える運動を起こせばよいのだ。

◇ 一世代前の大阪人は先駆的だった 
 警笛規制に協力して大阪を静かな町にした先人にならって、大阪の交通混乱を改善しよう。警察の取り締まりに期待するより、今の大阪人も改善の実行ができるはずだ。
 かく言う私は、大阪人の一人としてどう実行しているか?先ず、法律を守らない自転車走行者や歩行者に対しては改善をあきらめている。次に、自分の身に降りかかる火の粉は払う。例えば、右側通行で来る自転車に対しては道を譲らない。大抵、あわてて左側に変えてくれるが、中には衝突寸前まで突っ張ってくるヤツがいる。終わりに、交通法規はバカ正直に守る。ただし、市街地の歩道を走る法規違反をしている。

《情報交流》美術愛好者からの情報。大阪市立近代美術館の心斎橋展示室という施設があり、8月30日まで所蔵品の一部を展示しています。地下鉄心斎橋駅から長堀通を東へ徒歩5分、東急ハンズの隣りです。私も今週甲子園観戦の帰りに絵を観てきます。
 

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2011年7月30日土曜日

#54 小説『オー、マイボーイ』--アメリカの高校野球

 来週6日から第93回高校野球の夏の甲子園大会が始まります。また、私の小説『人間機関車・呉昌征』(「岡本博志で検索すると最初の頁の中ほどにある)で書いた台湾の嘉義農林が甲子園に初出場して準優勝したのは1931年のことですから、今年で80年になります。
 この記念すべき夏に、嘉義農林(今は嘉義大学)の学長とOB会一行24人が、入場式を観るため甲子園を訪問します。
 さて、甲子園はさておいて、今回は私がバッテリーコーチをしたアメリカ高校野球部を舞台にして、野球部員との交流を題材にする小説を披露します。日本の高校野球とは違いが大きいことに、皆さんも興味を持たれると思います。
 お断りしますが、東部のペンシルベニア州は高校野球の本場ではないので、南部から西部に広がる野球王国の事情とは違いがあります。

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 小説『オー、マイボーイ』 岡本 博志


> 2009年の六月初旬、3年振りにピッツバーグ空港に着いた。予約してあった一週間割引きのレンタカーを借りた。日本からインターネットで予約できる。便利になったものだ。

 サマータイムの時期で日が暮れる9時頃までたっぷり時間がある。現在はスポーツ作家になっている駿河博之は、当初の予定を変えて回り道をすることにした。いつもは空港からフリーウエイのI79号線でかつて住んでいた町に向かうのであるが、51号線でピッツバーグ市街を抜けて、そこからI79号線に向かう。
 彼は日本から訪ねてきた親戚や友達が訪れた時には、この経路を取って驚かすことを楽しみにしていたものだ。空港から車で30分、世間話をしながら運転する。工場やショッピングモールが散在する郊外の風景を見ながらトンネルに入る。ここで彼は居眠りしている客に声をかける。
 「トンネルを出るよ。よく目を開いて!」と。
トンネルを出ると、そこには景観が一転して、突然三本の川に囲まれたピッツバーグの美しい市街が目に飛び込む。遠来の客はここで驚きの歓声をあげる。《懐かしいな》、もう遠い日のことだった。
広域ピッツバーグと呼ばれる都市圏は200万人と言われるが、市域が狭いので、市そのものは人口50万人の都市である。ダウンタウンと言われる中心部には高層ビルが林立して、いかにも大都市の景観がある。駿河が家族とともに移住した70年代末には、ピッツバーグの製鉄業を始め経済はどん底にあり、町はみすぼらしかった。《よくもまあこんなに様変わりしたものだ》
 トンネルに続いてすぐに交叉する三つの川の一つに橋がかかっている。左には大リーグのパイレーツのホーム球場が見える。かつてのスリーリバー球場は駿河が帰国した後に新しく建設され、今は市民球場と呼ばれる。
 《懐かしいな》とまた独り言が出る。あの頃はパイレーツの黄金時代だった。ウイリー・スタージェル、デーブ・パーカーの強打者がいてワールドシリーズに勝った。《あの名監督の名が出てこない。息子は町にある大学でフットボールの監督をしていて隣人だった。今はどうしているかな》
 次の時代にはボビー・ボニーヤとバリー・ボンズの強打者が活躍した。
 《ボニーヤには空港の駐車場で会ったな》
 彼は駿河の車の隣りから黒のポルシェのコンバーティブルで出るところだった。気軽に話しかけてきた。
ボンズはサンフランシスコ・ジャイアンツに移り、生涯本塁打数の大リーグ新記録をつくったが、薬物使用の疑いで
新記録が色あせた。パイレーツ時代はもっと細身に見えた身体で、友達が彼のホームランを「10フィートのホームラン」と呼んでいた。計ったようにフェンスを10フィート超えることが多かったからだった。それがジャイアンツでは肥満体の体型になり、ホームランは場外の海に飛び込むようになった。駿河もステロイド系の筋肉増強剤のせいではないかと疑いを持つ一人だった。
 《遠い日のことになったな》
 突然、駿河の記憶がよみがえった。
 《あれはチャック・タナー監督だ。パイレーツ黄金時代を築いた監督。町のスポーツ関係者の会合で講演に来てもらった。今はパイレーツも落ち目になったな》br />  こんなことを回顧している間に、15分もすると都市の景観が田園の風景に変わった。フリーウェイI79を出てから一時間半で目指す町に着く。途中一つか二つの町が遠くに見えるほか、丘陵と農地が広がるだけで新緑の木々が美しい。最後の機会になると思い、借りたGMのフルサイズ車は音も揺れもなく高速道路のドライブは快適だった。
 隣りに座っている妻は無言だった。
 あの頃、海外出張や日本から帰る時、高速道路の出口に出る手前で、山の間に見えるミッドビルの灯を見ると、《ああ、マイタウンに帰った》とつぶやいた。
 今、夕日に照らされる町を見た。

    2.ケンと再会

 今回は町から車で20分の郊外にある古いリゾートホテルに一週間泊まることにした。1860年代に近郊で世界最初の原油汲み上げ技術が開発され、石油産業が栄えた時代に建てられた。ホテル敷地にある劇場ではオペラが上演された。
 1978年から子供二人と夫婦の4人で17年半住んだ町から帰国して15年が経っていた。駿河が久しぶりに町を訪ねて一週間滞在した時、ケンを昼食に招いてレストランで会った。
彼はすでに教員を定年で退職して、「近くの町に住む孫二人の遊び相手が仕事さ」と言い、軽い認知症にかかっている奥さんの世話をしているという。彼の善人さと明るさは少しも変わっていなかった。
 ケンは長年ミッドビル高校野球部の監督を務め、駿河をコーチに就任することを説得した。
 「ハンクも歳をとったな。あれから20年も経ったとは信じられないね」
 駿河は博之と同じイニシャルであることから、アメリカではハンクの名前を使っていた。
 「ハッハハ、歳はお互いさまだよ」
 それから、ケンが野球部の昔話を始めた。
 「あの頃は野球部のピークでね。あなたがコーチを辞めてから優勝もした。しかし、その後はキッズの熱意も下がって面白くなくなった。オレも監督として意欲を失った」
 「そう言えば、ケンは3Dと言ってキッズによく気合いを入れていたね」
 3Dとは、その頃、町の経営者たちも口にしていたことで、Duty(義務)、Dedication(献身)、Discipline(規律)のことだ。駿河は彼に「それは武士道だね」と言った。彼は日本では3Dが少しは生きているように思っているが、「そんなことはない。社会が豊かになり、戦争の緊張が無くなると、どの国でも人心は緩むものさ」と話したものだ。
 駿河は町の会合に招かれて講演する時には、Determination(決意、覚悟)とDignity(尊厳)を加えて5Dに変えて話した。
 ケンの話は、当時の部員の消息に移った。私もジョージとロニーについて訊きたいことだった。
 ケンは数年前にフロリダにバケーションで滞在した時、車を飛ばしてジョージに会いに行った。ジョージは地域で中流とされるレストランのウエイターをしていた。主任の一人に昇進した。
 ケンが会話の中で、彼は日本に行かなかったことを後悔していないかと尋ねると、ジョージは「多少後悔の気持はありますが、野球の実力にも自信がなかったし、やはり恐かったです」と答えたという。
 ジョージは野心に駆られるタイプではないから、ウエイターのようにこつこつとキャリアを積んでいける仕事が合っているだろう。それに彼は客に好かれる。ケンはジョージが会話にうまくなったと評価していた。
 もう一人のロニーの消息はまったく分からないとケンは言った。駿河が知らないことであったが、テキサスの大学で野球部に入った後、シーズンの途中で監督を殴って退部になったという。野球部員として大学に推薦で入学したのだから、当然、大学からも退学させられた。
 アメリカの大学運動部はほとんど強力なNCAA(全米大学運動協会)に支配されており、各大学の運動部長の人事までNCAAが権限を持っている。駿河はNCAAの内情を詳しく書いた『NCAA株式会社』というタイトルの本を読んだことがあり、時には学長の権限も及ばないと書かれていた。
 「ケン、私はロニーを怒らせてマウンドで殴られそうになったことがあるよ」
 「オレも憶えている」
 「あの時ロニーはよく我慢したな。大学でもどんな時でも我慢しろよ、とロニーにアドバイスしたのに残念だ」 

 ケンと別れてから、車を停めてダイヤモンド公園を散歩した。100年以上も経ち、威厳がある裁判所、教会、図書館などに囲まれた公園の森は新緑が美しい。町の式典行事、パレード、コンサートなどが行われる場所でもあった。週末の夜には、高校生がたむろして騒ぎ、周囲を車の群れが走り回る。
 駿河は冬の公園が好きだった。皮のオーバーのポケットに手を入れ、凍てつく雪の地面をよく歩いた。古いフランス映画のシーンに出演しているように思った。
 もうこの町を訪ねることはないだろう。
 あれは夢か幻だったか。 

   3.町のリトルリーグ

 ミッドビル市は人口が約2万人、隣接する町村を入れても3万人の小さな地域だ。東部中央三州の一つ、ペンシルベニア州の北西端に位置し、北に40分もドライブするとエリー湖に出る。そこから北はカナダだ。
 冬は長く、寒い。北米では二番目に寒いゾーンに入り、時にサブゼロと言われる厳寒の日が続く。サブゼロとは華氏0度のことであるから、摂氏で言えばマイナス18度になる。雪もよく降る。
 4月はまだ寒く、春とは名ばかりであるが、それでも野球のシーズンが始まる。リトルリーグの選手が公募されて新しいチームの編成が始まるのもこの頃だ。
 ジョージも駿河の息子ヒロもサン・チームに加わった。ジョージは投手と捕手、ヒロはショートか投手だった。ジョージの捕手は友達の監督に駿河が勧めた。
 1チーム12~3人の少数編成で町に6チームがある。各々レストランや地元の会社がスポンサーになって資金を出している。
 どの監督もうるさい親たちに悩まされる。ある日、新聞に出た漫画はこの事情をうまく表現していた。
 「よいか、リトルリーグの監督の心得はだな、子供を大人のように扱い、親を子供のように扱うことだ」と。
 監督は親たちを気遣って全員を試合に出さなければならず、試合に勝つことと全員起用を両立させることになかなか苦労する。「子供たちが楽しむ」ことがモットーのリトルリーグでは、へたくそな選手の起用で試合を失うこともある。
 四月初めから始まったリーグは、6チーム2回ずつの総当たり戦で週末だけに試合が行われる。リーグが始まると、試合がない週を除いて練習はしない。
 何しろ5回くらいの練習をするといきなり本番の試合に臨むのだから、チームプレイどころではない。特に投手はまだフォームも固まっていない。どのチームの投手も立ち上がりにコントロールが定まらず、順調にスタートしても試合中に突然ストライクが入らなくなることは常のことだ。
 ある監督がぼやいていた。
 「キッズ(子供のこと)は始めのうちみんなピッチャーになりたいと言い、いざ試合になるとみんなピッチャーをやめたいと言う」と。
 ジョージが投手の時には捕手が二塁に投げるようなスナップを利かしたフォームで投げるので、まだ安心して見ておられた。ところが、彼も突然ストライクが入らなくなると気が弱い面が出て、ストライクを狙うあまり小さなフォームがますます小さくなった。
 ベンチに半分泣きべそをかいて帰ってきた彼に、ベンチのすぐ後ろにいた駿河が、ささやくようにして言った。
 「ジョージ、ストライクが入らなくなったら、腰を使ってフォームを大きくするんだよ。ホームプレートの真ん中あたりをどこでもいいから楽に投げるんだ。力を抜いて大きく、大きくだ」

 ジョージが12歳、ヒロが11歳になった年、1983年だったか、6チーム中3位だったサン・チームからこの二人がオールスターに選ばれた。それからミッドビルの代表チームとして近隣の代表チームとトーナメント形式で週末毎に試合が進められる。
 最初の試合では二人とも先発から外された。みんな選抜された選手たちだから、これは仕方がない。しかし、打力中心に選ばれたように見える中で、駿河には二塁手の派手な守備が気になった。恰好だけで試合前の練習から球をこぼしていた。試合になると予感が当たった。簡単なゴロをはじいた。最終回の5回表、ツーアウト2、3塁に走者、二塁手のジェイに代えてヒロが代打に出された。ヒロはファウルで粘った後、ライト前にヒットを打ち、二人の走者を帰して5対4で逆転した。
 その裏相手チームの攻撃、ツーアウトで満塁になったところで、エラーをしたレフトに代えてヒロが守備についた。駿河はヒロが守ったこともないレフトの守備に入ったことに驚いた。ジョージは4回から救援投手として投げていた。
 打者がレフトの左にフライを打ち上げた。駿河はどきっとした。ヒロは後ろ向きに数歩下がると向き直って構えた。その間にランナーは走っていた。ヒロは落ちて来る球を胸の前で拝み取りした。駿河は背走する外野守備を教えたことはなかったのでびっくりさせられた。ジョージは次の打者を三振させて、これで勝利した。 
 次週には郡内の別の代表と試合。驚いたことに、またジョージもヒロも先発しなかった。懲りずに二塁手はザル守備の選手を出した。この試合でも、大差で敗戦が決定的になったところで、ジョージは救援、ヒロは代打に起用されただけだった。
 ジョージとヒロのシーズンはこれで終わった。
 郡の中で勝つと、他の郡の代表とプレーオフが続き、州代表の決勝に当たる州西部と東部の代表が対戦する。さらに勝者が各州代表と対戦して、最終的に東部代表が決まる。この東部代表がペンシルベニア州の内陸中央部にある小さな町、ウイリアムスポートで8月下旬に行われるワールドシリーズに出場する。遠い、遠い道のりである。

    4.ジョージが高校生に

 ジョーシとリトルリーグ以来町で立ち話をすることはあったが、中学生に資格があるボーイズ・リーグで野球を続けていると言っていた。中学には野球部がない。他の運動部もない。サッカーもレスリングも地域の市民が支えている。
 ジョージとはチームメートであった駿河の息子ヒロはリトルリーグを最後に野球から離れた。学生時代に野球選手をしていた駿河が残念に思って理由を尋ねたことがある。
 「ボクは身体が小さいし、野球は監督が公平に見てくれないから、もう野球は嫌になったんだ。野球のシーズンには好きなテニス部に入ることに決めたよ」
 実際、リトルリーグの監督たちには素人が多かった。町の代表チームであるオールスターには各チームの強打者を選んだ。守備がうまいヒロは辛うじて選ばれた。  
 余談になるが、数年前、巨人がトレードで獲得した強打者を何人もそろえた時、駿河は「まるでリトルリーグのオールスターみたいだな」と思った。
 その後、ヒロは町の少年テニス大会に出て活躍していた。親友のマイケルとは良いライバルで、二人は大学のテニスコーチから個人レッスンを受けていた。
 アメリカでは、中学3年は高校1年(フレッシュマン)と呼ばれる。
 ヒロとマイケルは卒業まで4年間テニス部のレギュラーとして高校対抗戦に出場した。
 ヒロは春から夏のテニス部のほかに、秋から冬にはレスリング部に属した。彼は小学校から町のレスリングチームに入って試合に出ていた。彼だけではなく、この町の高校生は二つか三つの運動部に属して、一年中、スポーツ漬けの生活をしている。
 親の一人は、「ヤツらは忙しくさせておけば、トラブルを起こす暇がないからね」と駿河に言ったものだ。
 もっともジョージのように経済的に貧しい家庭では、頻繁な車の送り迎えができないので、一つの種目に参加することが限界だった。

 1987年、確か、3月に駿河はジョージに再開した。でかくなっていた。185センチだという。
 駿河はこの年、高校野球部のバッテリーコーチに就任していた。前年の秋に監督のケンから呼び出しがあった時、監督を引き受けるように要請された。彼とは親しい間柄だった。
 「オレはもう8年も監督をやつてきたから、疲れたというか、飽きてきた気がする。ここらが交代の時かと思うんだけどね。ハンク、引き受けてもらえないか」
 「エッ、私が。助監督のマークがいるじゃないか」
 「彼は、知るだろう?野球をあまり知らない。荒くれキッズをリードすることには向かない」と言った。
 「待て、待て。そんな大役を、まして日本人の私がやれるわけがない。私は無役のコーチなら2年くらいなら引き受けてもよいが。リーダーのあなたの技術補佐というところだな」
 「うーん、やっぱり監督はだめか。しかし、陰のコーチというのでは物足りないな。バッテリーを面倒見てもらうコーチを引き受けてもらえないか。オレはピッチャーのことはよく分からないから、これなら助かる。気分も新しくなるよ」
 「うん、それならやってみよう。2年くらいならどうにかなると思う」
 この日はこれで彼と別れた。学校に正式に手続きを取ってもらうことになった。
 
 まだ寒い3月2日、外には雪が舞っていた。この日、体育館に約40人の入部希望者がトライアウトに集まった。顔ぶれを見渡してみると、みんなリトルリーグ経験者であるはずなのに、駿河が知っている顔が少ない。リトルリーグが狭い地域であるのに対し、高校は学区が広域になるために、各地のリトルリーグ出身者が多いからだろう。
 監督のケン、バッテリーコーチの駿河、助監督のマイケルの三人で選考が始まった。バッテリーの選考と采配は駿河に任せるとケンが言ってきた。

     5.トライアウトに臨む
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 バッテリーコーチに就任して駿河が初めて野球部員たちの前に顔を見せる日が来た。トライアウトと呼ばれる入部希望者の選考のことであり、野球部の定員が18人に定められているので門がきわめて狭い。
 駿河は当時のことをコーチ日記と称して日々の出来事や初めて知った町の野球事情を書いている。これをもとに選考の模様と町の高校野球について紹介してみよう。
 この町では高校野球は特異な地位を占めている。各地区の代表チームが対戦するプレーオフに入るまでは、一般の関心は低く、多くて50人くらいの観衆しか集まらないほど人気がない。ところが、一般の人気のなさとは対照的に生徒の間での野球部志望熱はきわめて高い。腕に覚えがある野球選手にとっては、この町で数多くある組織化されたチームの中で、技術レベルで頂点に立つ高校野球を目指すことは当然のことであるかもしれない。
 彼らは例外なく9歳でリトルリーグ野球の年少部に入り、高校の全学区では同年の他の仲間150人とともに硬球に接し始める。上級のボーイズリーグの最終年には約40人がリーグを終え、ここから3,4人が選ばれて高校野球部員になるのである。春になると、背中に野球部と高校運動部のニックネームであるブルドッグズと書かれた真っ赤なジャンバーを着て、彼らは誇らしげに町を歩く。

 3月16日、体育館でトライアウトが始まった。駿河の周りには10人の志望者が集まった。その中にジョージがいた。
 前年のチームからはシニア(高校4年、日本の3年生)が3人しか卒業しなかったので、ケンからバッテリーの新入部員の枠は二人だと言われていた。地域の高校リーグにはレターメン制度と言う慣行があり、一度部員に選ばれると本人が辞めない限り、部員の地位が保障される。これがチーム強化の妨げになっていて年によって最上級生が多すぎることがある。この年はそういう編成になっていた。
 10人の候補者にピッチングと、駿河が投げるゴロの捕球練習をやらせた。駿河の経験ではフットワークは運動能力を見る目安であり、フットワークが悪い選手は伸びる可能性が少ない。本当は50メートル走、遠投、握力の三つを知りたかったが、場所も時間もなかった。
 予感としてどのピッチャーもノーコンだろうと思っていたので、コントロールが良いシニア(4年)のデニーとソフォモア(3年)のジョージを採った。監督のケンはデニーに反対した。シニア部員が多過ぎるし、彼の球にスピードがないというのだ。
 「彼はコントロールが良いし、カーブも使えるからショートリリーフとして必要な選手だ。打者が一巡するまでは打たれないと思うよ」と、駿河が採用理由を説明した。そして、付け加えた。
 「四球でランナーをためて、その後でエラーかヒットで大量点を取られることを避けたいと思う」
 実際、駿河が観ていた試合では、ブルドッグズも他チームも四球で点を取られる試合がよくあった。ケンは速球投手が好きなようだった。
 これでケンは納得した。他方、最後の年に念願の部員になれたデニーは後で駿河に歩み寄り、感謝の言葉を述べた。本当に嬉しそうだった。

 翌日から体育館で午後6時から8時まで2時間の練習に新入部員が加わった。外はまだ寒い。雪が一面に積もっていた。
 南国と比べると、寒冷地の野球部は厳しい環境に置かれる。練習が始まってから約3週間で試合が始まる。 その間、何日屋外で練習できるか。駿河にとって3週間でピッチャーを試合で投げられるようにすることは大変だった。
 次第にバッテリー組の陣容がわかってきた。兼業組を入れると全選手の半分がバッテリー組で、しかも正捕手のほかに、控え捕手は兼業の投手だった。短期リーグ戦とは言え、投手偏重の布陣はいびつに過ぎた。ピッチング練習の捕手を確保しなければならない、これが駿河の課題だった。
     6.待望の屋外練習
 ようやく雪解けの後、地面が乾いた。ミッド高校の野球場では野球部の屋外練習が始まった。部員たちの弾むような掛け声の中、打球の音が快い。
 高校球場の一塁側にあるブルペンでは二人の投手が投げていた。傍らで見守る駿河が大きな声を出した。
 「こらっ、キャッチャーは腰を上げるな!」
 駿河はキャッチャーの熱意の無さと逃げ腰に手を焼いていた。今はいくらかましになってきた。これまでは本当にひどいものだった。というのは、部員数が18人の中で、正規のキャッチャーを打撃や守備の練習に取られると、ブルペンではピッチャーの球を受けるキャッチャーがいない。今、ブルペンで球を受けている二人もピッチャーだ。室内練習から外に出て二週間後にはリーグ戦が始まるこの地域では、ピッチャーに制球力を付けさせることが主要な目標だった。
 昨年、駿河がコーチに就任した時には、短い期間にブルペンでどのようにピッチャーに一球でも多く投げさせるかという課題に頭を痛めた。駿河は毎年何試合かリーグ戦を観たことがあるが、両チームともピッチャーの乱調で立ち上がりに点を失っていた。
 実情が分かったことから、ピッチャーに球を受けさせることを思い付いた。監督に依頼して使っていない古いプロテクターを部室から持ってきてもらった。これで胸のプロテクターとレガー(脚のプロテクター)を着けさせて捕球させることにした。ところが、急造捕手たちは始めから腰高に構えて、悪球が来ると素早く逃げてしまう。
 「腰を落としてしっかり構えよ。そんな逃げ腰ではピッチャーがコントロールをつけられないじゃないか。
自分が投げる立場になってみよ。そんなヘボ捕手を望まないだろう」
 いくら繰り返してもこのキッズ(子供、あるいはガキの意)たちは逃げまくった。《本当にどうにもならないヤツだ》と駿河は嘆息した。
 ある日、彼は決心した。ブルペン練習を始める前、投手の一人に言った。
 「マスクを持ってこい」と。
 駿河はキッズが見守る前で、プロテクターとレガーを着け、そしてマスクをかぶった。
 「よし、ロニー、お前から投げろ」
 しばしあっけに取られていたキッズが口をそろえて言った。
 「コーチ、大丈夫ですか?本当に」
 「日本の野球部ではルーキーの年には補欠の務めとしてブルペンのキャッチャーをやらされてきたのだ」
 「怪我したら大変ですよ」
 「任せておけ。オレは健康保険に入っている」
 「もう歳ですから無理しないでくたさいよ」
 「なに、おまえたちよりはまともなキャッチャーをやれる。見ておれ」
 ロニーはピッチャーとして最高の資質を持っていた。球速が90マイル(144キロ)を超え、天性の制球力があった。駿河は90マイルを超える球を受けたことはないが、制球が良い彼を無難な相手として手始めに選んだのである。
 「よし、ロニー、今日は八分くらいのスピードまで行くぞ。先ず、ウォームアップから始めよう」
 他のキッズが心配そうに見守る中、駿河はロニーの球を受け始めた。やがて球速を上げてきた。マスクの枠が目障りであったが、駿河はワンバウンドの球もしっかり捕った。この日は高め、低めに関係なく、真ん中を狙って投げさせた。良いフォームから投げた伸びがある投球を大げさ目に褒めた。
 もう一人に投げさせてから、駿河は立ち上がり、マスクを外した。《どうだ、見たか》と内心得意に思った。
 駿河の前で輪になったキッズに言った。
 「よいか、ピッチャーを育てるのは良いキャッチャーだ。自分が良いキャッチャーに対して投げたいのなら、自分が良いキャッチャーになれ。わかるな?」
 
 それから2回でキャッチャーをやめ、駿河は投げるピッチャーの横でコーチに注力した。
 急造捕手たちの態度が変わり、投手の暴投にも逃げなくなった。ただ、スポンジを手に当ててもまともに手の平で捕球した時に痛い、痛いと訴えた。駿河は無視した。
 監督のケンも駿河のキャッチャーには心配したという。遠くからちらちらと見ていたらしい。
 駿河の決断は彼自身に絶大な効果をもたらした。ケンの言葉によると、投手グループにチームワークが初めてできたこと、投手の投球数が増えて投手らしくなってきたこと、そして駿河が敬意を払われるようになったことを挙げた。
 ブルペンでカウントを取る投球に入る時には、駿河は正規の捕手二人を呼んで球を取らせた。二人とも素直に従った。
 後日、「なぜブルペンで捕らせたかわかるか?」という問いに、二人とも「投手の特徴をよくつかめました」と言っていた。
 《開幕までに間に合うかな》と思った。
 周囲はすっかり春らしくなり、初夏のような暑い日が続いた。ここでは春は短い。

      7.投手の練習を改革

 キッズたちは練習前のウオームアップでだらだらキャッチボールをしている。目標意識も持たない。相手はポジションに関係がない仲良しと決まっている。 
 ある日から、キャッチボールの相手をバッテリーで組むことを決めた。投手同志の組もある。そして、投球プレートとホームプレートの距離より少し長い約70フィートの距離を取らせ、相手の胸を狙うことに集中させた。
 何しろ練習時間が2時間しかない。

 グラウンドに部員たちの声が聞こえた。と言っても、日本の高校野球部のように、統一された掛け声ではなく、彼らはばらばらに声を出している。大きな声の雑談のようなものだ。
 シーズンが始まる直前の練習日、彼らは楽しそうにやっている。駿河が率いるバッテリー組は、打撃練習に捕手を取られている間、少し前までは嫌がっていた投手たちに交代で捕手をやらせていた。
 駿河は昨年まで出場機会が少なかったバーノンと、今年最終学年で部員になったデニーを重点に指導することにした。二人が投球練習を始める時、ブルペンのマウンドでアドバイスした。
 二人にこんなことを言った。
 「球は縫い目に人差し指と中指を直角に置いて指の皮膚が当たるように持つ。そうそうそれでいい。感じはどうだ?バーノン」
 「球と手の平の間が大きく空いて不安です」
 「そのうち慣れるさ。それが直球に回転を与える基本の握り方だ。先ずやってみようか」
 バーノンは何球か投げたが、伸びがない。
 「待て。もう一つのアドバイス。ストライクを腕で狙ってはだめだ。腰の回転に合わせて身体全体で投げるのだ。ティジェイのフォームを観察してみるといい。彼は腰が回転する後で腕が出てくるだろう?」
 193センチの長身から投げおろす直球は、練習を積めば威力が出てくるはずだ。彼の球は速くはないが、角度がある。
 「次、デニー。キミはカーブを中心に練習するんだ。直球はスピードがないから、低めを狙って球一つストライクから外れたコースを狙え。カーブ主体とボール球の直球でピッチングを組み立てよう。2イニングくらいを投げるリリーフ・ピッチャーになるぞ。当然、登板する時には走者がいるから、いつもセットポジションで練習することにしよう」
 「カーブの握りを改めたいのですが、どうするんですか?」
 「うん、直球と同じでもいいし、すこし指をずらして変えてもいい。自分で曲がりを見て、快適に感じる握りを探すといい」
 駿河は、本当は、2種類のカーブ、タイミングを外す大きく曲がるカーブも習得させたかったが、決め球に使う外角に逃げる小さなカーブ一本に絞った。時間がないと判断したからだ。

 それから2日練習を見ていて、バーノンのワインドアップを変えることにした。彼がワインドアップから投げるフォームはだらっとしていて、力をためるアクセントがない。そこで、ノーワインドアップとセットポジションから入る二つを試させてみた。
 「バーノン、どっちが投げやすい?」
 「ホクは走者が出ると制球が乱れて降ろされたので、セットポジションでやりたいです。その方が試合で生かせると思います」
 「それで行こう。走者が出ても練習通りに投げられる利点があるな」
 さらに、バーノンにカーブを教えた。彼が投げる落差が大きいカーブは相手打者が戸惑うだろう。
 「バーノン、カーブの握りは変えてもいいが、球を浅く握ることは忘れるな。そして身体全体で投げる感じも忘れるな。カウントが悪くなると、手が先行して狙うフォームになりやすいんだ。野球はダート(小さな矢を的を狙って投げるゲーム)じゃないんだよ」
 バーノンが珍しく笑った。
 「コーチ、走者を背負ったら、ダートはだめ、と自分に言い聞かせますよ」
 彼は高校で花形運動部のバスケット部の選考に落ち、野球しかない。しかも最終学年だから後がない。素直に駿河のアドバイスを受け入れ、真剣そのものだった。

 練習時間に制限があることは知恵を生むものだ。
 駿河はなんとかしたいと思っていたことがもう一つあった。それは、ペッパーゲームと呼ばれる軽い打撃練習のやり方を変えることだった。日本ではトスと呼ばれ、打撃練習本番の前に、普通二人の相手に向かって軽く打つ練習のことだ。打者が球の中心をよく見るように目を慣らし、打点ですっと肘を伸ばして軽く打つ。
 これを一対一でやらせることにした。
 「いいか、キミらには打撃練習のためじゃない。球の握りを正しく取り、球に適度の回転を与えて常にストライクを投げることが目的だ」
 そして、打ち方も教えた。
 彼らが打ち始めると、打球が乱れ飛んで投げる側は球拾いに走らされた。彼らの体力は5分と持たず、額に汗が流れてブーイング(文句)を口に出した。
 駿河は投げ方と打ち方の両方で手本を見せた。彼は学生野球選手の時に、登板する前に一対一のトスをやって年期が入っている。
 「わかったか?投手はストライクを投げず、打者は打ち加減を知らない。だから疲れる。これを自業自得と言う」
 みんな笑った。駿河は言った。
 「中にはシンカーを投げるヤツがいる」
 またみんなが笑った。
 「すっと球が行くためには握りとフォームが一体にならないとだめだよ」
 駿河はブーイングを無視した。

 ある日、トスの後で、車座になって休憩させた。
 「なあ、みんな。この練習には投手にとってもう一つの効果があるのだよ。何かわかるか?}
 かれらのレスポンスに駿河は満足だった。一人ひとりが回答をくれたからだ。
 「ハイ、何よりもきついウォームアップになりました」
 「ハイ、ボールを離す点が一定になってきました」
 「球を拾いに行かなくてすむように、必死でフットワークを使いました」
 あの荒くれ者のロニーでさえ優等生になった。駿河は言った。
 「そう、フットワークのことだ。不思議なことに、例えば、満塁のようなピンチでは投手の足元に強襲ゴロやライナーが飛んでくるんだ。投球後、すぐに構える心がけを憶えておけよ。これで勝敗が分かれる」

      8.シーズン開幕

 4月上旬の土曜日、薄陽が射していたが、気温は40度(摂氏5度)をわずか上回っているか、まだ寒かった。
 今朝、地元の新聞トリビューンに目を通していると、スポーツ面に今日の高校野球開幕を伝える記事が大きく出ていた。
 その中で、「今シーズンからコーチ・スルガがバッテリーコーチとしてスタッフに加わったので、投手陣が充実している。今日先発するバーノンはコントロールが良くなって成長した。今日の対エリープレップをミッドビル高校野球場に迎える開幕戦にはバーノンが先発する」と監督のコメントがあった。
 エリープレップ高校は、北西ペンシルベニア州の北端に位置する都市エリーにある名門私立高校だ。プレップというのはプレパラトリーの略で、日本で大学予備校と訳されているのを本で見たことがあるが、正確には私立進学校のことである。全寮制であるから、授業料も含めて学費が高い。生徒は金持ちの家庭から来ており、彼らは幼少からスポーツをやっているので、どこでも学業だけでなく、スポーツも強い。
 他方、ミッドビル高校は州の北西地域で学業でもスポーツでも公立の有力高校だ。特にレスリングとアイスホッケイが強く有望選手が越境入学してくる。野球は近隣の都市の6校でリーグをつくっている。エリープレップは別のリーグに属している。
 地域では古い私立と公立の両校はスポーツでは長年ライバル意識が強く、伝統の定期戦と言えるだろう。市民の間にも強い対抗意識がある。中でも、フットボールの試合はすごい。地元開催の時には新聞に試合の予想が乗せられ、地元のラジオ局でも特集が放送される。高校の競技場には2千人収容の観覧席が備わり、超満員の市民が集まる。夜に行われる試合は照明灯に照らされた緑の芝を、派手なユニフォームに包まれた両軍の選手たちが人形のように駆け回る様が美しい。味方がゴールすると、観衆が興奮して立ち上がる。駿河が町に住み始めた翌年、友達に誘われて観戦した時のことを思い出していた。《新聞、ラジオ、競技場の設備、応援する市民の興奮、そして何よりも市民の地元意識に驚かされたな。これがたった2万人の町か》
 フットボールに比べると、野球の定期戦は静かなものだった。約200人の市民が段々のシートになっている観客席に座って試合開始を待っていた。快晴とは言え、寒い日、彼らは防寒コートやキルティングを羽織っていた。
 傍らの監督ケンが耳元でささやいた。
 「ハンク、今日は最高の入りだよ」
 「えっ」と駿河。
 「真面目な話だよ。いつもは50人くらいしか来ない。バーノンはこんな試合の経験がないから、心配だな」
 「まあ、彼はよく練習したから3点くらいに抑えるだろう。今もたっぷりウォームアップさせたからフォームが安定した。打線をよろしく頼むよ」

 試合前にも、駿河は他の投手たちに普段通りに練習を命じた。4番打者であり、エースのロニーを除いて彼らはブーブー言いながらピッチングに汗を流した。
 「試合のことは考えなくていい。最低でもストライクを50球は投げるのだ」
 先発のバーノンは正捕手に任せて、駿河はブルペンで交代に投げる投手の横に立った。
 一人が言った。
 「これまでよりきついな」
 「文句言うな。シーズンは短い。練習の投球数が登板した時に効果が出るもんだ。ブルペンの投球から先発を決めるのだ。これがアメリカの精神、フェアだろう?」 
 
     9.ジョージの家庭環境

 練習後、その日もジョージは家まで送ってもらう車を探していた。部員の中では最も貧しい家庭だから、高校に車で通えないし、親も迎えにこない。この日は駿河が送っていくことにした。
 ジョージは小学校から今日までほとんど勉強をしたことがなかった。家庭環境に恵まれなかった。母親のケイは子供が小学校に上がる前には離婚していた。父親は行方不明で生死もわからない。
 メディアが生活保護に関して、識者が7001ドルのプライドと言った。当時、80年代は大不況の中で生活保護を受ける数が急増した時代だった。つまり、年収が7000ドル以下になると生活保護を受けられ、7001ドルでは受給の資格がないことを意味した。この時代、町の一人当たり平均年収は2万ドルくらいだっただろう。
 ケイはそんなプライドを支えにして生活保護を受けなかった。仕事から仕事へと必死に働いて二人の息子を育ててきた。ジョージがそのまま受け継いだような頑丈な体躯は酷使に耐えた。気丈な女性だった。
 一時的に仕事が切れると、属する教会の金持ち老婦人たちが生活費を支援していた。
 7000ドルと7001ドル、1ドルの違いは大きい。
 生活保護受給者たちには州が厚い支援を与えていた。町ではビレジ(村)と呼ばれる団地に住宅が建設され、ほとんどの受給者たちはここに集められていた。家賃とユティリティは無償、日用品を買うためのわずかな現金のほかに食券が与えられた。受給者には飲んべえが多いので、酒代に化けないように、食料にしか使えない食券が与えられる。それでも問題はある。駿河の友達がスーパーのレジで並んでいると、余った月度の食券で彼が買えないような高級ハムを買っていたとぼやいていた。
 町の批判派は、受給者たちに公園の掃除や困窮家庭の家の修理をやらせよ、といった厳しい意見があった。経済が悪い時代には出てくる意見だった。
 これに比べて、ケイは古い借家の家賃を払わなくてはならない。育ち盛りの子供に食費もかかる。幸いなことにアメリカでは高校卒業まで義務教育であるため、教育の出費はなかった。
 ある日、ジョージを家まで車で送った時、中に入ってコーヒーを勧められた。家のペンキがはげたままで、中はどの部屋もばたばただった。食卓と椅子があるだけで、勉強するための机もなかった。定期試験の前に勉強する時には食卓かソファを使うという。
 勉強するにこれほど恵まれていない環境はないだろう。
 長い間、勉強する習慣を身につけなかったジョージには、高校の授業はお手上げ同然だった。
 高校は厳しい。クラスがファーストトラック(優秀)、セカンドトラック(中)、サードトラック(成績が劣る)の三つに区分けされ、各々教科書の厚さが違う。ジョージはずっとサードトラック生だった。
 町では小学生から参加するスポーツが盛んだった。レスリング、リトルリーグ野球、サッカー、アイスホッケイなど家庭が豊かであれば何でも楽しめる。その中で唯一野球がジョージの救いだった。
 《しかし、ジョージは性格が素直だな。貧乏のダメジを受けていない。じっと耐えているのかもしれないな》
 駿河は車を運転しながらこんなことを考えていた。街路樹がかすかに薄緑色になってきた。美しく新緑に間もなく変わるだろう。

     10.バーノンの快投

 《あれは本当にうまく行ったな。人生において目前の困難を幸運に味方されて驚くほどうまくいくことがあるものだ。あれはたかが野球のことに過ぎなかったが、25年経った今も快感を覚えるな》
 駿河がこう回顧した。シーズンの初戦だった。駿河は背番号10のユニフォームを初めて着た。

 試合は地元ミッドビル高校の後攻で始まった。ミッドビル高校が先に守備につき、いきなり試合開始の緊張下、バーノンがマウンドに立つ。駿河は、本当は、バーノンを遠征先で先攻の試合で初登板させたかった。味方が攻撃中に充分ウォームアップできるし、試合の雰囲気に慣れられるからだった。
 ケンは華やかな伝統戦は公式リーグ戦の成績に入らないとは言え、シーズン最初の試合にバーノンを先発させることに「経験がない」と反対した。エースのロニーを使えと言う。
 内心、私はリーグ優勝を意識していた。結局、ケンが折れた。最初から監督は駿河と対立したくなかったこともあるだろう。
 試合直前、私がブルペンでキャッチャーをして過剰と思えるほど投げさせた。試合では複雑な投球数制限の規則があるが、練習には制限がない。全力投球の速球に頼らないバーノンには充分体力があると見ていた。捕手で主将のジムには回毎に配球の打合せをすることを伝え、初回はカーブを主体にする指示をした。
 セットポジションからの投球に変えたバーノンが第一球を投げた。195センチの長身から投げるカーブが大きく曲がり落ち、相手打者が空振りした。次の直球に詰まった内野ゴロに討ち取った。
 《これで行ける!》と駿河は確信した。
 ところが、二死を取ってからバーノンの投球が乱れた。四球、エラー、四球でたちまち満塁。彼が不安げにベンチの駿河を見た。ここでタイムを取って駿河がマウンドに向かった。捕手のジムを呼び寄せた。
 「ジム、なぜカーブをやめたんだ?」
 「ストレートでさえストライクが入らないので、とてもカーブは・・・・・・」
 「アホ、これは日本語でdamnのことや(笑い)。カーブで球の握りや腰の回転が変わってストレートが良くなるもんだ。カーブを使え。バーノン、カーブはどこに投げてもいい。真ん中を狙えばいいんだよ」
 カーブを投げた後に直球を投げると、すっと球に走りが出ることを駿河自身が経験している。
 初回のピンチは無得点で切り抜けた。

 直球と言っても、バーノンの球速は130キロ以下で三振を取れない。その後もカーブと直球のスピード差が大きい投球に相手打者が戸惑った。2階から曲がり落ちてくるようなカーブは効果てきめんだった。時に決め球に使う直球に打者が詰まった。そのまま4回まで安打1本と内野エラーで出塁させただけでバーノンは無難に抑えた。その間に味方が4点を取った。さらに1点を得点した。
 6回に安打、エラー、四球で一死満塁のピンチを迎えた。ここで駿河がマウンドに歩み寄り、捕手を呼び寄せた。内野手も集まってきた。163センチの駿河の前に195センチのバーノンがマウンドに立っていた。話しにくい。コーチの威厳からも様にならない。彼はマウンドのプレート上に位置を変えてバーノンをマウンドの低いところに降ろした。内野手も彼に従ってコーチを取り囲んだ。
 彼らはコーチが投手交代を告げに来たと思っただろう。ケンもそう思っていたに違いない。しかし、駿河は交代させる気はまったくなかった。
 「キミらは私がピッチャーを代えに来たと思っているだろう。その気はないよ。バーノンには完投してもらう」
 みんな意外な表情を見せた。不安顔で緊張していた。ここで駿河は一計を思いついた。ずっと昔、北海道の学生野球リーグで満塁の走者を背負ってリリーフにマウンドに立った駿河に、突然、監督から「キンを握ってみろ」と言われたのだ。驚きと同時に不思議なことに握ってみると気が落ち着いた。駿河はこれを思い出した。
 「バーノン、ストーンズ(石の複数で睾丸を意味する俗語)を握ってみろ。ちゃんとあるか?キミは男なのだ」
 野手たちがげらげら笑った。バーノンも恥じらいながら笑った。一気に緊張が緩んだ。
 「よいか、みんな、内野ゴロが来たら慌てるな。一つでいい、アウトを取れ」と駿河が指示。そして、バーノンと捕手のジムに言った。
 「もう一つや二つ四球を与えてもいい。握りを深くするなよ。いつもの通りに、力を入れずに腰の回転で投げることを忘れるな。得点差が5点あるんだ。ジム、これからは直球で押してみるか。ストライクが入らなければカーブを間に挟め」
 駿河はバーノンの直球がカーブの後ではよく伸びることを知っていた。
 ケンが不安の表情を浮かべてマウンドから帰ってきた駿河に言った。
 「大丈夫かい?」
 「ノープロブレム。バーノンは打たれていないから」
 結局、この回、ツーアウトからタイムリー安打1本を打たれたが、バーノンは2点で抑えた。その後も安定した投球を見せ、8対3で勝った。
 歓喜して引き揚げてくる選手たちの一群から、バーノンが駿河に駆け寄って握手を求めた。
 「コーチ、サンクス。最後の年に完投するなんて思ってもいなかったです。何しろ、これまでは2イニング投げたのが最長だったですから」
 
 試合後、新聞記者がインタビューに来た。コメントは横に立つケンに任せて、駿河は多くを語らなかった。ただひと言、「バーノンの成長にはみんな驚いていますが、かれはワインドアップからの投球をセットポジションに変えて制球が安定し、さらにカーブを習得したのです。練習の成果が出ただけです」と。
 翌日、地元新聞のスポーツ面にバーノンと私の写真入りで大きく出た。新聞ではセットポジション投法を取り上げていた。当時は常時セットポジションから投げる投手は少なかった。
 駿河はリスクを負う賭けに勝ったと快感を覚えた。会社の仕事でも敢えてリスクを取ったが、巧く運んだ時のあの快感だった。
 《よし、これでコーチとしての権威を確立したな》
 
      11.『ブル・ドュアラム』
 
 リーグ戦が始まる前のある日、日曜日の午後、映画館の前を通るとちょうど映画が終わった時で、ぞろぞろと観客が出てきた。
 その一群の中に、野球部員が何人かいた。エースのロニー親分が率いるグループと出くわした。この頃にはロニーは駿河に敬意を払うようになり、親しい関係が築かれていた。一瞬、ロニーは戸惑った表情を見せたが、すかさず言った。
 「コーチ、映画の最初は目をつむっていたよ」
 連れのみんなが笑った。
 
 駿河もその映画『Bull Durham(ブル・ドュアラム)』を観ていた。
 冒頭のシーンは、マイナーリーグの球団ブルズの天才型投手がロッカールームのトイレで性交する――と言っても後ろからの映像ではあるが――ところから始まる。
 そして、その直後に登板して第一球をバックネットに直接ぶつける暴投、大きな笑いを誘う。
 映画は南部ノースカロライナ州にある人口10万人の都市、ドュアラムにある実在の球団ブルズをモデルにしている。ブルズは大リーグのタンパベイ・レイズ傘下のトリプルA(AAA)球団だ。トリプルAというのは大リーグのすぐ下でマイナーリーグでは最もレベルが高い。
 ケブン・コスナーが演じる主人公の捕手クラッシュは、40歳近くなるまでほとんどのキャリアをブルズの正捕手としてプレーしてきた。大リーグ球団の捕手に故障が出た時だけ呼ばれ、そしてブルズに落とされた。そのためマイナーリーグでは最多のホームラン記録を持っている。
 《あれは最高の野球映画だったな。南部の情景をバックにして、マイナーリーグの雰囲気を醸し出した文学だった》
 駿河はいくつか断片的に想い出そうとした。
 《選手たちがおんぼろバスで遠征から疲れきって地元に帰ってくる。あれはリアルだったな》
 《クラッシュが大リーグから落とされてブルズに帰るため、古いマスタングのコンバーチブルを運転している。夕日がきれいだった。ミットとバット、それにスパイクシューズもか、言うなれば包丁一本の職人に見えた。野球を辞めたらどうするんだろうか、と不安を感じたな》
 《中年のガールフレンドと裸で踊り狂っていた。その愛人は中学で英語を教えている。独身の彼女は野球狂で恐ろしく詳しい野球技術の知識を持っている。あの南部弁が強烈だったな》
 《捕手のリードを受け入れない天才投手を懲らしめるために、打者に「次はストレートだよ」なんて教えてホームランを打たせる。あれは傑作だったな》
 《まともな投手らしくなってきた天才に電話が入る。大リーグから昇格の通知が来たのだ。飛び上がって万歳を叫ぶところだが、彼は受話器を手にしたまま声も出ない。それから、「オレはショウに出られる!」とやっと声を出す。大リーグで試合に出ることを、ショウに出るという言い方をするんだな》

 ある日、駿河は相手チームに向かうスクールバスの席でうとうとしていた。急に「Fears and arroganceか」と声を出したらしい。隣りに座っていたケンが驚いた。
 「何か言ったか?」
 「うん、半分居眠りしながら『Bull Durham』の映画を想い出していたんだ。ほら、クラッシュが大リーグに呼ばれたあの投手に対してアドバイスしただろう?それを想い出した。『大リーグで投げると、始めはピンポン球のように打たれる。それでもFears(恐れ)とArrogance(傲慢さ)を忘れるな』とね。なかなか含蓄があるね」
 ケンはそこまで憶えていない、と言った。

 後日、日本では『ブル・ダーハム』というタイトルで上映されたと聞いた。

       12.安心の中に感じる不安
 
 日本で言えばこの町は津軽海峡と同じ緯度上になるが、帯広の冬の寒さになるだろうか。この町では12月初旬から、年によっては11月から4月まで冬が続く。シベリア特急と呼ばれる寒波が来ると摂氏マイナス20度以下になることがある。
 駿河が、日本企業からこの町ミッドビル市にあるアメリカの大企業グループの一部門に転職してから10年が過ぎていた。あの思い出すだけでも緊張に冷や汗をかく80年代の初め大不況の最中に、グループ全体がピッツバーグのコングロマリットによって買収された時、首はどうなるのだろうか、と同僚マネジャーと毎日のように話した。幸いなことに、占領軍本社から派遣されてきた新社長は、社長、副社長、財務役員の3人を首切りしただけで、マネジャークラスはそのまま生かしてくれた。
 後で考えれば、前戦の戦闘隊長と言うべきマネジャーを切れば、日々の業務に支障を来すし、働き盛りの専門職をすぐに充足できないから、身分は安全なのであるが、その時には分からなかった。その上、日本を発つ前に、不況になれば外国人から首を切られるという話を聞いたことがあるので、駿河には神経戦の毎日だった。
 それから間もなく、アジア市場の責任者を求めていたアメリカ企業から話が持ち込まれた。日系企業からも役員として要請があった。いずれも車で5時間はかかる町にあるので、引っ越ししなければならない。家族に相談すると、引っ越ししたくないから、単身赴任で行ったらどうか、と言われた。駿河は日本で3年くらいの任期と分かっていても、地方の町から家族を引き連れて東京に転勤したので、単身赴任の経験がなかった。それよりも、子供たちは大学に行けば家を離れる。なんと言ったって、子供たちとは18年しか一緒に住めないのだ。結局、新しい仕事をあきらめた。
 勤めていたアメリカ企業の顧問と、日系企業の非常勤役員で収入が増えた。
 町の有力者が集まる奉仕クラブに、3人の推薦者を得て会員として認められた。毎週火曜の昼に例会があり、昼食を取りながら会話する間に人脈が広がった。クラブが主催する奉仕活動にも参加するようになった。
生活に充実感があり、幸福な時代だった。妻と子供二人も生活にうまく順応していた。引っ越しを嫌がるほど順応し過ぎていた。
 北海道の小さな町のように四季がはっきりしている、景観は美しい、冬の生活もまた良し、友達は多い、小さい町の割には郡の行政府で社会資本が豊か、形はまちまちでも地域産の肉や野菜もうまい、大学近くの住宅地に家も買った。
 ゴルフはいつでも週末の早朝や夏の夕方に9ホールを回る。近所のコースなら7ドル、一級のコースでも30ドル。車で30分以内に20くらいのコースがある。隣人の教授と時々テニスもやる。冬はスポーツクラブで泳ぐ。
 《なんと快適な生活であることよ》と思う。
 しかし、こんな快適な生活の中で、この頃ふと心によぎる不安を感じることがあった。
 ≪オレは人生に快適であることだけでよいのだろうか。それに、子供たちはとにかく、オレは長男としていずれ日本に帰らなければならない。日本で仕事をどうするのだ?人は快適だけでは生きられない》

 駿河には大事な課題がありながら、しばし忘れて野球に関わることは生涯に何度もあったことだった。
 ミッドビル高校はリーグ戦の前半で首位だった。すべてうまく、いやうまく行き過ぎていた。
 駿河は家のサンルームのソファでうたた寝をしていた。陽光が部屋いっぱいにさしている。半分は起きていて半分は寝ている状態が気持ちいい。部屋は居間に隣接した三畳くらいの広さで三方が窓になっている。横になっていると庭に並んでいる松の木しか見えない。時々小鳥の声が聞こえる。餌箱を吊るしていた庭の木の枝に数種の小鳥が来る。音を小さめにしたラジオからボップスの快い音楽が流れている。駿河には会社の仕事も執筆も忘れて、今は至福に感じる束の間のひとときだった。
 ふとジョージのことを考えた。
 ≪もうあれから8年も経ったのか≫
 駿河がジョージと初めて会ったのは、小さな町にも6チームあったリトルリーグ野球の専用球場だった。スポンサーの会社名を冠したチームでジョージがピッチャーをしていた小学6年の頃で、駿河の息子のヒロも一級下で選手だった。駿河は親として週末の試合を観戦した。ジョージの身長はすでに170センチを超える大柄で目立ったが、ピッチングでもバッティングでも手首を利かせたフォームが特徴だった。それでもコントロールが乱れて四球で自滅することはあっても、めったに打ち込まれることはなかった。駿河はこの時から彼はキャッチャー向きだと思っていた。
 ある日、試合後にジョージを車で自宅まで送っていった時、彼の母親ケイが在宅していた。二人の息子と3人が暮らす借家の中は、貧乏な家によくあるように、家中が乱雑で、テーブルの上もソファの上も食器や衣類が散乱していた。
 駿河とケイは同じ教会のメンバーで顔見知りではあったが、あまり話する機会がなかった。
 彼女は駿河に礼を言って、コーヒーを出した。
 「ハンク、子供たちは野球ばかり熱中してさっぱり勉強をしないことに頭を悩まされています。どうすればよいのでしょうか」と相談してきた。 
 「うーん、中学になると急に授業のレベルが上がるから、今から机に向かう習慣をつけることにしたら」と言ってから、駿河は机もなさそうであることに気づき、続ける言葉に窮した。
 《ああ、最近よく言われるようになった家庭格差の問題がここにあるな》と心の中で思った。
 「ハンクは学生野球の選手だったと誰かが言っていました。せめて野球ではジョージをコーチしてやってほしい」と頼まれた。
 「うん、野球ならコーチできるから、やってみましょう」と答えてこの日は別れた。

       13.格下のチームに連敗
 
 チームは順調に白星を重ねた。どの投手も大量点を取られることはなかった。
 優勝を争うライバルのC高校を迎えての第一戦ではロニーが4:0で完封した上に、彼がツーランホームランを打った。ロニーのワンマンショウだった。
 こんな時に思いがけないことが起きた。

 土曜日の昼過ぎ、チームがスクールバスで対戦相手のK高校に向かっていた。
 小一時間かかる目的地まで、バスの中では部員たちがはしゃいでいた。駿河は運転手のすぐ後ろ、監督のケンは通路をはさんで真横の席に座っている。彼らは最前列から数列の空席を置いて後ろにかたまって座っている。いつもの配置だった。
 ケンは彼らの仲間内英語がわかるが、駿河には断片的にしか理解できない。駿河が運転手のビルに話しかけた。
 「ビル、私は町に住んで10年近くになり、仕事でも日常生活でも英語にはほとんど不自由しない。しかし、後ろから聞こえてくる彼らの会話はよくわからない。私の英語もまだまだだね」
 ビルがわずかに顔を右に向けて言った。
 「コーチ、心配しなくていいよ。私はこの町で生まれて60年になりますが、その私でさえ彼らの会話はよく分からない。ハッハハハ」
 ケンが口をはさんだ。
 「私もすべて分かるわけじゃない。ヤツらは仲間だけ通じるような発音に変えるし、スラングも年ごとに変わるんだよ」
 そして、小声で私に話かけた。
 「今、連中はK高校の野球部をファーマー(百姓)などと呼んでなめきっている。危ないな」
 私にもアーカンソー(南部の小州で、クリントン大統領の出身地)とかファーマーの言葉が耳に入った。
 ケンの説明によると、K高校は郡部にある全校生徒200人くらいの小さな高校で、ミッド高校が属する市部AAAリーグ6校の中で唯一のAAチームであるという。ミッドビル高校はK高校に一度も負けたことがない。
 部員たちは相変わらずバスの中ではしゃいでいた。親分ロニーを中心に、彼らが野球映画『ブル・ドュアラム』について話していた。セックスについてきわどい会話をしていることは、駿河にも分かった。その中で、ジョージ、バーノン、デニーのピッチャー組は目を閉じて静かに座っていた。
 試合は久しぶりにバーノンが先発投手、ジムが捕手のバッテリーで始まった。
 中盤まで貧打戦の様相で、ミッド高校は荒っぽい打撃が目立ち、タイムリー打が出ない。4回表、外野守備についていた4番のロニーがツーランホームランを打ち、先行した。次の回にはマットがソロホーマーを打ち3-0。6回裏に入ると、突然バーノンが乱調になった。
 フォームがばらばらでストレートでもカーブでもストライクを取れない。一死から続けて四球を出した。
 駿河はここで左投げのスティーブに代えた。
 「よいかスティーブ、右打者の右膝を狙ってストレートを投げるんだ。ストライクでもボールでもいい。右膝を狙えば、死球になるような球でも相手はよける。死球を気にするな。まあ大体ストライクでいい」
 「はい、わかりました」
 と、彼は言ったが、顔は緊張でいっぱいだった。
 「腰を思い切って回転するんだよ。打たれないと思え。よし行け」
 彼は唯一の左投手として3年間チームにいたが、気が弱い。駿河がコーチになってから、徹底して右打者の内角を攻める練習をさせてきたが、試合で投げると球が内角から真ん中に流れて打たれやすいコースに行った。 
 彼はフルカウントから四球を出して満塁になった。隣りでケンが苛々していた。駿河が口に指を当てて、騒がないようにと伝えた。
 スティーブの球に詰まってゴロがショートの正面に飛んだ。
 《よし、これでダブルプレー、チョンだ》と駿河が内心思った。がっちりと腰を落としてショートからセカンドに投げればよいのだが、ピートは腰高のまま前進してくると、セカンドにランニングスローで投げた。
これが暴投になって走者一掃で逆転されてしまった。
 ピートはリトルリーグ時代から名を知られた選手で、いつも派手なプレーをしてきた。これが命取りになった。
 最終回の7回、狂ったリズムに抗することができず、1点差でそのまま押し切られた。リーグ優勝するのに手痛い取りこぼしだった。連戦の第二試合でも相手のエースを打てずに負けた。手痛い連敗たった。
 帰りのバスでは誰もしゃべらなかった。駿河もケンと口をきかなかった。練習でもピートの守備が気になり、走者が目に入るケースで、例えばツーアウト満塁で腰を落として球を取る練習をやらせてきた。
 《オレが監督なら、あの時満塁になったところで内野手を集めて注意しただろう》と思った。

       14.チームが乱れる
 
 まあ言ってみれば、ブルドッグズ野球部は急増チームみたいなものだ。それも毎年のこと。苦境にしばし耐える持久力に欠ける弱さが表面化してきた。
 格下の高校に予期だにしなかった2連敗から幸福の日々が崩れ始めた。坂を転げ落ちるようだった。
 
 中間試験が終わると、成績不良のために自宅謹慎を命じられる部員が3人も出た。試合はどうにかなるにしても、バッテリー組の練習に支障を来した。
 ファーストトラック(最優秀生徒組)のデニーとセカンドトラックのバーノンなど数人を除くと、他はサードトラックに属している。能力に応じてクラス分けされているが、薄い教科書が使われるサードトラックであっても、また試験の出題が他より易しくとも、どのクラスにも優良可の下に不可の成績評価があり、共通のルールが適用される。
 いちばん痛かったのは正捕手のジムが謹慎の対象になり、練習にも試合にも出られなくなったことだ。他の2人は投手だった。謹慎はバッテリー組に集中した。
 監督の希望で二番手投手と控え捕手のマットを先発捕手にした。マットは地域では高校レスリング部の主将として名を知られていた。卒業後、奨学金を得てピッツバーグ大学に入り、ここではレスリング選手として活躍した。後日聞いた話では、大学卒業後に陸軍幹部養成学校に入学した。陸軍でもレスリングを続け、卒業後少尉に任官したという。
 良いこともあった。それは駿河の勧めでジョージが捕手として先発出場できる機会が増えたことだ。ジョージはインサイドワークという言葉を知らないほど捕手の責任を理解していなかったが、コーチのアドバイスをよく入れて急速に捕手らしくなった。

 ライバルとして優勝を争うC高校との試合ではエースのロニーが乱打された。
 駿河にはこの超高校級の速球投手が打たれるとは思ってもみなかった。打者が一巡するとガンガン打たれ出した。速球が打たれると、ロニーはむきになり、投球がさらに単調になった。彼には自慢のナックルカーブの変化球がある。駿河は練習でナックルカーブは球速が遅すぎ、打者に読まれてひと呼吸置いて打たれる。だからチェンジアップを教えた。チェンジアップというのは、速球と同じフォームで10マイルくらい球速を落として投げる球のことで、大リーグの投手が効果的に使っている。球の握りは三本指で投げる、あるいは手のひらに球を密着して投げるなどと聞く。打者は速球だと思って振るのでタイミングがずれる。駿河が35年以上前、渡米中に初めて大リーグの試合を観た時、当時は変化球が少ない時代であったが、打者が不思議なほど空振りをするのに驚いた。それがチェンジアップだった。
 監督はちらっと駿河を見て、ロニーの降板を促す表情を見せた。駿河はタイムを告げるとマウンドに向かった。捕手のジムを呼び寄せた。内野手たちも集まってきた。

 「ロニー、なぜ打たれるか分かるか?」
 ロニーはカッカッとして無言。
 「ジム、なぜだ?」
 「そうですね、球に伸びがないようです」
 「それだけか?打たれるのはストライクばかり投げさせるからだよ。よく打者を見ろ」
 「ロニー、ナックルはプロでは通用しない。大学でも通用しないと言っただろう。チェンジアップを投げろ」

 相手チームの監督は前回完封された後、よく研究したに違いない。ロニーの単調な投球に対し、ストライクのコースの速球を予測して打者に振らせ、ナックルはひと呼吸置いて狙い打ちさせた。
 「ロニー、相手はストライクゾーンに的を絞ってバットを振り回しているのだ。そこへストライクを投げるからバットに当てられる。ロニー、おまえはコントロールと言えばストライクを投げることだと思っているだろう?よいか、本当のコントロールとは打者が打ち気なら狙ったところにボール球を投げることなんだよ。今のままではプロには通用しない。いや大学でも通用しない」
 駿河が珍しく早口でしゃべると、ロニーは顔を真っ赤にして怒った。駿河は殴られるかと思ったが、彼はこらえた。
 ベンチに変えると監督が、「ロニーを代えないのか?」と言った。駿河は、軽く「完投させる」と答えた。 前半で5点も差をつけられて勝敗が決まったも同然なのに、監督は不満のようだった。
 その後、ロニーは得点を許さなかった。チェンジアップを練習ではちゃらんぽらんに投げていたが、初めて試合でうまく投げて見せた。効果てきめんだった。
 《うん、やっぱりこいつは天性の素質があるわい》と、駿河は日本語で独り言をつぶやいた。
 
 駿河にはもう一つ退治しなければならないことがあった。コーチとして選手からも親たちからも一目置かれ、万全の権威を確立した時を待っていた。
 地域では自由形の水泳選手として活躍していたティジェイが投げていた。柔らかい身体の持ち主で腰が回転してから腕が出てくるフォームで、185センチの長身から投げ下ろす速球が打者の手元で伸びる。彼は継投の時期をつかみやすい投手だった。というのは、4,5回投げると腰が回らなくなるからだ。球が外角に行かなくなる、行っても伸びが無くなるか、打ちごろの真ん中に入る。
 バックネットの後ろから喧しく騒ぐ男が居た。捕手ジムの父親があれこれと息子にアドバイスするのだった。駿河がベンチに引き揚げてきたジムを呼んだ。
 「ジム、親父の声を無視して自分の考えでリードしろ」
 「親父はリトルリーグでは監督だったし、家に帰ってもあれこれうるさいんですよ」
 「いいか、このチームのコーチは私だ。私は投手には詳しい。先ず、私の指示を聴け。そして、もっと大事なことは自分の考えで投手をリードすることだ。分かったか?」
 「よく分かりました」
 それ以後、ジムが親父に話したのか、親父は静かになった。
 
       15.あっという間のシーズン

 6月、玄関の階段脇に今年もシャクナゲが咲いた。町の街路樹は新緑から深緑に変わりつつある。葉が陽を浴びてきらきら輝いている。田舎町の空気は澄み、空は日本の都会では見られないような青さだ。日本なら5月の気候で爽やかな晴天が続く。
 野球部はコーチ駿河の手腕も及ばず、リーグ2位に終わった。2年目には2社の取締役になったため、ホームゲームにしか出られなかったが、ごっそりシニアが抜けたチームにしては2位になり、健闘した。ジョージは投手、捕手、4番打者として活躍した。
 4月から6月初めまでの短い高校野球シーズンがあっという間に終わった。そして卒業式。
 部員たちはばらばらに散っていく。
 卒業してもジョージが希望する就職は得られなかった。漠然と事務職を希望していたが、あまりにも準備ができていなかった。早く言えば、履歴書に特別に書くことがない。駿河が車の中でアドバイスしたことは何も生かされることがなかった。
 彼はアルバイトをしていたハンバーガー・レストランで終日働いていた。

 町に高校と隣接して通称ボーテックと呼ばれる職業訓練学校がある。正式にはVocational Technical School、つまり実業学校で、夜と週末に授業が行われる。郡の教育委員会が運営している公立施設である。高校生だけではなく、高校卒業生も無料で行ける。
 実業学校と直訳すると、日本の商業高校や工業高校と誤解されやすい。アメリカでは高校卒業まで義務教育であり、一般教育の普通高校であるため、このように別に職業教育を受けさせる施設を設けている。教科には、機械加工、木工、製図、秘書実務、経理などがあった。まだ安価なパソコンが世に出る前で、コンピューターの科目はなかった。インターネットもなかった。町に官民共同出資のプロバイダーが設立されたのは、駿河が帰国する年の前年94年のことで、全米では早い方だった。
 駿河はアメリカ企業に勤めていた時、営業部の技術者として一品料理の専用機を担当していたので、見積もり設計にコンピューターを使っていた。しかし、議事録や報告書は秘書、と言っても、マネジャーが共有する秘書がコンピューターに入力していた。当時は何を入力するにもコマンドを英文で書いて作動させるので、駿河は出来合いのシステムを使うだけでよかった。得意とは言えなかったが、それでも個人でパソコンを買って使い始めた時には会社の経験に助けられた。

 2年目のシーズンには、ケンを説得してコーチの責任を一段下げてもらった。もう一つイリノイ州にある会社の取締役に就任して町に居る日が少なくなったからだ。練習とホームゲームにはできる限り出ると約束した。試合ではベンチに座ったが、ユニフォームは着なかった。ケンは高校には前年と同じく野球部コーチとして登録した。
 癖がある個性的な最上級生が卒業してどこか物足りなかった。面白味が少なくなったと感じた。それでもチームはバランス良くまとまり、ケンには守備中心のチームにすることを繰り返し進言した。
 ジョージが最上級生になり、投手兼捕手として中心選手になり、どちらかのポジションで全試合に出た。何本かホームランを打った。
 
 駿河は試合後にはジョージを車で自宅まで送り、捕手のインサイドワークを教えた。「ジョージ、これは野球の駿河スクールだ」と言って笑わせた。彼はおとなしい性格のせいか、キャプテンに選ばれなかったが、攻守でチームの大黒柱として他選手からも認められていた。
 足が遅くてドタバタと走るフォームを、徹底してつま先で走るように変えさせた。185センチの長身が立つ姿は格好いい捕手に映った。これで野球を終わらせるのは惜しい。しかし、成績が悪いので大学の奨学金をもらえそうにもない。はて、どうしたものか?
 駿河は彼の進路について、ふと気がつくと名案を探すことに頭をめぐらしていた。

       16.頭が悪い、ジョージの思い込み
 
 ジョージの口癖は「ボクは頭が悪い」だった。
 この日も車の中で彼が言った時、駿河は持ち前の好奇心からその根がどこにあるのか探ってみようと思った。
 「なあ、ジョージ、なぜ頭が悪いと思うのだ?」
 「SATのスコアは最低だし、定期試験でも頭が働かないです。特に数学は悪いのです」
 SATというのは大学進学適性を見る試験で、全国の高校に対し、数学、読解力、作文力の3科目で各800点、合計2400点が満点。進学しないジョージも受けたという。
 「私は記憶力については悪くないと思っているが、例えば、どうしても花の名前を憶えられないことが多い。小鳥の名前は記憶できるのにおかしいな。つまりだね、人には頭の構造で得手不得手があるらしい。もう一つ例を挙げると、小学校時代から絵描きがへただった。特に立体の絵をうまく描けなかった。それがね、大学工学部に入ってから、物理でも数学でも立体、つまり三次元に関係する分野ではよく頭が働かない。しかし、理論には強かった。何を言いたいか、わかるかい?」
 「ボクももともと数学には頭が働かない、ということですか?」
 「半分だけ当たっている。残る半分はね、数学にもいろいろあるということだよ。私は得意な数学の中で幾何が苦手だった。幾何をやったか?」
 「いいえ、取りませんでした」
 「数学というのはね、高校レベルの範囲でも、代数、三角関数、微積分などと独立の体系に分かれている。
この中では代数が基本だ。おそらく君は代数の初歩的な段階で理解につまづいただろう。代数という体系の中では、次の段階は前の段階を基礎にしているから、途中で理解できなくなると、もう次から付いていけない。だから頭が悪いという意識を持たせられる。こんなところだろう?」
 「そうです」
 「これではSATのスコアが悪いに決まっている。確かに頭のいい奴がいるよ。毎年数学で800満点取る生徒が全国でたくさんるからね。ミッド高校でも750点以上を取る奴がいるよ」
 信号で停車して一息ついた。出会った老婦人2人が歩道の途中で話を始めた。男たちが「女は歩道を赤信号で渡り、青になると安心して歩道の途中で話をする」と揶揄している通りだった。のどかな風景だった。駿河が続けた。
 「頭が良い他人は君には関係がない。こういう連中は理学部か工学部、そして医学部に行く。早い話、ミッドビル高校ではシニア330人中、微積分の高等数学を取るのは30人足らずで、残りは取らない。君はこの残りの多数グループと社会で競争するのだ。どんな職に就いても代数は役に立つものだ」
 「ボクは勉強をほとんどしたことがないから、頭が良い悪いなんてものじゃない。そうですよね?」
 「その通り。頭が良いかどうかはとにかく、頭が悪いと思わないことだ。数学が分からないから、みんなだめだと思い込んでいるのなら、敗者の道だよ」
 ここで野球の話になった。
 「キャッチャーとは記憶力と推理が要るポジションなんだ。天才は要らない。つまりだな、それまでの打者の得手不得手の球を記憶して、コースや球種を投手に投げさせる。同じ投手でも日によって球の調子が違う。これに合わせると同時に、打者の待っている球を推理する。状況によって球種を選ぶ。わかるか?」
 インサイドワークなんて言ってもわからないジョージは黙っていた。
 「いいかジョージ、野球だけの話じゃない。頭を使わないことと頭が悪いことは別なんだよ」
 「コーチ、仕事でも数学は要らないと言っているのですか?」
 「数学を知らなくても就ける仕事がいっぱいあるといことさ」
 「代数だけは卒業しても勉強をやり直す必要があるということですね」
 「なんと言っても、やると決めたらやり抜くことだ」

 カーラジオにボブ・ディランが歌う曲が流れている。駿河はステアリングの輪を叩きながらうろ憶えの歌詞を大声で歌った。ジョージがついてきた。
 「ジョージ、日本の野球ソングを聞かせてやろう。ベースボール・キッズという歌だ」
 こう言うと、駿河は古い灰田勝彦の「野球小僧」を歌い始めた。途中で歌詞が出てこないところは飛ばした。
 「オー、マイボーイ、朗らかな、朗らかな、野球小僧」
 遠い昔、駿河は大学野球部時代のコンパでもいつも歌ったことを想い出していた。 

      17.『ライ麦畑でつかまえて』
 
 町は短い春から夏に入っていた。新緑の薄い緑が日に日に濃緑に変わり、気温が30度を超えても湿度が低く、そよ風が吹くこの季節は最高だった。くっきりとした青空に道路の両側の並木が美しい。森林を切り倒して道路を通したのだ。
 ジョージが卒業後働き始めたハンバーガー・レストランで夕方に会った。勤務時間が終わると、コーヒーを飲みながら片隅のテーブルで話した。
 駿河には一つの考えがあった。
 「ジョージ、今日は本を一冊持ってきた。 『Catcher in the Rye』(邦題「ライ麦畑でつかまえて」)という本だ。退屈で文も読みやすいと言えない。我慢して最後まで読み切れるかどうか、自分を試すつもりで読め」  
 「野球の本ですか?」
 「そう思うだろう?ところが、野球とはまつたく関係がない。実はね、ニューヨークに行った時に本屋で
野球関係の本を三冊買ったのだが、帰ってから読むとこの本は野球とは関係ないことを知った」
 ジョージが笑った。そして、続けた。
 「ところがだ、これが有名な本で、間違い転じてラッキーだったというわけだ。なぜキミに読ませたいかと言うと、ここに出てくる主人公のホールデンは、世間の本によくあるような模範的なヒーローではない。恵まれた家庭に生まれながら、勉強意欲もない、将来の目標もない、何事にも真剣に取り組めないなど、およそ模範とするタイプではない。小説は、成績が悪くて金持ちの子弟が行く全寮制私立高校を退校させられた彼が、家に帰らずにニューヨークを三日間ぶらぶらする生活を描いている。キミから見たら彼の恵まれた境遇と生き方に腹を立てるかもしれない。それでも最後まで読んでほしい」
 「最近の本ですか?」
 「いや、驚いたことに、第二次大戦でアメリカが勝った直後に出版された。愛国心が高まった時代だったと思うが、こんな反体制的、反道徳的と言えるような本が若者世代を中心によく読まれたという。分かるようで分からないな」
 「なぜボクに読めと?」
 「反体制になれ、というのはジョークで、まあ、根気試しということだ」
と、ジョージを笑わせた後で、駿河は真面目な表情になった。
 「誰でも悩みを抱えている。将来に不安を感じる。これが当たり前のこと。キミがピッチャーなら打たれてピンチになってもそのイニングはとにかく投げ抜かなければならないだろう?」

 2ヶ月が経った頃、彼が本を駿河の自宅に返しに来た。駿河は出かけるところで、玄関で立ち話をした。
 ジョージは駿河と別れてから考えた。
 コーチはオレに頭が悪いのではなく、頭を使っていないのだとよく言う。しかしだ、コーチは頭がいいから何とでも言えるのだ。それでもオレは数学がまったくできないから頭が悪いのだと決めつけていたことは確かだ。コーチは英語が大事だと言った。英語が思考力をつけるのだと言った。あれは意外だったな。これまで考えたことがない。
 今まで機会がある度にコーチは野球以外のことでもアドバイスをしてくれている。なぜかオレのことを心配してくれている。きついことも言われたな。
 「図書館に行ったこともないだろう?」
 そう、オレは町の図書館にも学校の図書室にも行ったことがない。
 「新聞を読め。隅から隅まで読むのだよ」
 そう、オレはスポーツ面だけしか読まない。
 「なぜ隅から隅まで読むのですか?」とオレが質問したらコーチはすかさず言ったな。
 「最初は面白くないが、そのうち面白くなってきて世間の様子が分かってくる。途中で止めたらお終いだよ」
 それにしても、『ライ麦』は退屈だった。コーチがオレの根気試しをしていると思ったから、意地で最後まで読んだ。考えてみると、生涯で読み切った最初の本だったな。
 別れ際にコーチに訊いたんだ。「コーチはこの本をいつ読んだのですか?」と。そしたら、「私は半分を読んだところで根気が切れてまだ全部読んでいない」言う。
 「あきれたよ。あの人は何を考えているか分からないところがある。本当に変化球ピッチャーだな」

        18.フロリダに仕事の口

 その後もジョージの就職は決まらなかった。
 卒業後1年近くも経った頃、彼から電話がかかってきた。フロリダに行くことになったので、報告したいと言う。
 そこで、ファストフード・レストランで待ち合わせしてハンバーガーを食べながら話を聴いた。彼は野球部監督のケンに紹介されてフロリダのレストランでウエイター見習いとして採用された。そこは普通のレストランで基本給よりチップが主たる収入になる契約だという。彼は毎年夏休みにファストフード・レストランで働いていた経験はあるが、ウエイターとして接客することは初めてで、不安を持っていた。
 「ジョージ、卒業したら多くは初めての町、初めての仕事を経験するんだよ。みんな同じことさ」
 「コーチはボクの仕事についてどう思いますか?」
 「うーん、私は製造業しか知らないからよく分からんが、アメリカ中のレストランに行った経験から言うと、良いウエイター、悪いウエイターが居てさまざまだな。接客が良いウエイターにはチップをはずむよ。この仕事もプロの世界だな」
 よく分からないという表情のジョージに対して駿河が続けた。
 「ほら、今年の卒業式で卒業生総代(valedictorian)が、『どんな仕事でもいい、ナンバーワンになろう』とスピーチで言っただろう?今はその店でナンバーワンのウエイターを目指すことだ」
 「どうやってやるのですか?」
 「そりゃ、いろいろあるさ。例えば、キミは体型が大柄でごついが、顔つきは優しい。客と軽い会話ができるように意識することだ。日常でも人と会話するように心がけるといい」
 ひと呼吸置いて、駿河が付け足した。
 「客との会話にうまくなれば、ガールフレンドとの会話に役立つよ」
 ジョークと受け止めたジョージが笑った。駿河は半分は真面目なことを言ったつもりだった。実際、彼のように口数が少なく、ジョークも言えない男は女にもてにくい。面白くない(N0 Fun)と言われる。
 「ウエイターの仕事に将来はあるのですか?」
 駿河はなんとも答えようがない。そこでキャリアパスの話をすることにした。
 「キャリアパスという言葉を聞いたことがあるか?これはね、自分が将来なりたいと目標にする職業のために、一段ずつ仕事の経験を積み重ねていくことだ。キミの場合、ウエイターをしながらチーフ・ウエイター、さらにマネジャーを目指すということになるだろう。もっと大きなレストランに転職してゆくこともできる。そのために、フランス料理かイタリア料理の知識を勉強しなければならないだろうな」
 「シェフはどうですか?」
 「私の話をあまり信用するなよ」
と言うとジョージが笑った。駿河が続けた。
 「シェフには、野球選手と同じで、味に対するセンスとか手先の器用さとか素質が要るのではないか。どっちにしても、プロ野球で言うとマイナーリーグから上がっていかなければならない。これから働くレストランでよく観察してみるといい」
 こんな話をして別れた。

 《あれから20年か、あの時は危なかったな》と今思う。というのは、ジョージが、卒業前だったか、軍隊の話をした時だった。
 「職がなければ、軍隊に入ることを考えています。マットは陸軍に入ることを考えているそうです」
 マットは野球部で控えのキャッチャーをしていた。
 「待て待て。彼と話したことがあるが、彼は州ではレスリング選手として有名だから、推薦で大学に行き、レスリング部に入る。それから卒業後陸軍に行くそうだ。陸軍の幹部候補学校で教育を受けると少尉に任官される。つまり、彼は将校になれるということだ。ほら、彼はキャリアパスを考えているんだよ」
 「高卒では一兵士にしかなれず、戦死の可能性が高いということですか?」
 「確率から言うとそうかもしれないが、みんなが戦死するわけじゃない。将校だって戦死するよ」
 「軍隊ではコンピューターや通信技術の教育をしてくれると聞きましたが」
 もうとっくにハンバーガーを食べ終え、コーヒーがわずかに残っているだけだった。気が重い。駿河は迷いながら、答えた。
 「問題はキミの志望がかなうかどうかだ。国防として戦う兵士は誰かがやらなければならない。ベトナム戦争でも戦争が広がると若い兵士が戦場に行かされた。しかし、1983年のグレナダ侵攻のような小規模な戦争では新兵は派遣されないだろう。ジョージよ、大事なことは先生に相談すべきだ。空軍のリクルート責任者なら友達だから紹介するよ」

 結局、ジョージは友達の空軍退役少佐の紹介も求めてこなかったし、軍隊にも行かなかった。
 《危ないところだったな。不注意に軍隊に入ることに影響を与えなくてよかった。まさか湾岸戦争が起きるとは思わなかった》
 1991年、イラクがクエートに侵攻した時、アメリカ政府は他の連合国とともに大規模な軍隊を送り、参戦した。湾岸戦争と呼ばれた。
 町の鉄道線路を濃緑色から砂色に塗り替えられた戦車や兵員輸送車の何十両も連ねた貨物列車が通った。駿河の周囲の予備役が召集され、現役の大学生にも召集予告の通知が来た。駿河が初めて経験する戦時体制だった。
 アメリカはさらに、2001年、タリバンとの戦いにアフガニスタンに軍隊を送り、2003年には対イラク戦争に踏み切った。
                   
        19.日本へ行かないか

 ここで話がさかのぼる。ジョージがまだ町のハンバーガー・レストランで働いている時で、フロリダに行く前のことである。

 出張の帰路、駿河は飛行機の座席でうとうとしていた。
 シカゴからデトロイトまで飛び、ここでエリーまでは20人乗りの双発プロペラ機に乗り換えて50分の飛行。デトロイト国際空港は広大だ。滑走路が6本もある。
 エリー便のゲートは広いターミナルの端に位置するので、飛行機がゲートを離れてから、延々と陸上を滑走して滑走路まで移動するのに15分以上かかる。ある日、初めてこの地方便を利用する乗客がジョークを言った。
 「まさかこのまま陸上を滑走してエリーまで行くのではないだろうな」と。他の乗客が「そうだよ」と返した。みんな大笑いしたものだ。
 飛行機はエリー湖の上空を飛んでいた。島がいくつか浮かんでいる。どの島もおそろしく平坦で農地になっている。高波が来れば島全体に浸水してしまいそうだ。
 《日本の島が山になっているのとはえらい違いやな》と駿河が独り言をささやいていると、とんでもない発想が閃いた。
 《ジョージを日本の大学でプレーさせるか。プロ野球では日米間で選手の行き来があるのに、日本の大学でアメリカ人が野球部員になった話を聞いたことがない。うん、新鮮味があるな》

 秋、一時帰国した駿河は、仕事の合間に時間を見つけて京都の大学を訪ねた。その後、地下鉄で40分の新キャンパスにある野球部球場を訪ねる予定になっていた。この大学はジョージには敷居が高過ぎた。運動選手に対する推薦入学制を認めていない上に、外国人も日本語で入試を受けなければならない。交通の便利さでこの大学を選んだことは配慮不足だった。
 球場に入ると、予め用向きを話してあったので、監督に会うと選手たちを集めていただいた。いかにも大学生らしい選手たちからも歓迎された。アメリカ人が野球部に入るという新しい発想を喜んでいるようだった。キャプテンから隣接する合宿所を案内され、生活振りを知った。みんなでジョージの順応を支援するという。 《アメリカ人の入部に少しも抵抗を感じない世代に驚くな。時代が変わりつつあるのか》と思う。
 監督とキャプテンには入学の大きな壁について話し、ジョージの入学が難しいことを伝えた。
 もう少し時間があったので、急遽、松下電器に電話を入れて野球部を訪ねたいと伝えた。
 球場に出向くと、鍛冶舎監督が待っていた。挨拶で監督が名前を告げると、遠い日の記憶が甦った。《この人はあの鍛冶舎選手なのだ》
 鍛冶監督は早稲田大学の4番打者、卒業後プロ野球からの指名があつたにも関わらず、社会人野球の雄、松下電器に入って強打者として活躍した。オールジャパンのチームでも4番だった。
 監督にジョージを捕手として育ててもらえないかと打診してみた。いろいろ話し合った後で、彼は社員として入社させ、独身寮で生活すればよい。野球部では控えの捕手として練習させてみよう、と言った。将来、仕事を身につければ、アメリカの子会社に転籍することもできるかもしれない、と付け加えた。
 《監督にそんな権限があるのだろうか?》と駿河は思ったが、直感で信頼を置けそうだった。《この人は異色の感覚の持ち主だな》
 鍛冶舎監督は退任してから普通の社員に戻り、本社の役員にまで昇進した。
 
 駿河は帰宅すると町でジョージに会った。
 「先週日本から帰って来たが、仕事の合間に大学と会社を訪問してきた。なんのためだと思う?ジョージに野球を続けさせるためだよ。大学の方は入試を日本語で受けなくてはならないから無理。そこで、ほら、アメリカでも有名な松下電器の野球部監督に会ってきた。信じられないかもしれないが、キミを受け入れてもいいと言うんだな」
 ここで、一息ついて日本の社会人野球の古い歴史について駿河が話している間、ジョージは顔がひきつるというのは多少オーバーかもしれないが、緊張の表情が露わだった。言葉もなかった。
 「ジョージ、自分の生涯を拓くためには時にリスクを買わなければならない。せっかく持っている野球選手の素質を生かして、野球を利用して会社員になればいいのだ。松下電器のアメリカ子会社も大企業だから、将来キミをアメリカに戻してくれる可能性もある。要するに、チャンスを取るか取らないかの選択なんだよ」
 やっとジョージが口を開いた。
 「日本語を勉強しなければならないでしょう?ボクは外国語でスペイン語を選びましたが、苦手でした」
 「当面日本語より英語の勉強をすることが大切だ。読み、書き、話し方で正しい英語を磨くことだ。日本では多くのアメリカ人の中には正当な英語をしゃべれないのも居る。松下電器にも居るアメリカ人社員は正統な英語を話すクラスだから、キミの英語を評価するだろう。日本語は日本に行くことが決まってから集中勉強すればいい」
 「日本に行く金もありません」
 「それはアメリカと日本で後援会をつくって用意する」
 それから間もなく、ジョージと母親が駿河の自宅を訪ねてきた。母親はこの話に乗り気だった。
 高校でケンに会って経過を報告した。かれも大賛成してくれた。
 気が早い彼が、「うん、新聞社に話してみよう」と言ったので、駿河はあわてて「待て、待て、これから何が起きるか分からない。ジョージの出発が決まってからにしよう」と彼を制した。

       20.日本は遠かった
 
 駿河が離れの書斎で仕事をしていた。書斎と言っても実質事務所だった。ある日、アイデアが湧いて、2台の車が縦長に入るガレージの奥をつぶして、L字型になる事務所を建てることにした。日常家内の車はガレージに入れ、彼の車はほとんど私道に置いていたので、1台分をつぶしても不便はなかった。
 市役所に建築申請書を出して間もなく、親しくしていた助役から電話で呼び出しがあった。彼から使用目的を訊かれて話すると、「それなら書斎でよいのではないか。あそこは住宅指定地域だから事務所は建てられない」と言われた。そこで、書斎に書き換えて再申請した。さらに助役は完成図を持って近所回りをすることを勧めた。
 駿河の妻がデザインし、友達の大工が建てた書斎は周囲の森にマッチして隣人からも好評を得た。二方の窓から景色が見える約8畳の部屋に、大きなビジネスデスクと背もたれがある回転椅子を置き、来客用にソファを配置した。町にはまだ普及していない時に買っていたファックス機を本宅から移した。窓から見える木の枝に野鳥のために餌箱を付けて楽しんだ。小鳥音痴の駿河には数種以上来る小鳥の名前が分からなかったが、大柄なブルージェイが来ると餌があっという間になくなった。巧みに枝を伝うリスにも餌を食い荒らされた。
 駿河にとって仕事や執筆をしながらステレオから音楽を聴く時には幸福感にひたった。
 何事にも贅沢を戒める彼は、「これがオレの唯一の贅沢さ」と家族に言った。日本から入る深夜の電話やファクスに悩まされることがなくなった。
 クリスマスのイルミネーションが雪に覆われた町中に輝いていた。駿河の家も近所に合わせて、玄関のシャクナゲの小枝に豆電球を連ねて飾っていた。

 駿河はジョージ基金と名付けて、親交がある在米日本企業の知人に支援を要請していた。商社や新聞社の幹部も賛同して、基金に送金することを約束してくれた。日本側でも支援者を得られた。一口1万円の寄付でジョージが面接のために訪日し、滞在する経費は確保できそうだった。
 事がうまく運び過ぎることにどこか不安を感じていた。
 週末の午後にジョージと母親のケイが訪ねて来た。離れの書斎に通して、妻も加わった。しばし無言の後でケイが話し始めた。

 「ハンク、申し訳ありません。実は、ジョージが日本には行けないと言うのです。いくら説得しても自信がないと言って」
 事の成り行きに駿河は意外なほど動じなかった。
 「ジョージ、やはりチャレンジが大き過ぎたか」
 「怖くなったのです」
 ジョージは目に涙を浮かべて、後は言葉を続けることができなかった。
 「オー、マイボーイ、ジョージ」と思わず声を出した駿河はその後絶句した。
 《これで計画は消えたか。無理押ししてもどうにもならんな》と駿河は思った。がらがらと計画が崩れ落ちた。考えてみれば、駿河がアメリカ企業から誘われて渡米を決心した時は38歳だった。身分が保障されていたとは言え、やはり怖かった。
 「それで、これからどうするんだ、ジョージ」
 ケイが代わって答えた。
 「前に断ったフロリダのレストランに就職することに決めました。今度は行く決心をしたのです」
 ≪そうか、フロリダに行くことにしたか。ジョージにはフロリダに行くことさえ怖れたに違いない。日本よりは近いと思えたのか。まあ仕方がない》
 この町の若者は少なからず州の外に出たことがない。出ても州境が近いオハイオ州かニューヨーク州くらいのものだ。飛行機にも乗ったことがない。まして町からフロリダまでは直線距離で1500キロもある。ジョージには遠かっただろう。しかも初めて親元を離れて。

         エピローグ

 《あれから25年が経つのか。オレも今は70歳になった》
 小春日和の日、駿河は大阪の自宅でミッドビルの生活を思い出していた。5年前、最後の機会のつもりで家内を伴って訪問し、旧知の友達たちにできる限り会ってきた。勤めていたアメリカ企業の同僚夫婦8人と会食した時には、みんな歳を取っていた。知り合ってから30年以上になる、みんな自分の年齢前後だから引退していた。直接言葉で伝えることはしなかったが、彼らは会話の中で最後の晩餐だと感じていただろう。
 
 駿河は問題を抱えていた。
 執筆に根気がなくなり、集中力が長続きしないことに悩まされていた。書き手には好不調があり、執筆にブレーキがかかることはよくあることであるが、彼はもっと根本的な壁があると感じていた。それは、認めたくないが、歳を取ったことだ。70歳になったのだ。気力だけではなく、体力も衰えていることは隠せない。何十年も身についた5時頃の早起きもできない日が増えてきている。起きても全身がだるい。夜な夜な夢にうなされる。夢と言っても悪夢ばかり。生涯に踏んできたリスクが再現のように出てくる。
 しかし、《70歳で最初の作品を書く作家もいる、オレだって身体はまだ強健だ。一時的な不調だ》と言い聞かせていた。
 これまで時々気晴らしに国内や海外の旅に出かけた。友達に「ほら、昔ヨーロッパの作曲家が気分転換に旅に出かけたろう?オレもそうだよ」と言うと笑われた。
 《この一節は今日中に書き上げるぞ》と意気込んでも一日一日とずれていく。決意してもやり切れずに終わってしまう。
 《一日がただ流されていく。そうだ、これがジョージの苦しみだったのか》
 《オレがジョージにしたことは、健康人が病人に健康を説くようなものだったか》
 70歳にして我が身が少し見えてきた。
 ケンの話が救いだった。ジョージが人生の目標を立て、フロリダで自立していることに、駿河はいくらか貢献したのだと思うことにした。
 今、思う。ジョージは高校で勉強もできなかった。家庭環境も悪かった、ガールフレンドもいなかった。面白くなかっただろう。それでいてぐれることもなく、真面目そのものだった。高校が一時乱れて大麻の捜査で警察が入った時も、ジョージには無縁だった。捕まったのはほとんどが金持ちの子供だ。
 ジョージにとって野球が救いだった。駿河は今もそう思う。                  (完)

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2011年7月23日土曜日

#53 中国の最新電力事情ーー上海たより(その2)

 日本の電力供給が危機状態になっています。今月「言論大阪」#15では関西電力について書きました。
今回、時節にタイミング良く、上海のI氏から中国の電力事情について寄稿を届けます。この寄稿では日本のメディアが伝えない中国事情が詳しく書かれています。現地の日本企業は対応に苦しみながら、よく頑張っています。
若者諸君の時代には、日本に対して中国の圧力がもっと重くのしかかってきそうです。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――

 この一ヶ月、中国でも電力・エネルギー関連の報道がされない日が無いと言っても良いくらい、各紙各様に喧しい限りです。
 昨夏も電力不足の問題が急浮上して、江蘇省・浙江省などの我々の身近な関係先にも影響が及び、突然の停電による品質不良の発生や月間操業日数が20日を切るといった事態に至りました。その折に、全国の拠点に一斉調査をしたり、情報通に問い合わせたりしましたが、どうも状況がバラバラで腑に落ちない面がありました。東北地区や華南地区からは全く問題無しという、
即答があり、何を大袈裟に騒いでいるのか?と言った反応。青島事務所からは、山東省では特定地域に一時的に被害が発生したという報告でした。
その特定地域に顔の利く経営者や知人が日本から出張して、地元当局に捩じ込んだところ、電力供給が回復した、ということを異口同音に話してくれたことを思い出します。
 電力という高度に公的であるべきものが、それほど恣意的な動きをするだろうか?という日本的常識に囚われていましたので、得心がいかないまま、電力問題は秋が深まるとともに沈静化しました
 解せない問題意識が残ったまま、昨年末に参加したセミナーで質問したところ、講師は中国の電力は不足していない、問題発生は局部的な現象である、と明解に回答してくれました。

 年を越えた3月7日の時事通信が伝える各紙の記事によると、国家発展改革委員会の張平主任が記者会見で「国際的に明言した省エネ(単位GDP当りのCO2排出量削減)目標について、第11次五ヵ年計画の最終年度であった昨年末までの達成が危ういと見た一部の地域でのやり方に妥当性を欠いた」と発言しました。今頃になって、何だ?これは!と、感じて、昨夏に被害甚大であった日系の取引先に、その情報を伝えたところ、激怒するかと思いきや、「そんなことやったんか?そしたら今年は大丈夫ということやな!」ととても楽観的な反応だったので意外でした。
 そんな日本的常識が揺らぐのに、余り時間は要りませんでした。
 5月に入って湖南省で計画停電が始まったという報道や、寧波事務所からの1週間の供給停止が各工場で順番に実施されたという報告が嚆矢となり、次々と届く情報やスクラップのファイルが分厚くなっていきました。
そしてついには4000万キロワットという、過去最大の電力不足が発生する惧れもある、という送電大手からのコメントまで飛び出しました。その情報の渦に乗って語るには確信が持てず、自らが喧しい輩の一人になることは避けたいと思いました。
 
 電力専門家である国家電網エネルギー研究院の胡兆光副院長によると、全体の電力需給は基本的にバランスが取れて、少し余裕がある程度である(中略)中国電力設備容量は、09年末時点で8億7000万kWに達し、電力需給指数は均衡値の1を上回り、1.05に達している(中略)要するに、現在、中国全域で電力需給は基本的にバランスが取れているが、華東、華中などの地域では厳寒気象と石炭輸送逼迫といった影響を受け、電力供給がやや不足している。電力供給不足は局地的・一時的な現象に過ぎない。中国では根本的な電力供給不足は発生していないと言えそうだ・・
 『中国エネルギー事情』郭四志(岩波新書 2011年1月)の一節です。では何故、「電力不足」が現在このような大きな問題になってきているのか?
上述の一節のなかの、「基本的に」「局地的」にというキーワードに先ず注意することが必要だと思います。また、鳥瞰図だけでは把握しきれない中国の難しさがあるのではないかと思います。
 
 一般には電力制限問題が表面化していなかった4月末に届いた、上海日本商工クラブ会報の『Next Shanghai 上海明天』Vol.27に掲載されたジェトロ上海センターの川合 現さんによる『「電力制限暴風」の再来を防止するために』という文章に啓発されました。
同氏は、昨年の「電力制限」の際に各地の現場を回って得られた実態から、以下のように分析されています。

① 法的根拠なく個別企業の私権が制限された。
② エネルギー使用の「効率」に係わる目標が電力供給の「量」の目標に置き換えられたという手段の不適切  性。
③ 地域間における不公正性。
④ 措置の恣意性。某国有企業の工場は問題なく稼働しているようだと言う話は何件か耳にしたのみならず、  面会したある開発区の幹部は「電力制限は配分の問題である」と言い切っていた。

 同氏が5月に公表した中国各地でユニークな経営を成功させている日系企業に関する報告書も、まさに足と頭をフル稼働させたフィールドワークによるもので、虫瞰図的な行動と鳥瞰図的分析の成果だと思いました。
昨年の初夏に、日本製高級子供服店のテープカットを同氏と一緒にさせて
貰ったご縁で、それ以来お世話になっています。炒飯や小籠包を食べながら、論文や報告書の解説をしてもらえるのは、実にありがたいことです。
 
 電力制限の動向は予断を許しません。
 2002年12月に国家電力公司を発電5社(華能・大唐・華電・国電・電力投資集団)と送電2社(南方電網;華南・西南4省1自治区、国家電網;その他の地域)に分割して、当時新設された国家電力監督委員会が料金を含む規制・監督する体制が基本的にできています。
 ただ従来からの地域をカバーする民間の小型発電会社は約4000社もあるといわれ、政府の発電効率重視策や環境対策に基づくとされる淘汰政策で統合閉鎖されていく模様です。
 一方、火力;水力;風力;原子力=74.6%;22.5%;1.8%;1%という電源構成、しかも石炭発電が火力電源の90%を占める、(石炭発電が全体の7割近くを占める)事の弱点は石炭価格と輸送状態に大きく影響を受けることと、そして環境対策(とりわけSO2)の面でも内陸部の脱硫装置強化が急務となることでしょう。そして、その石炭産業も政府系大型鉱山と多くの民間中小鉱山のせめぎ合いの場でもあります。
 昨年末から表面化したインフレの加速(4月度は前年同月比5.3%上昇)に直面して、矢継ぎ早の金融引締めなど物価抑制策が採られるなか、産業用にせよ民生用にせよ電力料金の値上げは見送られてきました。
一方、資源価格の上昇に伴って石炭価格が10~20%も上昇したため、多くの電力会社は採算割れに陥り、発電量を落としたことが「電力不足」の直接的な要因となったようです。6月1日から上記5大発電会社の一つ華能が送電会社への料金を2~3%値上げしました。これで、採算が良化するとは思えず、市場の反応を見るアドバルーン或いはモニター的動きではないかと
訝っています。私見ながら、体力の無い民営発電を駆逐して、政府系大手の寡占化を進め、且つ「電力不足」を煽って料金の大幅値上げを正当化するキャンペーンが着々と進行中という予感があります。そしてその過程で電力業者と政府行政と政府系大型製造企業の連携が強化されていく構造が浮かび上がってくるようです。

 国民の声なき声が、IT普及により連帯化することへの対応を、政府が最重要視していることは、身近な市民生活や経済活動の端々に実感します。インフレは民にとって最大の関心事であり、様々なムーブメントを誘発しかねない問題であることは歴史に学ぶ政府は熟知しています。
 今回の「電力不足」や電気料金の据え置きから値上げへの動きは、闇雲なインフレ抑制策の破綻の兆しではありますが、その背後にある「国進民退」の進行と、根を張りつつある民の異議申し立てへの潜在的な動きという二つの大きな流れは、何処かで摩擦を生むのではないかと想像します。
 賢明な政府は、民間企業には圧力を加えられても、一人一人の民の思いを力づくだけで抑え込められるとは思っていないでしょう。そんな状況の中で、今後を左右するのは官の弱点である腐敗撲滅問題かも知れません。 (了)

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