2011年7月30日土曜日

#54 小説『オー、マイボーイ』--アメリカの高校野球

 来週6日から第93回高校野球の夏の甲子園大会が始まります。また、私の小説『人間機関車・呉昌征』(「岡本博志で検索すると最初の頁の中ほどにある)で書いた台湾の嘉義農林が甲子園に初出場して準優勝したのは1931年のことですから、今年で80年になります。
 この記念すべき夏に、嘉義農林(今は嘉義大学)の学長とOB会一行24人が、入場式を観るため甲子園を訪問します。
 さて、甲子園はさておいて、今回は私がバッテリーコーチをしたアメリカ高校野球部を舞台にして、野球部員との交流を題材にする小説を披露します。日本の高校野球とは違いが大きいことに、皆さんも興味を持たれると思います。
 お断りしますが、東部のペンシルベニア州は高校野球の本場ではないので、南部から西部に広がる野球王国の事情とは違いがあります。

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 小説『オー、マイボーイ』 岡本 博志


> 2009年の六月初旬、3年振りにピッツバーグ空港に着いた。予約してあった一週間割引きのレンタカーを借りた。日本からインターネットで予約できる。便利になったものだ。

 サマータイムの時期で日が暮れる9時頃までたっぷり時間がある。現在はスポーツ作家になっている駿河博之は、当初の予定を変えて回り道をすることにした。いつもは空港からフリーウエイのI79号線でかつて住んでいた町に向かうのであるが、51号線でピッツバーグ市街を抜けて、そこからI79号線に向かう。
 彼は日本から訪ねてきた親戚や友達が訪れた時には、この経路を取って驚かすことを楽しみにしていたものだ。空港から車で30分、世間話をしながら運転する。工場やショッピングモールが散在する郊外の風景を見ながらトンネルに入る。ここで彼は居眠りしている客に声をかける。
 「トンネルを出るよ。よく目を開いて!」と。
トンネルを出ると、そこには景観が一転して、突然三本の川に囲まれたピッツバーグの美しい市街が目に飛び込む。遠来の客はここで驚きの歓声をあげる。《懐かしいな》、もう遠い日のことだった。
広域ピッツバーグと呼ばれる都市圏は200万人と言われるが、市域が狭いので、市そのものは人口50万人の都市である。ダウンタウンと言われる中心部には高層ビルが林立して、いかにも大都市の景観がある。駿河が家族とともに移住した70年代末には、ピッツバーグの製鉄業を始め経済はどん底にあり、町はみすぼらしかった。《よくもまあこんなに様変わりしたものだ》
 トンネルに続いてすぐに交叉する三つの川の一つに橋がかかっている。左には大リーグのパイレーツのホーム球場が見える。かつてのスリーリバー球場は駿河が帰国した後に新しく建設され、今は市民球場と呼ばれる。
 《懐かしいな》とまた独り言が出る。あの頃はパイレーツの黄金時代だった。ウイリー・スタージェル、デーブ・パーカーの強打者がいてワールドシリーズに勝った。《あの名監督の名が出てこない。息子は町にある大学でフットボールの監督をしていて隣人だった。今はどうしているかな》
 次の時代にはボビー・ボニーヤとバリー・ボンズの強打者が活躍した。
 《ボニーヤには空港の駐車場で会ったな》
 彼は駿河の車の隣りから黒のポルシェのコンバーティブルで出るところだった。気軽に話しかけてきた。
ボンズはサンフランシスコ・ジャイアンツに移り、生涯本塁打数の大リーグ新記録をつくったが、薬物使用の疑いで
新記録が色あせた。パイレーツ時代はもっと細身に見えた身体で、友達が彼のホームランを「10フィートのホームラン」と呼んでいた。計ったようにフェンスを10フィート超えることが多かったからだった。それがジャイアンツでは肥満体の体型になり、ホームランは場外の海に飛び込むようになった。駿河もステロイド系の筋肉増強剤のせいではないかと疑いを持つ一人だった。
 《遠い日のことになったな》
 突然、駿河の記憶がよみがえった。
 《あれはチャック・タナー監督だ。パイレーツ黄金時代を築いた監督。町のスポーツ関係者の会合で講演に来てもらった。今はパイレーツも落ち目になったな》br />  こんなことを回顧している間に、15分もすると都市の景観が田園の風景に変わった。フリーウェイI79を出てから一時間半で目指す町に着く。途中一つか二つの町が遠くに見えるほか、丘陵と農地が広がるだけで新緑の木々が美しい。最後の機会になると思い、借りたGMのフルサイズ車は音も揺れもなく高速道路のドライブは快適だった。
 隣りに座っている妻は無言だった。
 あの頃、海外出張や日本から帰る時、高速道路の出口に出る手前で、山の間に見えるミッドビルの灯を見ると、《ああ、マイタウンに帰った》とつぶやいた。
 今、夕日に照らされる町を見た。

    2.ケンと再会

 今回は町から車で20分の郊外にある古いリゾートホテルに一週間泊まることにした。1860年代に近郊で世界最初の原油汲み上げ技術が開発され、石油産業が栄えた時代に建てられた。ホテル敷地にある劇場ではオペラが上演された。
 1978年から子供二人と夫婦の4人で17年半住んだ町から帰国して15年が経っていた。駿河が久しぶりに町を訪ねて一週間滞在した時、ケンを昼食に招いてレストランで会った。
彼はすでに教員を定年で退職して、「近くの町に住む孫二人の遊び相手が仕事さ」と言い、軽い認知症にかかっている奥さんの世話をしているという。彼の善人さと明るさは少しも変わっていなかった。
 ケンは長年ミッドビル高校野球部の監督を務め、駿河をコーチに就任することを説得した。
 「ハンクも歳をとったな。あれから20年も経ったとは信じられないね」
 駿河は博之と同じイニシャルであることから、アメリカではハンクの名前を使っていた。
 「ハッハハ、歳はお互いさまだよ」
 それから、ケンが野球部の昔話を始めた。
 「あの頃は野球部のピークでね。あなたがコーチを辞めてから優勝もした。しかし、その後はキッズの熱意も下がって面白くなくなった。オレも監督として意欲を失った」
 「そう言えば、ケンは3Dと言ってキッズによく気合いを入れていたね」
 3Dとは、その頃、町の経営者たちも口にしていたことで、Duty(義務)、Dedication(献身)、Discipline(規律)のことだ。駿河は彼に「それは武士道だね」と言った。彼は日本では3Dが少しは生きているように思っているが、「そんなことはない。社会が豊かになり、戦争の緊張が無くなると、どの国でも人心は緩むものさ」と話したものだ。
 駿河は町の会合に招かれて講演する時には、Determination(決意、覚悟)とDignity(尊厳)を加えて5Dに変えて話した。
 ケンの話は、当時の部員の消息に移った。私もジョージとロニーについて訊きたいことだった。
 ケンは数年前にフロリダにバケーションで滞在した時、車を飛ばしてジョージに会いに行った。ジョージは地域で中流とされるレストランのウエイターをしていた。主任の一人に昇進した。
 ケンが会話の中で、彼は日本に行かなかったことを後悔していないかと尋ねると、ジョージは「多少後悔の気持はありますが、野球の実力にも自信がなかったし、やはり恐かったです」と答えたという。
 ジョージは野心に駆られるタイプではないから、ウエイターのようにこつこつとキャリアを積んでいける仕事が合っているだろう。それに彼は客に好かれる。ケンはジョージが会話にうまくなったと評価していた。
 もう一人のロニーの消息はまったく分からないとケンは言った。駿河が知らないことであったが、テキサスの大学で野球部に入った後、シーズンの途中で監督を殴って退部になったという。野球部員として大学に推薦で入学したのだから、当然、大学からも退学させられた。
 アメリカの大学運動部はほとんど強力なNCAA(全米大学運動協会)に支配されており、各大学の運動部長の人事までNCAAが権限を持っている。駿河はNCAAの内情を詳しく書いた『NCAA株式会社』というタイトルの本を読んだことがあり、時には学長の権限も及ばないと書かれていた。
 「ケン、私はロニーを怒らせてマウンドで殴られそうになったことがあるよ」
 「オレも憶えている」
 「あの時ロニーはよく我慢したな。大学でもどんな時でも我慢しろよ、とロニーにアドバイスしたのに残念だ」 

 ケンと別れてから、車を停めてダイヤモンド公園を散歩した。100年以上も経ち、威厳がある裁判所、教会、図書館などに囲まれた公園の森は新緑が美しい。町の式典行事、パレード、コンサートなどが行われる場所でもあった。週末の夜には、高校生がたむろして騒ぎ、周囲を車の群れが走り回る。
 駿河は冬の公園が好きだった。皮のオーバーのポケットに手を入れ、凍てつく雪の地面をよく歩いた。古いフランス映画のシーンに出演しているように思った。
 もうこの町を訪ねることはないだろう。
 あれは夢か幻だったか。 

   3.町のリトルリーグ

 ミッドビル市は人口が約2万人、隣接する町村を入れても3万人の小さな地域だ。東部中央三州の一つ、ペンシルベニア州の北西端に位置し、北に40分もドライブするとエリー湖に出る。そこから北はカナダだ。
 冬は長く、寒い。北米では二番目に寒いゾーンに入り、時にサブゼロと言われる厳寒の日が続く。サブゼロとは華氏0度のことであるから、摂氏で言えばマイナス18度になる。雪もよく降る。
 4月はまだ寒く、春とは名ばかりであるが、それでも野球のシーズンが始まる。リトルリーグの選手が公募されて新しいチームの編成が始まるのもこの頃だ。
 ジョージも駿河の息子ヒロもサン・チームに加わった。ジョージは投手と捕手、ヒロはショートか投手だった。ジョージの捕手は友達の監督に駿河が勧めた。
 1チーム12~3人の少数編成で町に6チームがある。各々レストランや地元の会社がスポンサーになって資金を出している。
 どの監督もうるさい親たちに悩まされる。ある日、新聞に出た漫画はこの事情をうまく表現していた。
 「よいか、リトルリーグの監督の心得はだな、子供を大人のように扱い、親を子供のように扱うことだ」と。
 監督は親たちを気遣って全員を試合に出さなければならず、試合に勝つことと全員起用を両立させることになかなか苦労する。「子供たちが楽しむ」ことがモットーのリトルリーグでは、へたくそな選手の起用で試合を失うこともある。
 四月初めから始まったリーグは、6チーム2回ずつの総当たり戦で週末だけに試合が行われる。リーグが始まると、試合がない週を除いて練習はしない。
 何しろ5回くらいの練習をするといきなり本番の試合に臨むのだから、チームプレイどころではない。特に投手はまだフォームも固まっていない。どのチームの投手も立ち上がりにコントロールが定まらず、順調にスタートしても試合中に突然ストライクが入らなくなることは常のことだ。
 ある監督がぼやいていた。
 「キッズ(子供のこと)は始めのうちみんなピッチャーになりたいと言い、いざ試合になるとみんなピッチャーをやめたいと言う」と。
 ジョージが投手の時には捕手が二塁に投げるようなスナップを利かしたフォームで投げるので、まだ安心して見ておられた。ところが、彼も突然ストライクが入らなくなると気が弱い面が出て、ストライクを狙うあまり小さなフォームがますます小さくなった。
 ベンチに半分泣きべそをかいて帰ってきた彼に、ベンチのすぐ後ろにいた駿河が、ささやくようにして言った。
 「ジョージ、ストライクが入らなくなったら、腰を使ってフォームを大きくするんだよ。ホームプレートの真ん中あたりをどこでもいいから楽に投げるんだ。力を抜いて大きく、大きくだ」

 ジョージが12歳、ヒロが11歳になった年、1983年だったか、6チーム中3位だったサン・チームからこの二人がオールスターに選ばれた。それからミッドビルの代表チームとして近隣の代表チームとトーナメント形式で週末毎に試合が進められる。
 最初の試合では二人とも先発から外された。みんな選抜された選手たちだから、これは仕方がない。しかし、打力中心に選ばれたように見える中で、駿河には二塁手の派手な守備が気になった。恰好だけで試合前の練習から球をこぼしていた。試合になると予感が当たった。簡単なゴロをはじいた。最終回の5回表、ツーアウト2、3塁に走者、二塁手のジェイに代えてヒロが代打に出された。ヒロはファウルで粘った後、ライト前にヒットを打ち、二人の走者を帰して5対4で逆転した。
 その裏相手チームの攻撃、ツーアウトで満塁になったところで、エラーをしたレフトに代えてヒロが守備についた。駿河はヒロが守ったこともないレフトの守備に入ったことに驚いた。ジョージは4回から救援投手として投げていた。
 打者がレフトの左にフライを打ち上げた。駿河はどきっとした。ヒロは後ろ向きに数歩下がると向き直って構えた。その間にランナーは走っていた。ヒロは落ちて来る球を胸の前で拝み取りした。駿河は背走する外野守備を教えたことはなかったのでびっくりさせられた。ジョージは次の打者を三振させて、これで勝利した。 
 次週には郡内の別の代表と試合。驚いたことに、またジョージもヒロも先発しなかった。懲りずに二塁手はザル守備の選手を出した。この試合でも、大差で敗戦が決定的になったところで、ジョージは救援、ヒロは代打に起用されただけだった。
 ジョージとヒロのシーズンはこれで終わった。
 郡の中で勝つと、他の郡の代表とプレーオフが続き、州代表の決勝に当たる州西部と東部の代表が対戦する。さらに勝者が各州代表と対戦して、最終的に東部代表が決まる。この東部代表がペンシルベニア州の内陸中央部にある小さな町、ウイリアムスポートで8月下旬に行われるワールドシリーズに出場する。遠い、遠い道のりである。

    4.ジョージが高校生に

 ジョーシとリトルリーグ以来町で立ち話をすることはあったが、中学生に資格があるボーイズ・リーグで野球を続けていると言っていた。中学には野球部がない。他の運動部もない。サッカーもレスリングも地域の市民が支えている。
 ジョージとはチームメートであった駿河の息子ヒロはリトルリーグを最後に野球から離れた。学生時代に野球選手をしていた駿河が残念に思って理由を尋ねたことがある。
 「ボクは身体が小さいし、野球は監督が公平に見てくれないから、もう野球は嫌になったんだ。野球のシーズンには好きなテニス部に入ることに決めたよ」
 実際、リトルリーグの監督たちには素人が多かった。町の代表チームであるオールスターには各チームの強打者を選んだ。守備がうまいヒロは辛うじて選ばれた。  
 余談になるが、数年前、巨人がトレードで獲得した強打者を何人もそろえた時、駿河は「まるでリトルリーグのオールスターみたいだな」と思った。
 その後、ヒロは町の少年テニス大会に出て活躍していた。親友のマイケルとは良いライバルで、二人は大学のテニスコーチから個人レッスンを受けていた。
 アメリカでは、中学3年は高校1年(フレッシュマン)と呼ばれる。
 ヒロとマイケルは卒業まで4年間テニス部のレギュラーとして高校対抗戦に出場した。
 ヒロは春から夏のテニス部のほかに、秋から冬にはレスリング部に属した。彼は小学校から町のレスリングチームに入って試合に出ていた。彼だけではなく、この町の高校生は二つか三つの運動部に属して、一年中、スポーツ漬けの生活をしている。
 親の一人は、「ヤツらは忙しくさせておけば、トラブルを起こす暇がないからね」と駿河に言ったものだ。
 もっともジョージのように経済的に貧しい家庭では、頻繁な車の送り迎えができないので、一つの種目に参加することが限界だった。

 1987年、確か、3月に駿河はジョージに再開した。でかくなっていた。185センチだという。
 駿河はこの年、高校野球部のバッテリーコーチに就任していた。前年の秋に監督のケンから呼び出しがあった時、監督を引き受けるように要請された。彼とは親しい間柄だった。
 「オレはもう8年も監督をやつてきたから、疲れたというか、飽きてきた気がする。ここらが交代の時かと思うんだけどね。ハンク、引き受けてもらえないか」
 「エッ、私が。助監督のマークがいるじゃないか」
 「彼は、知るだろう?野球をあまり知らない。荒くれキッズをリードすることには向かない」と言った。
 「待て、待て。そんな大役を、まして日本人の私がやれるわけがない。私は無役のコーチなら2年くらいなら引き受けてもよいが。リーダーのあなたの技術補佐というところだな」
 「うーん、やっぱり監督はだめか。しかし、陰のコーチというのでは物足りないな。バッテリーを面倒見てもらうコーチを引き受けてもらえないか。オレはピッチャーのことはよく分からないから、これなら助かる。気分も新しくなるよ」
 「うん、それならやってみよう。2年くらいならどうにかなると思う」
 この日はこれで彼と別れた。学校に正式に手続きを取ってもらうことになった。
 
 まだ寒い3月2日、外には雪が舞っていた。この日、体育館に約40人の入部希望者がトライアウトに集まった。顔ぶれを見渡してみると、みんなリトルリーグ経験者であるはずなのに、駿河が知っている顔が少ない。リトルリーグが狭い地域であるのに対し、高校は学区が広域になるために、各地のリトルリーグ出身者が多いからだろう。
 監督のケン、バッテリーコーチの駿河、助監督のマイケルの三人で選考が始まった。バッテリーの選考と采配は駿河に任せるとケンが言ってきた。

     5.トライアウトに臨む
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 バッテリーコーチに就任して駿河が初めて野球部員たちの前に顔を見せる日が来た。トライアウトと呼ばれる入部希望者の選考のことであり、野球部の定員が18人に定められているので門がきわめて狭い。
 駿河は当時のことをコーチ日記と称して日々の出来事や初めて知った町の野球事情を書いている。これをもとに選考の模様と町の高校野球について紹介してみよう。
 この町では高校野球は特異な地位を占めている。各地区の代表チームが対戦するプレーオフに入るまでは、一般の関心は低く、多くて50人くらいの観衆しか集まらないほど人気がない。ところが、一般の人気のなさとは対照的に生徒の間での野球部志望熱はきわめて高い。腕に覚えがある野球選手にとっては、この町で数多くある組織化されたチームの中で、技術レベルで頂点に立つ高校野球を目指すことは当然のことであるかもしれない。
 彼らは例外なく9歳でリトルリーグ野球の年少部に入り、高校の全学区では同年の他の仲間150人とともに硬球に接し始める。上級のボーイズリーグの最終年には約40人がリーグを終え、ここから3,4人が選ばれて高校野球部員になるのである。春になると、背中に野球部と高校運動部のニックネームであるブルドッグズと書かれた真っ赤なジャンバーを着て、彼らは誇らしげに町を歩く。

 3月16日、体育館でトライアウトが始まった。駿河の周りには10人の志望者が集まった。その中にジョージがいた。
 前年のチームからはシニア(高校4年、日本の3年生)が3人しか卒業しなかったので、ケンからバッテリーの新入部員の枠は二人だと言われていた。地域の高校リーグにはレターメン制度と言う慣行があり、一度部員に選ばれると本人が辞めない限り、部員の地位が保障される。これがチーム強化の妨げになっていて年によって最上級生が多すぎることがある。この年はそういう編成になっていた。
 10人の候補者にピッチングと、駿河が投げるゴロの捕球練習をやらせた。駿河の経験ではフットワークは運動能力を見る目安であり、フットワークが悪い選手は伸びる可能性が少ない。本当は50メートル走、遠投、握力の三つを知りたかったが、場所も時間もなかった。
 予感としてどのピッチャーもノーコンだろうと思っていたので、コントロールが良いシニア(4年)のデニーとソフォモア(3年)のジョージを採った。監督のケンはデニーに反対した。シニア部員が多過ぎるし、彼の球にスピードがないというのだ。
 「彼はコントロールが良いし、カーブも使えるからショートリリーフとして必要な選手だ。打者が一巡するまでは打たれないと思うよ」と、駿河が採用理由を説明した。そして、付け加えた。
 「四球でランナーをためて、その後でエラーかヒットで大量点を取られることを避けたいと思う」
 実際、駿河が観ていた試合では、ブルドッグズも他チームも四球で点を取られる試合がよくあった。ケンは速球投手が好きなようだった。
 これでケンは納得した。他方、最後の年に念願の部員になれたデニーは後で駿河に歩み寄り、感謝の言葉を述べた。本当に嬉しそうだった。

 翌日から体育館で午後6時から8時まで2時間の練習に新入部員が加わった。外はまだ寒い。雪が一面に積もっていた。
 南国と比べると、寒冷地の野球部は厳しい環境に置かれる。練習が始まってから約3週間で試合が始まる。 その間、何日屋外で練習できるか。駿河にとって3週間でピッチャーを試合で投げられるようにすることは大変だった。
 次第にバッテリー組の陣容がわかってきた。兼業組を入れると全選手の半分がバッテリー組で、しかも正捕手のほかに、控え捕手は兼業の投手だった。短期リーグ戦とは言え、投手偏重の布陣はいびつに過ぎた。ピッチング練習の捕手を確保しなければならない、これが駿河の課題だった。
     6.待望の屋外練習
 ようやく雪解けの後、地面が乾いた。ミッド高校の野球場では野球部の屋外練習が始まった。部員たちの弾むような掛け声の中、打球の音が快い。
 高校球場の一塁側にあるブルペンでは二人の投手が投げていた。傍らで見守る駿河が大きな声を出した。
 「こらっ、キャッチャーは腰を上げるな!」
 駿河はキャッチャーの熱意の無さと逃げ腰に手を焼いていた。今はいくらかましになってきた。これまでは本当にひどいものだった。というのは、部員数が18人の中で、正規のキャッチャーを打撃や守備の練習に取られると、ブルペンではピッチャーの球を受けるキャッチャーがいない。今、ブルペンで球を受けている二人もピッチャーだ。室内練習から外に出て二週間後にはリーグ戦が始まるこの地域では、ピッチャーに制球力を付けさせることが主要な目標だった。
 昨年、駿河がコーチに就任した時には、短い期間にブルペンでどのようにピッチャーに一球でも多く投げさせるかという課題に頭を痛めた。駿河は毎年何試合かリーグ戦を観たことがあるが、両チームともピッチャーの乱調で立ち上がりに点を失っていた。
 実情が分かったことから、ピッチャーに球を受けさせることを思い付いた。監督に依頼して使っていない古いプロテクターを部室から持ってきてもらった。これで胸のプロテクターとレガー(脚のプロテクター)を着けさせて捕球させることにした。ところが、急造捕手たちは始めから腰高に構えて、悪球が来ると素早く逃げてしまう。
 「腰を落としてしっかり構えよ。そんな逃げ腰ではピッチャーがコントロールをつけられないじゃないか。
自分が投げる立場になってみよ。そんなヘボ捕手を望まないだろう」
 いくら繰り返してもこのキッズ(子供、あるいはガキの意)たちは逃げまくった。《本当にどうにもならないヤツだ》と駿河は嘆息した。
 ある日、彼は決心した。ブルペン練習を始める前、投手の一人に言った。
 「マスクを持ってこい」と。
 駿河はキッズが見守る前で、プロテクターとレガーを着け、そしてマスクをかぶった。
 「よし、ロニー、お前から投げろ」
 しばしあっけに取られていたキッズが口をそろえて言った。
 「コーチ、大丈夫ですか?本当に」
 「日本の野球部ではルーキーの年には補欠の務めとしてブルペンのキャッチャーをやらされてきたのだ」
 「怪我したら大変ですよ」
 「任せておけ。オレは健康保険に入っている」
 「もう歳ですから無理しないでくたさいよ」
 「なに、おまえたちよりはまともなキャッチャーをやれる。見ておれ」
 ロニーはピッチャーとして最高の資質を持っていた。球速が90マイル(144キロ)を超え、天性の制球力があった。駿河は90マイルを超える球を受けたことはないが、制球が良い彼を無難な相手として手始めに選んだのである。
 「よし、ロニー、今日は八分くらいのスピードまで行くぞ。先ず、ウォームアップから始めよう」
 他のキッズが心配そうに見守る中、駿河はロニーの球を受け始めた。やがて球速を上げてきた。マスクの枠が目障りであったが、駿河はワンバウンドの球もしっかり捕った。この日は高め、低めに関係なく、真ん中を狙って投げさせた。良いフォームから投げた伸びがある投球を大げさ目に褒めた。
 もう一人に投げさせてから、駿河は立ち上がり、マスクを外した。《どうだ、見たか》と内心得意に思った。
 駿河の前で輪になったキッズに言った。
 「よいか、ピッチャーを育てるのは良いキャッチャーだ。自分が良いキャッチャーに対して投げたいのなら、自分が良いキャッチャーになれ。わかるな?」
 
 それから2回でキャッチャーをやめ、駿河は投げるピッチャーの横でコーチに注力した。
 急造捕手たちの態度が変わり、投手の暴投にも逃げなくなった。ただ、スポンジを手に当ててもまともに手の平で捕球した時に痛い、痛いと訴えた。駿河は無視した。
 監督のケンも駿河のキャッチャーには心配したという。遠くからちらちらと見ていたらしい。
 駿河の決断は彼自身に絶大な効果をもたらした。ケンの言葉によると、投手グループにチームワークが初めてできたこと、投手の投球数が増えて投手らしくなってきたこと、そして駿河が敬意を払われるようになったことを挙げた。
 ブルペンでカウントを取る投球に入る時には、駿河は正規の捕手二人を呼んで球を取らせた。二人とも素直に従った。
 後日、「なぜブルペンで捕らせたかわかるか?」という問いに、二人とも「投手の特徴をよくつかめました」と言っていた。
 《開幕までに間に合うかな》と思った。
 周囲はすっかり春らしくなり、初夏のような暑い日が続いた。ここでは春は短い。

      7.投手の練習を改革

 キッズたちは練習前のウオームアップでだらだらキャッチボールをしている。目標意識も持たない。相手はポジションに関係がない仲良しと決まっている。 
 ある日から、キャッチボールの相手をバッテリーで組むことを決めた。投手同志の組もある。そして、投球プレートとホームプレートの距離より少し長い約70フィートの距離を取らせ、相手の胸を狙うことに集中させた。
 何しろ練習時間が2時間しかない。

 グラウンドに部員たちの声が聞こえた。と言っても、日本の高校野球部のように、統一された掛け声ではなく、彼らはばらばらに声を出している。大きな声の雑談のようなものだ。
 シーズンが始まる直前の練習日、彼らは楽しそうにやっている。駿河が率いるバッテリー組は、打撃練習に捕手を取られている間、少し前までは嫌がっていた投手たちに交代で捕手をやらせていた。
 駿河は昨年まで出場機会が少なかったバーノンと、今年最終学年で部員になったデニーを重点に指導することにした。二人が投球練習を始める時、ブルペンのマウンドでアドバイスした。
 二人にこんなことを言った。
 「球は縫い目に人差し指と中指を直角に置いて指の皮膚が当たるように持つ。そうそうそれでいい。感じはどうだ?バーノン」
 「球と手の平の間が大きく空いて不安です」
 「そのうち慣れるさ。それが直球に回転を与える基本の握り方だ。先ずやってみようか」
 バーノンは何球か投げたが、伸びがない。
 「待て。もう一つのアドバイス。ストライクを腕で狙ってはだめだ。腰の回転に合わせて身体全体で投げるのだ。ティジェイのフォームを観察してみるといい。彼は腰が回転する後で腕が出てくるだろう?」
 193センチの長身から投げおろす直球は、練習を積めば威力が出てくるはずだ。彼の球は速くはないが、角度がある。
 「次、デニー。キミはカーブを中心に練習するんだ。直球はスピードがないから、低めを狙って球一つストライクから外れたコースを狙え。カーブ主体とボール球の直球でピッチングを組み立てよう。2イニングくらいを投げるリリーフ・ピッチャーになるぞ。当然、登板する時には走者がいるから、いつもセットポジションで練習することにしよう」
 「カーブの握りを改めたいのですが、どうするんですか?」
 「うん、直球と同じでもいいし、すこし指をずらして変えてもいい。自分で曲がりを見て、快適に感じる握りを探すといい」
 駿河は、本当は、2種類のカーブ、タイミングを外す大きく曲がるカーブも習得させたかったが、決め球に使う外角に逃げる小さなカーブ一本に絞った。時間がないと判断したからだ。

 それから2日練習を見ていて、バーノンのワインドアップを変えることにした。彼がワインドアップから投げるフォームはだらっとしていて、力をためるアクセントがない。そこで、ノーワインドアップとセットポジションから入る二つを試させてみた。
 「バーノン、どっちが投げやすい?」
 「ホクは走者が出ると制球が乱れて降ろされたので、セットポジションでやりたいです。その方が試合で生かせると思います」
 「それで行こう。走者が出ても練習通りに投げられる利点があるな」
 さらに、バーノンにカーブを教えた。彼が投げる落差が大きいカーブは相手打者が戸惑うだろう。
 「バーノン、カーブの握りは変えてもいいが、球を浅く握ることは忘れるな。そして身体全体で投げる感じも忘れるな。カウントが悪くなると、手が先行して狙うフォームになりやすいんだ。野球はダート(小さな矢を的を狙って投げるゲーム)じゃないんだよ」
 バーノンが珍しく笑った。
 「コーチ、走者を背負ったら、ダートはだめ、と自分に言い聞かせますよ」
 彼は高校で花形運動部のバスケット部の選考に落ち、野球しかない。しかも最終学年だから後がない。素直に駿河のアドバイスを受け入れ、真剣そのものだった。

 練習時間に制限があることは知恵を生むものだ。
 駿河はなんとかしたいと思っていたことがもう一つあった。それは、ペッパーゲームと呼ばれる軽い打撃練習のやり方を変えることだった。日本ではトスと呼ばれ、打撃練習本番の前に、普通二人の相手に向かって軽く打つ練習のことだ。打者が球の中心をよく見るように目を慣らし、打点ですっと肘を伸ばして軽く打つ。
 これを一対一でやらせることにした。
 「いいか、キミらには打撃練習のためじゃない。球の握りを正しく取り、球に適度の回転を与えて常にストライクを投げることが目的だ」
 そして、打ち方も教えた。
 彼らが打ち始めると、打球が乱れ飛んで投げる側は球拾いに走らされた。彼らの体力は5分と持たず、額に汗が流れてブーイング(文句)を口に出した。
 駿河は投げ方と打ち方の両方で手本を見せた。彼は学生野球選手の時に、登板する前に一対一のトスをやって年期が入っている。
 「わかったか?投手はストライクを投げず、打者は打ち加減を知らない。だから疲れる。これを自業自得と言う」
 みんな笑った。駿河は言った。
 「中にはシンカーを投げるヤツがいる」
 またみんなが笑った。
 「すっと球が行くためには握りとフォームが一体にならないとだめだよ」
 駿河はブーイングを無視した。

 ある日、トスの後で、車座になって休憩させた。
 「なあ、みんな。この練習には投手にとってもう一つの効果があるのだよ。何かわかるか?}
 かれらのレスポンスに駿河は満足だった。一人ひとりが回答をくれたからだ。
 「ハイ、何よりもきついウォームアップになりました」
 「ハイ、ボールを離す点が一定になってきました」
 「球を拾いに行かなくてすむように、必死でフットワークを使いました」
 あの荒くれ者のロニーでさえ優等生になった。駿河は言った。
 「そう、フットワークのことだ。不思議なことに、例えば、満塁のようなピンチでは投手の足元に強襲ゴロやライナーが飛んでくるんだ。投球後、すぐに構える心がけを憶えておけよ。これで勝敗が分かれる」

      8.シーズン開幕

 4月上旬の土曜日、薄陽が射していたが、気温は40度(摂氏5度)をわずか上回っているか、まだ寒かった。
 今朝、地元の新聞トリビューンに目を通していると、スポーツ面に今日の高校野球開幕を伝える記事が大きく出ていた。
 その中で、「今シーズンからコーチ・スルガがバッテリーコーチとしてスタッフに加わったので、投手陣が充実している。今日先発するバーノンはコントロールが良くなって成長した。今日の対エリープレップをミッドビル高校野球場に迎える開幕戦にはバーノンが先発する」と監督のコメントがあった。
 エリープレップ高校は、北西ペンシルベニア州の北端に位置する都市エリーにある名門私立高校だ。プレップというのはプレパラトリーの略で、日本で大学予備校と訳されているのを本で見たことがあるが、正確には私立進学校のことである。全寮制であるから、授業料も含めて学費が高い。生徒は金持ちの家庭から来ており、彼らは幼少からスポーツをやっているので、どこでも学業だけでなく、スポーツも強い。
 他方、ミッドビル高校は州の北西地域で学業でもスポーツでも公立の有力高校だ。特にレスリングとアイスホッケイが強く有望選手が越境入学してくる。野球は近隣の都市の6校でリーグをつくっている。エリープレップは別のリーグに属している。
 地域では古い私立と公立の両校はスポーツでは長年ライバル意識が強く、伝統の定期戦と言えるだろう。市民の間にも強い対抗意識がある。中でも、フットボールの試合はすごい。地元開催の時には新聞に試合の予想が乗せられ、地元のラジオ局でも特集が放送される。高校の競技場には2千人収容の観覧席が備わり、超満員の市民が集まる。夜に行われる試合は照明灯に照らされた緑の芝を、派手なユニフォームに包まれた両軍の選手たちが人形のように駆け回る様が美しい。味方がゴールすると、観衆が興奮して立ち上がる。駿河が町に住み始めた翌年、友達に誘われて観戦した時のことを思い出していた。《新聞、ラジオ、競技場の設備、応援する市民の興奮、そして何よりも市民の地元意識に驚かされたな。これがたった2万人の町か》
 フットボールに比べると、野球の定期戦は静かなものだった。約200人の市民が段々のシートになっている観客席に座って試合開始を待っていた。快晴とは言え、寒い日、彼らは防寒コートやキルティングを羽織っていた。
 傍らの監督ケンが耳元でささやいた。
 「ハンク、今日は最高の入りだよ」
 「えっ」と駿河。
 「真面目な話だよ。いつもは50人くらいしか来ない。バーノンはこんな試合の経験がないから、心配だな」
 「まあ、彼はよく練習したから3点くらいに抑えるだろう。今もたっぷりウォームアップさせたからフォームが安定した。打線をよろしく頼むよ」

 試合前にも、駿河は他の投手たちに普段通りに練習を命じた。4番打者であり、エースのロニーを除いて彼らはブーブー言いながらピッチングに汗を流した。
 「試合のことは考えなくていい。最低でもストライクを50球は投げるのだ」
 先発のバーノンは正捕手に任せて、駿河はブルペンで交代に投げる投手の横に立った。
 一人が言った。
 「これまでよりきついな」
 「文句言うな。シーズンは短い。練習の投球数が登板した時に効果が出るもんだ。ブルペンの投球から先発を決めるのだ。これがアメリカの精神、フェアだろう?」 
 
     9.ジョージの家庭環境

 練習後、その日もジョージは家まで送ってもらう車を探していた。部員の中では最も貧しい家庭だから、高校に車で通えないし、親も迎えにこない。この日は駿河が送っていくことにした。
 ジョージは小学校から今日までほとんど勉強をしたことがなかった。家庭環境に恵まれなかった。母親のケイは子供が小学校に上がる前には離婚していた。父親は行方不明で生死もわからない。
 メディアが生活保護に関して、識者が7001ドルのプライドと言った。当時、80年代は大不況の中で生活保護を受ける数が急増した時代だった。つまり、年収が7000ドル以下になると生活保護を受けられ、7001ドルでは受給の資格がないことを意味した。この時代、町の一人当たり平均年収は2万ドルくらいだっただろう。
 ケイはそんなプライドを支えにして生活保護を受けなかった。仕事から仕事へと必死に働いて二人の息子を育ててきた。ジョージがそのまま受け継いだような頑丈な体躯は酷使に耐えた。気丈な女性だった。
 一時的に仕事が切れると、属する教会の金持ち老婦人たちが生活費を支援していた。
 7000ドルと7001ドル、1ドルの違いは大きい。
 生活保護受給者たちには州が厚い支援を与えていた。町ではビレジ(村)と呼ばれる団地に住宅が建設され、ほとんどの受給者たちはここに集められていた。家賃とユティリティは無償、日用品を買うためのわずかな現金のほかに食券が与えられた。受給者には飲んべえが多いので、酒代に化けないように、食料にしか使えない食券が与えられる。それでも問題はある。駿河の友達がスーパーのレジで並んでいると、余った月度の食券で彼が買えないような高級ハムを買っていたとぼやいていた。
 町の批判派は、受給者たちに公園の掃除や困窮家庭の家の修理をやらせよ、といった厳しい意見があった。経済が悪い時代には出てくる意見だった。
 これに比べて、ケイは古い借家の家賃を払わなくてはならない。育ち盛りの子供に食費もかかる。幸いなことにアメリカでは高校卒業まで義務教育であるため、教育の出費はなかった。
 ある日、ジョージを家まで車で送った時、中に入ってコーヒーを勧められた。家のペンキがはげたままで、中はどの部屋もばたばただった。食卓と椅子があるだけで、勉強するための机もなかった。定期試験の前に勉強する時には食卓かソファを使うという。
 勉強するにこれほど恵まれていない環境はないだろう。
 長い間、勉強する習慣を身につけなかったジョージには、高校の授業はお手上げ同然だった。
 高校は厳しい。クラスがファーストトラック(優秀)、セカンドトラック(中)、サードトラック(成績が劣る)の三つに区分けされ、各々教科書の厚さが違う。ジョージはずっとサードトラック生だった。
 町では小学生から参加するスポーツが盛んだった。レスリング、リトルリーグ野球、サッカー、アイスホッケイなど家庭が豊かであれば何でも楽しめる。その中で唯一野球がジョージの救いだった。
 《しかし、ジョージは性格が素直だな。貧乏のダメジを受けていない。じっと耐えているのかもしれないな》
 駿河は車を運転しながらこんなことを考えていた。街路樹がかすかに薄緑色になってきた。美しく新緑に間もなく変わるだろう。

     10.バーノンの快投

 《あれは本当にうまく行ったな。人生において目前の困難を幸運に味方されて驚くほどうまくいくことがあるものだ。あれはたかが野球のことに過ぎなかったが、25年経った今も快感を覚えるな》
 駿河がこう回顧した。シーズンの初戦だった。駿河は背番号10のユニフォームを初めて着た。

 試合は地元ミッドビル高校の後攻で始まった。ミッドビル高校が先に守備につき、いきなり試合開始の緊張下、バーノンがマウンドに立つ。駿河は、本当は、バーノンを遠征先で先攻の試合で初登板させたかった。味方が攻撃中に充分ウォームアップできるし、試合の雰囲気に慣れられるからだった。
 ケンは華やかな伝統戦は公式リーグ戦の成績に入らないとは言え、シーズン最初の試合にバーノンを先発させることに「経験がない」と反対した。エースのロニーを使えと言う。
 内心、私はリーグ優勝を意識していた。結局、ケンが折れた。最初から監督は駿河と対立したくなかったこともあるだろう。
 試合直前、私がブルペンでキャッチャーをして過剰と思えるほど投げさせた。試合では複雑な投球数制限の規則があるが、練習には制限がない。全力投球の速球に頼らないバーノンには充分体力があると見ていた。捕手で主将のジムには回毎に配球の打合せをすることを伝え、初回はカーブを主体にする指示をした。
 セットポジションからの投球に変えたバーノンが第一球を投げた。195センチの長身から投げるカーブが大きく曲がり落ち、相手打者が空振りした。次の直球に詰まった内野ゴロに討ち取った。
 《これで行ける!》と駿河は確信した。
 ところが、二死を取ってからバーノンの投球が乱れた。四球、エラー、四球でたちまち満塁。彼が不安げにベンチの駿河を見た。ここでタイムを取って駿河がマウンドに向かった。捕手のジムを呼び寄せた。
 「ジム、なぜカーブをやめたんだ?」
 「ストレートでさえストライクが入らないので、とてもカーブは・・・・・・」
 「アホ、これは日本語でdamnのことや(笑い)。カーブで球の握りや腰の回転が変わってストレートが良くなるもんだ。カーブを使え。バーノン、カーブはどこに投げてもいい。真ん中を狙えばいいんだよ」
 カーブを投げた後に直球を投げると、すっと球に走りが出ることを駿河自身が経験している。
 初回のピンチは無得点で切り抜けた。

 直球と言っても、バーノンの球速は130キロ以下で三振を取れない。その後もカーブと直球のスピード差が大きい投球に相手打者が戸惑った。2階から曲がり落ちてくるようなカーブは効果てきめんだった。時に決め球に使う直球に打者が詰まった。そのまま4回まで安打1本と内野エラーで出塁させただけでバーノンは無難に抑えた。その間に味方が4点を取った。さらに1点を得点した。
 6回に安打、エラー、四球で一死満塁のピンチを迎えた。ここで駿河がマウンドに歩み寄り、捕手を呼び寄せた。内野手も集まってきた。163センチの駿河の前に195センチのバーノンがマウンドに立っていた。話しにくい。コーチの威厳からも様にならない。彼はマウンドのプレート上に位置を変えてバーノンをマウンドの低いところに降ろした。内野手も彼に従ってコーチを取り囲んだ。
 彼らはコーチが投手交代を告げに来たと思っただろう。ケンもそう思っていたに違いない。しかし、駿河は交代させる気はまったくなかった。
 「キミらは私がピッチャーを代えに来たと思っているだろう。その気はないよ。バーノンには完投してもらう」
 みんな意外な表情を見せた。不安顔で緊張していた。ここで駿河は一計を思いついた。ずっと昔、北海道の学生野球リーグで満塁の走者を背負ってリリーフにマウンドに立った駿河に、突然、監督から「キンを握ってみろ」と言われたのだ。驚きと同時に不思議なことに握ってみると気が落ち着いた。駿河はこれを思い出した。
 「バーノン、ストーンズ(石の複数で睾丸を意味する俗語)を握ってみろ。ちゃんとあるか?キミは男なのだ」
 野手たちがげらげら笑った。バーノンも恥じらいながら笑った。一気に緊張が緩んだ。
 「よいか、みんな、内野ゴロが来たら慌てるな。一つでいい、アウトを取れ」と駿河が指示。そして、バーノンと捕手のジムに言った。
 「もう一つや二つ四球を与えてもいい。握りを深くするなよ。いつもの通りに、力を入れずに腰の回転で投げることを忘れるな。得点差が5点あるんだ。ジム、これからは直球で押してみるか。ストライクが入らなければカーブを間に挟め」
 駿河はバーノンの直球がカーブの後ではよく伸びることを知っていた。
 ケンが不安の表情を浮かべてマウンドから帰ってきた駿河に言った。
 「大丈夫かい?」
 「ノープロブレム。バーノンは打たれていないから」
 結局、この回、ツーアウトからタイムリー安打1本を打たれたが、バーノンは2点で抑えた。その後も安定した投球を見せ、8対3で勝った。
 歓喜して引き揚げてくる選手たちの一群から、バーノンが駿河に駆け寄って握手を求めた。
 「コーチ、サンクス。最後の年に完投するなんて思ってもいなかったです。何しろ、これまでは2イニング投げたのが最長だったですから」
 
 試合後、新聞記者がインタビューに来た。コメントは横に立つケンに任せて、駿河は多くを語らなかった。ただひと言、「バーノンの成長にはみんな驚いていますが、かれはワインドアップからの投球をセットポジションに変えて制球が安定し、さらにカーブを習得したのです。練習の成果が出ただけです」と。
 翌日、地元新聞のスポーツ面にバーノンと私の写真入りで大きく出た。新聞ではセットポジション投法を取り上げていた。当時は常時セットポジションから投げる投手は少なかった。
 駿河はリスクを負う賭けに勝ったと快感を覚えた。会社の仕事でも敢えてリスクを取ったが、巧く運んだ時のあの快感だった。
 《よし、これでコーチとしての権威を確立したな》
 
      11.『ブル・ドュアラム』
 
 リーグ戦が始まる前のある日、日曜日の午後、映画館の前を通るとちょうど映画が終わった時で、ぞろぞろと観客が出てきた。
 その一群の中に、野球部員が何人かいた。エースのロニー親分が率いるグループと出くわした。この頃にはロニーは駿河に敬意を払うようになり、親しい関係が築かれていた。一瞬、ロニーは戸惑った表情を見せたが、すかさず言った。
 「コーチ、映画の最初は目をつむっていたよ」
 連れのみんなが笑った。
 
 駿河もその映画『Bull Durham(ブル・ドュアラム)』を観ていた。
 冒頭のシーンは、マイナーリーグの球団ブルズの天才型投手がロッカールームのトイレで性交する――と言っても後ろからの映像ではあるが――ところから始まる。
 そして、その直後に登板して第一球をバックネットに直接ぶつける暴投、大きな笑いを誘う。
 映画は南部ノースカロライナ州にある人口10万人の都市、ドュアラムにある実在の球団ブルズをモデルにしている。ブルズは大リーグのタンパベイ・レイズ傘下のトリプルA(AAA)球団だ。トリプルAというのは大リーグのすぐ下でマイナーリーグでは最もレベルが高い。
 ケブン・コスナーが演じる主人公の捕手クラッシュは、40歳近くなるまでほとんどのキャリアをブルズの正捕手としてプレーしてきた。大リーグ球団の捕手に故障が出た時だけ呼ばれ、そしてブルズに落とされた。そのためマイナーリーグでは最多のホームラン記録を持っている。
 《あれは最高の野球映画だったな。南部の情景をバックにして、マイナーリーグの雰囲気を醸し出した文学だった》
 駿河はいくつか断片的に想い出そうとした。
 《選手たちがおんぼろバスで遠征から疲れきって地元に帰ってくる。あれはリアルだったな》
 《クラッシュが大リーグから落とされてブルズに帰るため、古いマスタングのコンバーチブルを運転している。夕日がきれいだった。ミットとバット、それにスパイクシューズもか、言うなれば包丁一本の職人に見えた。野球を辞めたらどうするんだろうか、と不安を感じたな》
 《中年のガールフレンドと裸で踊り狂っていた。その愛人は中学で英語を教えている。独身の彼女は野球狂で恐ろしく詳しい野球技術の知識を持っている。あの南部弁が強烈だったな》
 《捕手のリードを受け入れない天才投手を懲らしめるために、打者に「次はストレートだよ」なんて教えてホームランを打たせる。あれは傑作だったな》
 《まともな投手らしくなってきた天才に電話が入る。大リーグから昇格の通知が来たのだ。飛び上がって万歳を叫ぶところだが、彼は受話器を手にしたまま声も出ない。それから、「オレはショウに出られる!」とやっと声を出す。大リーグで試合に出ることを、ショウに出るという言い方をするんだな》

 ある日、駿河は相手チームに向かうスクールバスの席でうとうとしていた。急に「Fears and arroganceか」と声を出したらしい。隣りに座っていたケンが驚いた。
 「何か言ったか?」
 「うん、半分居眠りしながら『Bull Durham』の映画を想い出していたんだ。ほら、クラッシュが大リーグに呼ばれたあの投手に対してアドバイスしただろう?それを想い出した。『大リーグで投げると、始めはピンポン球のように打たれる。それでもFears(恐れ)とArrogance(傲慢さ)を忘れるな』とね。なかなか含蓄があるね」
 ケンはそこまで憶えていない、と言った。

 後日、日本では『ブル・ダーハム』というタイトルで上映されたと聞いた。

       12.安心の中に感じる不安
 
 日本で言えばこの町は津軽海峡と同じ緯度上になるが、帯広の冬の寒さになるだろうか。この町では12月初旬から、年によっては11月から4月まで冬が続く。シベリア特急と呼ばれる寒波が来ると摂氏マイナス20度以下になることがある。
 駿河が、日本企業からこの町ミッドビル市にあるアメリカの大企業グループの一部門に転職してから10年が過ぎていた。あの思い出すだけでも緊張に冷や汗をかく80年代の初め大不況の最中に、グループ全体がピッツバーグのコングロマリットによって買収された時、首はどうなるのだろうか、と同僚マネジャーと毎日のように話した。幸いなことに、占領軍本社から派遣されてきた新社長は、社長、副社長、財務役員の3人を首切りしただけで、マネジャークラスはそのまま生かしてくれた。
 後で考えれば、前戦の戦闘隊長と言うべきマネジャーを切れば、日々の業務に支障を来すし、働き盛りの専門職をすぐに充足できないから、身分は安全なのであるが、その時には分からなかった。その上、日本を発つ前に、不況になれば外国人から首を切られるという話を聞いたことがあるので、駿河には神経戦の毎日だった。
 それから間もなく、アジア市場の責任者を求めていたアメリカ企業から話が持ち込まれた。日系企業からも役員として要請があった。いずれも車で5時間はかかる町にあるので、引っ越ししなければならない。家族に相談すると、引っ越ししたくないから、単身赴任で行ったらどうか、と言われた。駿河は日本で3年くらいの任期と分かっていても、地方の町から家族を引き連れて東京に転勤したので、単身赴任の経験がなかった。それよりも、子供たちは大学に行けば家を離れる。なんと言ったって、子供たちとは18年しか一緒に住めないのだ。結局、新しい仕事をあきらめた。
 勤めていたアメリカ企業の顧問と、日系企業の非常勤役員で収入が増えた。
 町の有力者が集まる奉仕クラブに、3人の推薦者を得て会員として認められた。毎週火曜の昼に例会があり、昼食を取りながら会話する間に人脈が広がった。クラブが主催する奉仕活動にも参加するようになった。
生活に充実感があり、幸福な時代だった。妻と子供二人も生活にうまく順応していた。引っ越しを嫌がるほど順応し過ぎていた。
 北海道の小さな町のように四季がはっきりしている、景観は美しい、冬の生活もまた良し、友達は多い、小さい町の割には郡の行政府で社会資本が豊か、形はまちまちでも地域産の肉や野菜もうまい、大学近くの住宅地に家も買った。
 ゴルフはいつでも週末の早朝や夏の夕方に9ホールを回る。近所のコースなら7ドル、一級のコースでも30ドル。車で30分以内に20くらいのコースがある。隣人の教授と時々テニスもやる。冬はスポーツクラブで泳ぐ。
 《なんと快適な生活であることよ》と思う。
 しかし、こんな快適な生活の中で、この頃ふと心によぎる不安を感じることがあった。
 ≪オレは人生に快適であることだけでよいのだろうか。それに、子供たちはとにかく、オレは長男としていずれ日本に帰らなければならない。日本で仕事をどうするのだ?人は快適だけでは生きられない》

 駿河には大事な課題がありながら、しばし忘れて野球に関わることは生涯に何度もあったことだった。
 ミッドビル高校はリーグ戦の前半で首位だった。すべてうまく、いやうまく行き過ぎていた。
 駿河は家のサンルームのソファでうたた寝をしていた。陽光が部屋いっぱいにさしている。半分は起きていて半分は寝ている状態が気持ちいい。部屋は居間に隣接した三畳くらいの広さで三方が窓になっている。横になっていると庭に並んでいる松の木しか見えない。時々小鳥の声が聞こえる。餌箱を吊るしていた庭の木の枝に数種の小鳥が来る。音を小さめにしたラジオからボップスの快い音楽が流れている。駿河には会社の仕事も執筆も忘れて、今は至福に感じる束の間のひとときだった。
 ふとジョージのことを考えた。
 ≪もうあれから8年も経ったのか≫
 駿河がジョージと初めて会ったのは、小さな町にも6チームあったリトルリーグ野球の専用球場だった。スポンサーの会社名を冠したチームでジョージがピッチャーをしていた小学6年の頃で、駿河の息子のヒロも一級下で選手だった。駿河は親として週末の試合を観戦した。ジョージの身長はすでに170センチを超える大柄で目立ったが、ピッチングでもバッティングでも手首を利かせたフォームが特徴だった。それでもコントロールが乱れて四球で自滅することはあっても、めったに打ち込まれることはなかった。駿河はこの時から彼はキャッチャー向きだと思っていた。
 ある日、試合後にジョージを車で自宅まで送っていった時、彼の母親ケイが在宅していた。二人の息子と3人が暮らす借家の中は、貧乏な家によくあるように、家中が乱雑で、テーブルの上もソファの上も食器や衣類が散乱していた。
 駿河とケイは同じ教会のメンバーで顔見知りではあったが、あまり話する機会がなかった。
 彼女は駿河に礼を言って、コーヒーを出した。
 「ハンク、子供たちは野球ばかり熱中してさっぱり勉強をしないことに頭を悩まされています。どうすればよいのでしょうか」と相談してきた。 
 「うーん、中学になると急に授業のレベルが上がるから、今から机に向かう習慣をつけることにしたら」と言ってから、駿河は机もなさそうであることに気づき、続ける言葉に窮した。
 《ああ、最近よく言われるようになった家庭格差の問題がここにあるな》と心の中で思った。
 「ハンクは学生野球の選手だったと誰かが言っていました。せめて野球ではジョージをコーチしてやってほしい」と頼まれた。
 「うん、野球ならコーチできるから、やってみましょう」と答えてこの日は別れた。

       13.格下のチームに連敗
 
 チームは順調に白星を重ねた。どの投手も大量点を取られることはなかった。
 優勝を争うライバルのC高校を迎えての第一戦ではロニーが4:0で完封した上に、彼がツーランホームランを打った。ロニーのワンマンショウだった。
 こんな時に思いがけないことが起きた。

 土曜日の昼過ぎ、チームがスクールバスで対戦相手のK高校に向かっていた。
 小一時間かかる目的地まで、バスの中では部員たちがはしゃいでいた。駿河は運転手のすぐ後ろ、監督のケンは通路をはさんで真横の席に座っている。彼らは最前列から数列の空席を置いて後ろにかたまって座っている。いつもの配置だった。
 ケンは彼らの仲間内英語がわかるが、駿河には断片的にしか理解できない。駿河が運転手のビルに話しかけた。
 「ビル、私は町に住んで10年近くになり、仕事でも日常生活でも英語にはほとんど不自由しない。しかし、後ろから聞こえてくる彼らの会話はよくわからない。私の英語もまだまだだね」
 ビルがわずかに顔を右に向けて言った。
 「コーチ、心配しなくていいよ。私はこの町で生まれて60年になりますが、その私でさえ彼らの会話はよく分からない。ハッハハハ」
 ケンが口をはさんだ。
 「私もすべて分かるわけじゃない。ヤツらは仲間だけ通じるような発音に変えるし、スラングも年ごとに変わるんだよ」
 そして、小声で私に話かけた。
 「今、連中はK高校の野球部をファーマー(百姓)などと呼んでなめきっている。危ないな」
 私にもアーカンソー(南部の小州で、クリントン大統領の出身地)とかファーマーの言葉が耳に入った。
 ケンの説明によると、K高校は郡部にある全校生徒200人くらいの小さな高校で、ミッド高校が属する市部AAAリーグ6校の中で唯一のAAチームであるという。ミッドビル高校はK高校に一度も負けたことがない。
 部員たちは相変わらずバスの中ではしゃいでいた。親分ロニーを中心に、彼らが野球映画『ブル・ドュアラム』について話していた。セックスについてきわどい会話をしていることは、駿河にも分かった。その中で、ジョージ、バーノン、デニーのピッチャー組は目を閉じて静かに座っていた。
 試合は久しぶりにバーノンが先発投手、ジムが捕手のバッテリーで始まった。
 中盤まで貧打戦の様相で、ミッド高校は荒っぽい打撃が目立ち、タイムリー打が出ない。4回表、外野守備についていた4番のロニーがツーランホームランを打ち、先行した。次の回にはマットがソロホーマーを打ち3-0。6回裏に入ると、突然バーノンが乱調になった。
 フォームがばらばらでストレートでもカーブでもストライクを取れない。一死から続けて四球を出した。
 駿河はここで左投げのスティーブに代えた。
 「よいかスティーブ、右打者の右膝を狙ってストレートを投げるんだ。ストライクでもボールでもいい。右膝を狙えば、死球になるような球でも相手はよける。死球を気にするな。まあ大体ストライクでいい」
 「はい、わかりました」
 と、彼は言ったが、顔は緊張でいっぱいだった。
 「腰を思い切って回転するんだよ。打たれないと思え。よし行け」
 彼は唯一の左投手として3年間チームにいたが、気が弱い。駿河がコーチになってから、徹底して右打者の内角を攻める練習をさせてきたが、試合で投げると球が内角から真ん中に流れて打たれやすいコースに行った。 
 彼はフルカウントから四球を出して満塁になった。隣りでケンが苛々していた。駿河が口に指を当てて、騒がないようにと伝えた。
 スティーブの球に詰まってゴロがショートの正面に飛んだ。
 《よし、これでダブルプレー、チョンだ》と駿河が内心思った。がっちりと腰を落としてショートからセカンドに投げればよいのだが、ピートは腰高のまま前進してくると、セカンドにランニングスローで投げた。
これが暴投になって走者一掃で逆転されてしまった。
 ピートはリトルリーグ時代から名を知られた選手で、いつも派手なプレーをしてきた。これが命取りになった。
 最終回の7回、狂ったリズムに抗することができず、1点差でそのまま押し切られた。リーグ優勝するのに手痛い取りこぼしだった。連戦の第二試合でも相手のエースを打てずに負けた。手痛い連敗たった。
 帰りのバスでは誰もしゃべらなかった。駿河もケンと口をきかなかった。練習でもピートの守備が気になり、走者が目に入るケースで、例えばツーアウト満塁で腰を落として球を取る練習をやらせてきた。
 《オレが監督なら、あの時満塁になったところで内野手を集めて注意しただろう》と思った。

       14.チームが乱れる
 
 まあ言ってみれば、ブルドッグズ野球部は急増チームみたいなものだ。それも毎年のこと。苦境にしばし耐える持久力に欠ける弱さが表面化してきた。
 格下の高校に予期だにしなかった2連敗から幸福の日々が崩れ始めた。坂を転げ落ちるようだった。
 
 中間試験が終わると、成績不良のために自宅謹慎を命じられる部員が3人も出た。試合はどうにかなるにしても、バッテリー組の練習に支障を来した。
 ファーストトラック(最優秀生徒組)のデニーとセカンドトラックのバーノンなど数人を除くと、他はサードトラックに属している。能力に応じてクラス分けされているが、薄い教科書が使われるサードトラックであっても、また試験の出題が他より易しくとも、どのクラスにも優良可の下に不可の成績評価があり、共通のルールが適用される。
 いちばん痛かったのは正捕手のジムが謹慎の対象になり、練習にも試合にも出られなくなったことだ。他の2人は投手だった。謹慎はバッテリー組に集中した。
 監督の希望で二番手投手と控え捕手のマットを先発捕手にした。マットは地域では高校レスリング部の主将として名を知られていた。卒業後、奨学金を得てピッツバーグ大学に入り、ここではレスリング選手として活躍した。後日聞いた話では、大学卒業後に陸軍幹部養成学校に入学した。陸軍でもレスリングを続け、卒業後少尉に任官したという。
 良いこともあった。それは駿河の勧めでジョージが捕手として先発出場できる機会が増えたことだ。ジョージはインサイドワークという言葉を知らないほど捕手の責任を理解していなかったが、コーチのアドバイスをよく入れて急速に捕手らしくなった。

 ライバルとして優勝を争うC高校との試合ではエースのロニーが乱打された。
 駿河にはこの超高校級の速球投手が打たれるとは思ってもみなかった。打者が一巡するとガンガン打たれ出した。速球が打たれると、ロニーはむきになり、投球がさらに単調になった。彼には自慢のナックルカーブの変化球がある。駿河は練習でナックルカーブは球速が遅すぎ、打者に読まれてひと呼吸置いて打たれる。だからチェンジアップを教えた。チェンジアップというのは、速球と同じフォームで10マイルくらい球速を落として投げる球のことで、大リーグの投手が効果的に使っている。球の握りは三本指で投げる、あるいは手のひらに球を密着して投げるなどと聞く。打者は速球だと思って振るのでタイミングがずれる。駿河が35年以上前、渡米中に初めて大リーグの試合を観た時、当時は変化球が少ない時代であったが、打者が不思議なほど空振りをするのに驚いた。それがチェンジアップだった。
 監督はちらっと駿河を見て、ロニーの降板を促す表情を見せた。駿河はタイムを告げるとマウンドに向かった。捕手のジムを呼び寄せた。内野手たちも集まってきた。

 「ロニー、なぜ打たれるか分かるか?」
 ロニーはカッカッとして無言。
 「ジム、なぜだ?」
 「そうですね、球に伸びがないようです」
 「それだけか?打たれるのはストライクばかり投げさせるからだよ。よく打者を見ろ」
 「ロニー、ナックルはプロでは通用しない。大学でも通用しないと言っただろう。チェンジアップを投げろ」

 相手チームの監督は前回完封された後、よく研究したに違いない。ロニーの単調な投球に対し、ストライクのコースの速球を予測して打者に振らせ、ナックルはひと呼吸置いて狙い打ちさせた。
 「ロニー、相手はストライクゾーンに的を絞ってバットを振り回しているのだ。そこへストライクを投げるからバットに当てられる。ロニー、おまえはコントロールと言えばストライクを投げることだと思っているだろう?よいか、本当のコントロールとは打者が打ち気なら狙ったところにボール球を投げることなんだよ。今のままではプロには通用しない。いや大学でも通用しない」
 駿河が珍しく早口でしゃべると、ロニーは顔を真っ赤にして怒った。駿河は殴られるかと思ったが、彼はこらえた。
 ベンチに変えると監督が、「ロニーを代えないのか?」と言った。駿河は、軽く「完投させる」と答えた。 前半で5点も差をつけられて勝敗が決まったも同然なのに、監督は不満のようだった。
 その後、ロニーは得点を許さなかった。チェンジアップを練習ではちゃらんぽらんに投げていたが、初めて試合でうまく投げて見せた。効果てきめんだった。
 《うん、やっぱりこいつは天性の素質があるわい》と、駿河は日本語で独り言をつぶやいた。
 
 駿河にはもう一つ退治しなければならないことがあった。コーチとして選手からも親たちからも一目置かれ、万全の権威を確立した時を待っていた。
 地域では自由形の水泳選手として活躍していたティジェイが投げていた。柔らかい身体の持ち主で腰が回転してから腕が出てくるフォームで、185センチの長身から投げ下ろす速球が打者の手元で伸びる。彼は継投の時期をつかみやすい投手だった。というのは、4,5回投げると腰が回らなくなるからだ。球が外角に行かなくなる、行っても伸びが無くなるか、打ちごろの真ん中に入る。
 バックネットの後ろから喧しく騒ぐ男が居た。捕手ジムの父親があれこれと息子にアドバイスするのだった。駿河がベンチに引き揚げてきたジムを呼んだ。
 「ジム、親父の声を無視して自分の考えでリードしろ」
 「親父はリトルリーグでは監督だったし、家に帰ってもあれこれうるさいんですよ」
 「いいか、このチームのコーチは私だ。私は投手には詳しい。先ず、私の指示を聴け。そして、もっと大事なことは自分の考えで投手をリードすることだ。分かったか?」
 「よく分かりました」
 それ以後、ジムが親父に話したのか、親父は静かになった。
 
       15.あっという間のシーズン

 6月、玄関の階段脇に今年もシャクナゲが咲いた。町の街路樹は新緑から深緑に変わりつつある。葉が陽を浴びてきらきら輝いている。田舎町の空気は澄み、空は日本の都会では見られないような青さだ。日本なら5月の気候で爽やかな晴天が続く。
 野球部はコーチ駿河の手腕も及ばず、リーグ2位に終わった。2年目には2社の取締役になったため、ホームゲームにしか出られなかったが、ごっそりシニアが抜けたチームにしては2位になり、健闘した。ジョージは投手、捕手、4番打者として活躍した。
 4月から6月初めまでの短い高校野球シーズンがあっという間に終わった。そして卒業式。
 部員たちはばらばらに散っていく。
 卒業してもジョージが希望する就職は得られなかった。漠然と事務職を希望していたが、あまりにも準備ができていなかった。早く言えば、履歴書に特別に書くことがない。駿河が車の中でアドバイスしたことは何も生かされることがなかった。
 彼はアルバイトをしていたハンバーガー・レストランで終日働いていた。

 町に高校と隣接して通称ボーテックと呼ばれる職業訓練学校がある。正式にはVocational Technical School、つまり実業学校で、夜と週末に授業が行われる。郡の教育委員会が運営している公立施設である。高校生だけではなく、高校卒業生も無料で行ける。
 実業学校と直訳すると、日本の商業高校や工業高校と誤解されやすい。アメリカでは高校卒業まで義務教育であり、一般教育の普通高校であるため、このように別に職業教育を受けさせる施設を設けている。教科には、機械加工、木工、製図、秘書実務、経理などがあった。まだ安価なパソコンが世に出る前で、コンピューターの科目はなかった。インターネットもなかった。町に官民共同出資のプロバイダーが設立されたのは、駿河が帰国する年の前年94年のことで、全米では早い方だった。
 駿河はアメリカ企業に勤めていた時、営業部の技術者として一品料理の専用機を担当していたので、見積もり設計にコンピューターを使っていた。しかし、議事録や報告書は秘書、と言っても、マネジャーが共有する秘書がコンピューターに入力していた。当時は何を入力するにもコマンドを英文で書いて作動させるので、駿河は出来合いのシステムを使うだけでよかった。得意とは言えなかったが、それでも個人でパソコンを買って使い始めた時には会社の経験に助けられた。

 2年目のシーズンには、ケンを説得してコーチの責任を一段下げてもらった。もう一つイリノイ州にある会社の取締役に就任して町に居る日が少なくなったからだ。練習とホームゲームにはできる限り出ると約束した。試合ではベンチに座ったが、ユニフォームは着なかった。ケンは高校には前年と同じく野球部コーチとして登録した。
 癖がある個性的な最上級生が卒業してどこか物足りなかった。面白味が少なくなったと感じた。それでもチームはバランス良くまとまり、ケンには守備中心のチームにすることを繰り返し進言した。
 ジョージが最上級生になり、投手兼捕手として中心選手になり、どちらかのポジションで全試合に出た。何本かホームランを打った。
 
 駿河は試合後にはジョージを車で自宅まで送り、捕手のインサイドワークを教えた。「ジョージ、これは野球の駿河スクールだ」と言って笑わせた。彼はおとなしい性格のせいか、キャプテンに選ばれなかったが、攻守でチームの大黒柱として他選手からも認められていた。
 足が遅くてドタバタと走るフォームを、徹底してつま先で走るように変えさせた。185センチの長身が立つ姿は格好いい捕手に映った。これで野球を終わらせるのは惜しい。しかし、成績が悪いので大学の奨学金をもらえそうにもない。はて、どうしたものか?
 駿河は彼の進路について、ふと気がつくと名案を探すことに頭をめぐらしていた。

       16.頭が悪い、ジョージの思い込み
 
 ジョージの口癖は「ボクは頭が悪い」だった。
 この日も車の中で彼が言った時、駿河は持ち前の好奇心からその根がどこにあるのか探ってみようと思った。
 「なあ、ジョージ、なぜ頭が悪いと思うのだ?」
 「SATのスコアは最低だし、定期試験でも頭が働かないです。特に数学は悪いのです」
 SATというのは大学進学適性を見る試験で、全国の高校に対し、数学、読解力、作文力の3科目で各800点、合計2400点が満点。進学しないジョージも受けたという。
 「私は記憶力については悪くないと思っているが、例えば、どうしても花の名前を憶えられないことが多い。小鳥の名前は記憶できるのにおかしいな。つまりだね、人には頭の構造で得手不得手があるらしい。もう一つ例を挙げると、小学校時代から絵描きがへただった。特に立体の絵をうまく描けなかった。それがね、大学工学部に入ってから、物理でも数学でも立体、つまり三次元に関係する分野ではよく頭が働かない。しかし、理論には強かった。何を言いたいか、わかるかい?」
 「ボクももともと数学には頭が働かない、ということですか?」
 「半分だけ当たっている。残る半分はね、数学にもいろいろあるということだよ。私は得意な数学の中で幾何が苦手だった。幾何をやったか?」
 「いいえ、取りませんでした」
 「数学というのはね、高校レベルの範囲でも、代数、三角関数、微積分などと独立の体系に分かれている。
この中では代数が基本だ。おそらく君は代数の初歩的な段階で理解につまづいただろう。代数という体系の中では、次の段階は前の段階を基礎にしているから、途中で理解できなくなると、もう次から付いていけない。だから頭が悪いという意識を持たせられる。こんなところだろう?」
 「そうです」
 「これではSATのスコアが悪いに決まっている。確かに頭のいい奴がいるよ。毎年数学で800満点取る生徒が全国でたくさんるからね。ミッド高校でも750点以上を取る奴がいるよ」
 信号で停車して一息ついた。出会った老婦人2人が歩道の途中で話を始めた。男たちが「女は歩道を赤信号で渡り、青になると安心して歩道の途中で話をする」と揶揄している通りだった。のどかな風景だった。駿河が続けた。
 「頭が良い他人は君には関係がない。こういう連中は理学部か工学部、そして医学部に行く。早い話、ミッドビル高校ではシニア330人中、微積分の高等数学を取るのは30人足らずで、残りは取らない。君はこの残りの多数グループと社会で競争するのだ。どんな職に就いても代数は役に立つものだ」
 「ボクは勉強をほとんどしたことがないから、頭が良い悪いなんてものじゃない。そうですよね?」
 「その通り。頭が良いかどうかはとにかく、頭が悪いと思わないことだ。数学が分からないから、みんなだめだと思い込んでいるのなら、敗者の道だよ」
 ここで野球の話になった。
 「キャッチャーとは記憶力と推理が要るポジションなんだ。天才は要らない。つまりだな、それまでの打者の得手不得手の球を記憶して、コースや球種を投手に投げさせる。同じ投手でも日によって球の調子が違う。これに合わせると同時に、打者の待っている球を推理する。状況によって球種を選ぶ。わかるか?」
 インサイドワークなんて言ってもわからないジョージは黙っていた。
 「いいかジョージ、野球だけの話じゃない。頭を使わないことと頭が悪いことは別なんだよ」
 「コーチ、仕事でも数学は要らないと言っているのですか?」
 「数学を知らなくても就ける仕事がいっぱいあるといことさ」
 「代数だけは卒業しても勉強をやり直す必要があるということですね」
 「なんと言っても、やると決めたらやり抜くことだ」

 カーラジオにボブ・ディランが歌う曲が流れている。駿河はステアリングの輪を叩きながらうろ憶えの歌詞を大声で歌った。ジョージがついてきた。
 「ジョージ、日本の野球ソングを聞かせてやろう。ベースボール・キッズという歌だ」
 こう言うと、駿河は古い灰田勝彦の「野球小僧」を歌い始めた。途中で歌詞が出てこないところは飛ばした。
 「オー、マイボーイ、朗らかな、朗らかな、野球小僧」
 遠い昔、駿河は大学野球部時代のコンパでもいつも歌ったことを想い出していた。 

      17.『ライ麦畑でつかまえて』
 
 町は短い春から夏に入っていた。新緑の薄い緑が日に日に濃緑に変わり、気温が30度を超えても湿度が低く、そよ風が吹くこの季節は最高だった。くっきりとした青空に道路の両側の並木が美しい。森林を切り倒して道路を通したのだ。
 ジョージが卒業後働き始めたハンバーガー・レストランで夕方に会った。勤務時間が終わると、コーヒーを飲みながら片隅のテーブルで話した。
 駿河には一つの考えがあった。
 「ジョージ、今日は本を一冊持ってきた。 『Catcher in the Rye』(邦題「ライ麦畑でつかまえて」)という本だ。退屈で文も読みやすいと言えない。我慢して最後まで読み切れるかどうか、自分を試すつもりで読め」  
 「野球の本ですか?」
 「そう思うだろう?ところが、野球とはまつたく関係がない。実はね、ニューヨークに行った時に本屋で
野球関係の本を三冊買ったのだが、帰ってから読むとこの本は野球とは関係ないことを知った」
 ジョージが笑った。そして、続けた。
 「ところがだ、これが有名な本で、間違い転じてラッキーだったというわけだ。なぜキミに読ませたいかと言うと、ここに出てくる主人公のホールデンは、世間の本によくあるような模範的なヒーローではない。恵まれた家庭に生まれながら、勉強意欲もない、将来の目標もない、何事にも真剣に取り組めないなど、およそ模範とするタイプではない。小説は、成績が悪くて金持ちの子弟が行く全寮制私立高校を退校させられた彼が、家に帰らずにニューヨークを三日間ぶらぶらする生活を描いている。キミから見たら彼の恵まれた境遇と生き方に腹を立てるかもしれない。それでも最後まで読んでほしい」
 「最近の本ですか?」
 「いや、驚いたことに、第二次大戦でアメリカが勝った直後に出版された。愛国心が高まった時代だったと思うが、こんな反体制的、反道徳的と言えるような本が若者世代を中心によく読まれたという。分かるようで分からないな」
 「なぜボクに読めと?」
 「反体制になれ、というのはジョークで、まあ、根気試しということだ」
と、ジョージを笑わせた後で、駿河は真面目な表情になった。
 「誰でも悩みを抱えている。将来に不安を感じる。これが当たり前のこと。キミがピッチャーなら打たれてピンチになってもそのイニングはとにかく投げ抜かなければならないだろう?」

 2ヶ月が経った頃、彼が本を駿河の自宅に返しに来た。駿河は出かけるところで、玄関で立ち話をした。
 ジョージは駿河と別れてから考えた。
 コーチはオレに頭が悪いのではなく、頭を使っていないのだとよく言う。しかしだ、コーチは頭がいいから何とでも言えるのだ。それでもオレは数学がまったくできないから頭が悪いのだと決めつけていたことは確かだ。コーチは英語が大事だと言った。英語が思考力をつけるのだと言った。あれは意外だったな。これまで考えたことがない。
 今まで機会がある度にコーチは野球以外のことでもアドバイスをしてくれている。なぜかオレのことを心配してくれている。きついことも言われたな。
 「図書館に行ったこともないだろう?」
 そう、オレは町の図書館にも学校の図書室にも行ったことがない。
 「新聞を読め。隅から隅まで読むのだよ」
 そう、オレはスポーツ面だけしか読まない。
 「なぜ隅から隅まで読むのですか?」とオレが質問したらコーチはすかさず言ったな。
 「最初は面白くないが、そのうち面白くなってきて世間の様子が分かってくる。途中で止めたらお終いだよ」
 それにしても、『ライ麦』は退屈だった。コーチがオレの根気試しをしていると思ったから、意地で最後まで読んだ。考えてみると、生涯で読み切った最初の本だったな。
 別れ際にコーチに訊いたんだ。「コーチはこの本をいつ読んだのですか?」と。そしたら、「私は半分を読んだところで根気が切れてまだ全部読んでいない」言う。
 「あきれたよ。あの人は何を考えているか分からないところがある。本当に変化球ピッチャーだな」

        18.フロリダに仕事の口

 その後もジョージの就職は決まらなかった。
 卒業後1年近くも経った頃、彼から電話がかかってきた。フロリダに行くことになったので、報告したいと言う。
 そこで、ファストフード・レストランで待ち合わせしてハンバーガーを食べながら話を聴いた。彼は野球部監督のケンに紹介されてフロリダのレストランでウエイター見習いとして採用された。そこは普通のレストランで基本給よりチップが主たる収入になる契約だという。彼は毎年夏休みにファストフード・レストランで働いていた経験はあるが、ウエイターとして接客することは初めてで、不安を持っていた。
 「ジョージ、卒業したら多くは初めての町、初めての仕事を経験するんだよ。みんな同じことさ」
 「コーチはボクの仕事についてどう思いますか?」
 「うーん、私は製造業しか知らないからよく分からんが、アメリカ中のレストランに行った経験から言うと、良いウエイター、悪いウエイターが居てさまざまだな。接客が良いウエイターにはチップをはずむよ。この仕事もプロの世界だな」
 よく分からないという表情のジョージに対して駿河が続けた。
 「ほら、今年の卒業式で卒業生総代(valedictorian)が、『どんな仕事でもいい、ナンバーワンになろう』とスピーチで言っただろう?今はその店でナンバーワンのウエイターを目指すことだ」
 「どうやってやるのですか?」
 「そりゃ、いろいろあるさ。例えば、キミは体型が大柄でごついが、顔つきは優しい。客と軽い会話ができるように意識することだ。日常でも人と会話するように心がけるといい」
 ひと呼吸置いて、駿河が付け足した。
 「客との会話にうまくなれば、ガールフレンドとの会話に役立つよ」
 ジョークと受け止めたジョージが笑った。駿河は半分は真面目なことを言ったつもりだった。実際、彼のように口数が少なく、ジョークも言えない男は女にもてにくい。面白くない(N0 Fun)と言われる。
 「ウエイターの仕事に将来はあるのですか?」
 駿河はなんとも答えようがない。そこでキャリアパスの話をすることにした。
 「キャリアパスという言葉を聞いたことがあるか?これはね、自分が将来なりたいと目標にする職業のために、一段ずつ仕事の経験を積み重ねていくことだ。キミの場合、ウエイターをしながらチーフ・ウエイター、さらにマネジャーを目指すということになるだろう。もっと大きなレストランに転職してゆくこともできる。そのために、フランス料理かイタリア料理の知識を勉強しなければならないだろうな」
 「シェフはどうですか?」
 「私の話をあまり信用するなよ」
と言うとジョージが笑った。駿河が続けた。
 「シェフには、野球選手と同じで、味に対するセンスとか手先の器用さとか素質が要るのではないか。どっちにしても、プロ野球で言うとマイナーリーグから上がっていかなければならない。これから働くレストランでよく観察してみるといい」
 こんな話をして別れた。

 《あれから20年か、あの時は危なかったな》と今思う。というのは、ジョージが、卒業前だったか、軍隊の話をした時だった。
 「職がなければ、軍隊に入ることを考えています。マットは陸軍に入ることを考えているそうです」
 マットは野球部で控えのキャッチャーをしていた。
 「待て待て。彼と話したことがあるが、彼は州ではレスリング選手として有名だから、推薦で大学に行き、レスリング部に入る。それから卒業後陸軍に行くそうだ。陸軍の幹部候補学校で教育を受けると少尉に任官される。つまり、彼は将校になれるということだ。ほら、彼はキャリアパスを考えているんだよ」
 「高卒では一兵士にしかなれず、戦死の可能性が高いということですか?」
 「確率から言うとそうかもしれないが、みんなが戦死するわけじゃない。将校だって戦死するよ」
 「軍隊ではコンピューターや通信技術の教育をしてくれると聞きましたが」
 もうとっくにハンバーガーを食べ終え、コーヒーがわずかに残っているだけだった。気が重い。駿河は迷いながら、答えた。
 「問題はキミの志望がかなうかどうかだ。国防として戦う兵士は誰かがやらなければならない。ベトナム戦争でも戦争が広がると若い兵士が戦場に行かされた。しかし、1983年のグレナダ侵攻のような小規模な戦争では新兵は派遣されないだろう。ジョージよ、大事なことは先生に相談すべきだ。空軍のリクルート責任者なら友達だから紹介するよ」

 結局、ジョージは友達の空軍退役少佐の紹介も求めてこなかったし、軍隊にも行かなかった。
 《危ないところだったな。不注意に軍隊に入ることに影響を与えなくてよかった。まさか湾岸戦争が起きるとは思わなかった》
 1991年、イラクがクエートに侵攻した時、アメリカ政府は他の連合国とともに大規模な軍隊を送り、参戦した。湾岸戦争と呼ばれた。
 町の鉄道線路を濃緑色から砂色に塗り替えられた戦車や兵員輸送車の何十両も連ねた貨物列車が通った。駿河の周囲の予備役が召集され、現役の大学生にも召集予告の通知が来た。駿河が初めて経験する戦時体制だった。
 アメリカはさらに、2001年、タリバンとの戦いにアフガニスタンに軍隊を送り、2003年には対イラク戦争に踏み切った。
                   
        19.日本へ行かないか

 ここで話がさかのぼる。ジョージがまだ町のハンバーガー・レストランで働いている時で、フロリダに行く前のことである。

 出張の帰路、駿河は飛行機の座席でうとうとしていた。
 シカゴからデトロイトまで飛び、ここでエリーまでは20人乗りの双発プロペラ機に乗り換えて50分の飛行。デトロイト国際空港は広大だ。滑走路が6本もある。
 エリー便のゲートは広いターミナルの端に位置するので、飛行機がゲートを離れてから、延々と陸上を滑走して滑走路まで移動するのに15分以上かかる。ある日、初めてこの地方便を利用する乗客がジョークを言った。
 「まさかこのまま陸上を滑走してエリーまで行くのではないだろうな」と。他の乗客が「そうだよ」と返した。みんな大笑いしたものだ。
 飛行機はエリー湖の上空を飛んでいた。島がいくつか浮かんでいる。どの島もおそろしく平坦で農地になっている。高波が来れば島全体に浸水してしまいそうだ。
 《日本の島が山になっているのとはえらい違いやな》と駿河が独り言をささやいていると、とんでもない発想が閃いた。
 《ジョージを日本の大学でプレーさせるか。プロ野球では日米間で選手の行き来があるのに、日本の大学でアメリカ人が野球部員になった話を聞いたことがない。うん、新鮮味があるな》

 秋、一時帰国した駿河は、仕事の合間に時間を見つけて京都の大学を訪ねた。その後、地下鉄で40分の新キャンパスにある野球部球場を訪ねる予定になっていた。この大学はジョージには敷居が高過ぎた。運動選手に対する推薦入学制を認めていない上に、外国人も日本語で入試を受けなければならない。交通の便利さでこの大学を選んだことは配慮不足だった。
 球場に入ると、予め用向きを話してあったので、監督に会うと選手たちを集めていただいた。いかにも大学生らしい選手たちからも歓迎された。アメリカ人が野球部に入るという新しい発想を喜んでいるようだった。キャプテンから隣接する合宿所を案内され、生活振りを知った。みんなでジョージの順応を支援するという。 《アメリカ人の入部に少しも抵抗を感じない世代に驚くな。時代が変わりつつあるのか》と思う。
 監督とキャプテンには入学の大きな壁について話し、ジョージの入学が難しいことを伝えた。
 もう少し時間があったので、急遽、松下電器に電話を入れて野球部を訪ねたいと伝えた。
 球場に出向くと、鍛冶舎監督が待っていた。挨拶で監督が名前を告げると、遠い日の記憶が甦った。《この人はあの鍛冶舎選手なのだ》
 鍛冶監督は早稲田大学の4番打者、卒業後プロ野球からの指名があつたにも関わらず、社会人野球の雄、松下電器に入って強打者として活躍した。オールジャパンのチームでも4番だった。
 監督にジョージを捕手として育ててもらえないかと打診してみた。いろいろ話し合った後で、彼は社員として入社させ、独身寮で生活すればよい。野球部では控えの捕手として練習させてみよう、と言った。将来、仕事を身につければ、アメリカの子会社に転籍することもできるかもしれない、と付け加えた。
 《監督にそんな権限があるのだろうか?》と駿河は思ったが、直感で信頼を置けそうだった。《この人は異色の感覚の持ち主だな》
 鍛冶舎監督は退任してから普通の社員に戻り、本社の役員にまで昇進した。
 
 駿河は帰宅すると町でジョージに会った。
 「先週日本から帰って来たが、仕事の合間に大学と会社を訪問してきた。なんのためだと思う?ジョージに野球を続けさせるためだよ。大学の方は入試を日本語で受けなくてはならないから無理。そこで、ほら、アメリカでも有名な松下電器の野球部監督に会ってきた。信じられないかもしれないが、キミを受け入れてもいいと言うんだな」
 ここで、一息ついて日本の社会人野球の古い歴史について駿河が話している間、ジョージは顔がひきつるというのは多少オーバーかもしれないが、緊張の表情が露わだった。言葉もなかった。
 「ジョージ、自分の生涯を拓くためには時にリスクを買わなければならない。せっかく持っている野球選手の素質を生かして、野球を利用して会社員になればいいのだ。松下電器のアメリカ子会社も大企業だから、将来キミをアメリカに戻してくれる可能性もある。要するに、チャンスを取るか取らないかの選択なんだよ」
 やっとジョージが口を開いた。
 「日本語を勉強しなければならないでしょう?ボクは外国語でスペイン語を選びましたが、苦手でした」
 「当面日本語より英語の勉強をすることが大切だ。読み、書き、話し方で正しい英語を磨くことだ。日本では多くのアメリカ人の中には正当な英語をしゃべれないのも居る。松下電器にも居るアメリカ人社員は正統な英語を話すクラスだから、キミの英語を評価するだろう。日本語は日本に行くことが決まってから集中勉強すればいい」
 「日本に行く金もありません」
 「それはアメリカと日本で後援会をつくって用意する」
 それから間もなく、ジョージと母親が駿河の自宅を訪ねてきた。母親はこの話に乗り気だった。
 高校でケンに会って経過を報告した。かれも大賛成してくれた。
 気が早い彼が、「うん、新聞社に話してみよう」と言ったので、駿河はあわてて「待て、待て、これから何が起きるか分からない。ジョージの出発が決まってからにしよう」と彼を制した。

       20.日本は遠かった
 
 駿河が離れの書斎で仕事をしていた。書斎と言っても実質事務所だった。ある日、アイデアが湧いて、2台の車が縦長に入るガレージの奥をつぶして、L字型になる事務所を建てることにした。日常家内の車はガレージに入れ、彼の車はほとんど私道に置いていたので、1台分をつぶしても不便はなかった。
 市役所に建築申請書を出して間もなく、親しくしていた助役から電話で呼び出しがあった。彼から使用目的を訊かれて話すると、「それなら書斎でよいのではないか。あそこは住宅指定地域だから事務所は建てられない」と言われた。そこで、書斎に書き換えて再申請した。さらに助役は完成図を持って近所回りをすることを勧めた。
 駿河の妻がデザインし、友達の大工が建てた書斎は周囲の森にマッチして隣人からも好評を得た。二方の窓から景色が見える約8畳の部屋に、大きなビジネスデスクと背もたれがある回転椅子を置き、来客用にソファを配置した。町にはまだ普及していない時に買っていたファックス機を本宅から移した。窓から見える木の枝に野鳥のために餌箱を付けて楽しんだ。小鳥音痴の駿河には数種以上来る小鳥の名前が分からなかったが、大柄なブルージェイが来ると餌があっという間になくなった。巧みに枝を伝うリスにも餌を食い荒らされた。
 駿河にとって仕事や執筆をしながらステレオから音楽を聴く時には幸福感にひたった。
 何事にも贅沢を戒める彼は、「これがオレの唯一の贅沢さ」と家族に言った。日本から入る深夜の電話やファクスに悩まされることがなくなった。
 クリスマスのイルミネーションが雪に覆われた町中に輝いていた。駿河の家も近所に合わせて、玄関のシャクナゲの小枝に豆電球を連ねて飾っていた。

 駿河はジョージ基金と名付けて、親交がある在米日本企業の知人に支援を要請していた。商社や新聞社の幹部も賛同して、基金に送金することを約束してくれた。日本側でも支援者を得られた。一口1万円の寄付でジョージが面接のために訪日し、滞在する経費は確保できそうだった。
 事がうまく運び過ぎることにどこか不安を感じていた。
 週末の午後にジョージと母親のケイが訪ねて来た。離れの書斎に通して、妻も加わった。しばし無言の後でケイが話し始めた。

 「ハンク、申し訳ありません。実は、ジョージが日本には行けないと言うのです。いくら説得しても自信がないと言って」
 事の成り行きに駿河は意外なほど動じなかった。
 「ジョージ、やはりチャレンジが大き過ぎたか」
 「怖くなったのです」
 ジョージは目に涙を浮かべて、後は言葉を続けることができなかった。
 「オー、マイボーイ、ジョージ」と思わず声を出した駿河はその後絶句した。
 《これで計画は消えたか。無理押ししてもどうにもならんな》と駿河は思った。がらがらと計画が崩れ落ちた。考えてみれば、駿河がアメリカ企業から誘われて渡米を決心した時は38歳だった。身分が保障されていたとは言え、やはり怖かった。
 「それで、これからどうするんだ、ジョージ」
 ケイが代わって答えた。
 「前に断ったフロリダのレストランに就職することに決めました。今度は行く決心をしたのです」
 ≪そうか、フロリダに行くことにしたか。ジョージにはフロリダに行くことさえ怖れたに違いない。日本よりは近いと思えたのか。まあ仕方がない》
 この町の若者は少なからず州の外に出たことがない。出ても州境が近いオハイオ州かニューヨーク州くらいのものだ。飛行機にも乗ったことがない。まして町からフロリダまでは直線距離で1500キロもある。ジョージには遠かっただろう。しかも初めて親元を離れて。

         エピローグ

 《あれから25年が経つのか。オレも今は70歳になった》
 小春日和の日、駿河は大阪の自宅でミッドビルの生活を思い出していた。5年前、最後の機会のつもりで家内を伴って訪問し、旧知の友達たちにできる限り会ってきた。勤めていたアメリカ企業の同僚夫婦8人と会食した時には、みんな歳を取っていた。知り合ってから30年以上になる、みんな自分の年齢前後だから引退していた。直接言葉で伝えることはしなかったが、彼らは会話の中で最後の晩餐だと感じていただろう。
 
 駿河は問題を抱えていた。
 執筆に根気がなくなり、集中力が長続きしないことに悩まされていた。書き手には好不調があり、執筆にブレーキがかかることはよくあることであるが、彼はもっと根本的な壁があると感じていた。それは、認めたくないが、歳を取ったことだ。70歳になったのだ。気力だけではなく、体力も衰えていることは隠せない。何十年も身についた5時頃の早起きもできない日が増えてきている。起きても全身がだるい。夜な夜な夢にうなされる。夢と言っても悪夢ばかり。生涯に踏んできたリスクが再現のように出てくる。
 しかし、《70歳で最初の作品を書く作家もいる、オレだって身体はまだ強健だ。一時的な不調だ》と言い聞かせていた。
 これまで時々気晴らしに国内や海外の旅に出かけた。友達に「ほら、昔ヨーロッパの作曲家が気分転換に旅に出かけたろう?オレもそうだよ」と言うと笑われた。
 《この一節は今日中に書き上げるぞ》と意気込んでも一日一日とずれていく。決意してもやり切れずに終わってしまう。
 《一日がただ流されていく。そうだ、これがジョージの苦しみだったのか》
 《オレがジョージにしたことは、健康人が病人に健康を説くようなものだったか》
 70歳にして我が身が少し見えてきた。
 ケンの話が救いだった。ジョージが人生の目標を立て、フロリダで自立していることに、駿河はいくらか貢献したのだと思うことにした。
 今、思う。ジョージは高校で勉強もできなかった。家庭環境も悪かった、ガールフレンドもいなかった。面白くなかっただろう。それでいてぐれることもなく、真面目そのものだった。高校が一時乱れて大麻の捜査で警察が入った時も、ジョージには無縁だった。捕まったのはほとんどが金持ちの子供だ。
 ジョージにとって野球が救いだった。駿河は今もそう思う。                  (完)

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2011年7月23日土曜日

#53 中国の最新電力事情ーー上海たより(その2)

 日本の電力供給が危機状態になっています。今月「言論大阪」#15では関西電力について書きました。
今回、時節にタイミング良く、上海のI氏から中国の電力事情について寄稿を届けます。この寄稿では日本のメディアが伝えない中国事情が詳しく書かれています。現地の日本企業は対応に苦しみながら、よく頑張っています。
若者諸君の時代には、日本に対して中国の圧力がもっと重くのしかかってきそうです。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――

 この一ヶ月、中国でも電力・エネルギー関連の報道がされない日が無いと言っても良いくらい、各紙各様に喧しい限りです。
 昨夏も電力不足の問題が急浮上して、江蘇省・浙江省などの我々の身近な関係先にも影響が及び、突然の停電による品質不良の発生や月間操業日数が20日を切るといった事態に至りました。その折に、全国の拠点に一斉調査をしたり、情報通に問い合わせたりしましたが、どうも状況がバラバラで腑に落ちない面がありました。東北地区や華南地区からは全く問題無しという、
即答があり、何を大袈裟に騒いでいるのか?と言った反応。青島事務所からは、山東省では特定地域に一時的に被害が発生したという報告でした。
その特定地域に顔の利く経営者や知人が日本から出張して、地元当局に捩じ込んだところ、電力供給が回復した、ということを異口同音に話してくれたことを思い出します。
 電力という高度に公的であるべきものが、それほど恣意的な動きをするだろうか?という日本的常識に囚われていましたので、得心がいかないまま、電力問題は秋が深まるとともに沈静化しました
 解せない問題意識が残ったまま、昨年末に参加したセミナーで質問したところ、講師は中国の電力は不足していない、問題発生は局部的な現象である、と明解に回答してくれました。

 年を越えた3月7日の時事通信が伝える各紙の記事によると、国家発展改革委員会の張平主任が記者会見で「国際的に明言した省エネ(単位GDP当りのCO2排出量削減)目標について、第11次五ヵ年計画の最終年度であった昨年末までの達成が危ういと見た一部の地域でのやり方に妥当性を欠いた」と発言しました。今頃になって、何だ?これは!と、感じて、昨夏に被害甚大であった日系の取引先に、その情報を伝えたところ、激怒するかと思いきや、「そんなことやったんか?そしたら今年は大丈夫ということやな!」ととても楽観的な反応だったので意外でした。
 そんな日本的常識が揺らぐのに、余り時間は要りませんでした。
 5月に入って湖南省で計画停電が始まったという報道や、寧波事務所からの1週間の供給停止が各工場で順番に実施されたという報告が嚆矢となり、次々と届く情報やスクラップのファイルが分厚くなっていきました。
そしてついには4000万キロワットという、過去最大の電力不足が発生する惧れもある、という送電大手からのコメントまで飛び出しました。その情報の渦に乗って語るには確信が持てず、自らが喧しい輩の一人になることは避けたいと思いました。
 
 電力専門家である国家電網エネルギー研究院の胡兆光副院長によると、全体の電力需給は基本的にバランスが取れて、少し余裕がある程度である(中略)中国電力設備容量は、09年末時点で8億7000万kWに達し、電力需給指数は均衡値の1を上回り、1.05に達している(中略)要するに、現在、中国全域で電力需給は基本的にバランスが取れているが、華東、華中などの地域では厳寒気象と石炭輸送逼迫といった影響を受け、電力供給がやや不足している。電力供給不足は局地的・一時的な現象に過ぎない。中国では根本的な電力供給不足は発生していないと言えそうだ・・
 『中国エネルギー事情』郭四志(岩波新書 2011年1月)の一節です。では何故、「電力不足」が現在このような大きな問題になってきているのか?
上述の一節のなかの、「基本的に」「局地的」にというキーワードに先ず注意することが必要だと思います。また、鳥瞰図だけでは把握しきれない中国の難しさがあるのではないかと思います。
 
 一般には電力制限問題が表面化していなかった4月末に届いた、上海日本商工クラブ会報の『Next Shanghai 上海明天』Vol.27に掲載されたジェトロ上海センターの川合 現さんによる『「電力制限暴風」の再来を防止するために』という文章に啓発されました。
同氏は、昨年の「電力制限」の際に各地の現場を回って得られた実態から、以下のように分析されています。

① 法的根拠なく個別企業の私権が制限された。
② エネルギー使用の「効率」に係わる目標が電力供給の「量」の目標に置き換えられたという手段の不適切  性。
③ 地域間における不公正性。
④ 措置の恣意性。某国有企業の工場は問題なく稼働しているようだと言う話は何件か耳にしたのみならず、  面会したある開発区の幹部は「電力制限は配分の問題である」と言い切っていた。

 同氏が5月に公表した中国各地でユニークな経営を成功させている日系企業に関する報告書も、まさに足と頭をフル稼働させたフィールドワークによるもので、虫瞰図的な行動と鳥瞰図的分析の成果だと思いました。
昨年の初夏に、日本製高級子供服店のテープカットを同氏と一緒にさせて
貰ったご縁で、それ以来お世話になっています。炒飯や小籠包を食べながら、論文や報告書の解説をしてもらえるのは、実にありがたいことです。
 
 電力制限の動向は予断を許しません。
 2002年12月に国家電力公司を発電5社(華能・大唐・華電・国電・電力投資集団)と送電2社(南方電網;華南・西南4省1自治区、国家電網;その他の地域)に分割して、当時新設された国家電力監督委員会が料金を含む規制・監督する体制が基本的にできています。
 ただ従来からの地域をカバーする民間の小型発電会社は約4000社もあるといわれ、政府の発電効率重視策や環境対策に基づくとされる淘汰政策で統合閉鎖されていく模様です。
 一方、火力;水力;風力;原子力=74.6%;22.5%;1.8%;1%という電源構成、しかも石炭発電が火力電源の90%を占める、(石炭発電が全体の7割近くを占める)事の弱点は石炭価格と輸送状態に大きく影響を受けることと、そして環境対策(とりわけSO2)の面でも内陸部の脱硫装置強化が急務となることでしょう。そして、その石炭産業も政府系大型鉱山と多くの民間中小鉱山のせめぎ合いの場でもあります。
 昨年末から表面化したインフレの加速(4月度は前年同月比5.3%上昇)に直面して、矢継ぎ早の金融引締めなど物価抑制策が採られるなか、産業用にせよ民生用にせよ電力料金の値上げは見送られてきました。
一方、資源価格の上昇に伴って石炭価格が10~20%も上昇したため、多くの電力会社は採算割れに陥り、発電量を落としたことが「電力不足」の直接的な要因となったようです。6月1日から上記5大発電会社の一つ華能が送電会社への料金を2~3%値上げしました。これで、採算が良化するとは思えず、市場の反応を見るアドバルーン或いはモニター的動きではないかと
訝っています。私見ながら、体力の無い民営発電を駆逐して、政府系大手の寡占化を進め、且つ「電力不足」を煽って料金の大幅値上げを正当化するキャンペーンが着々と進行中という予感があります。そしてその過程で電力業者と政府行政と政府系大型製造企業の連携が強化されていく構造が浮かび上がってくるようです。

 国民の声なき声が、IT普及により連帯化することへの対応を、政府が最重要視していることは、身近な市民生活や経済活動の端々に実感します。インフレは民にとって最大の関心事であり、様々なムーブメントを誘発しかねない問題であることは歴史に学ぶ政府は熟知しています。
 今回の「電力不足」や電気料金の据え置きから値上げへの動きは、闇雲なインフレ抑制策の破綻の兆しではありますが、その背後にある「国進民退」の進行と、根を張りつつある民の異議申し立てへの潜在的な動きという二つの大きな流れは、何処かで摩擦を生むのではないかと想像します。
 賢明な政府は、民間企業には圧力を加えられても、一人一人の民の思いを力づくだけで抑え込められるとは思っていないでしょう。そんな状況の中で、今後を左右するのは官の弱点である腐敗撲滅問題かも知れません。 (了)

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2011年7月11日月曜日

ネット月刊誌『言論大阪』#15, 7月,2011   関電、これでも民間会社かーー関西経済にダメジを与えた

 
 先日、関西電力が前触れもなく産業界に一律15%の節電を要請することを発表した時、産業界も市民も、そして橋下知事も反発した。私も「普通の民間会社ならこんなやり方はしない」、「何か抜けている」と唐突に感じた。
 関電はどこがおかしいのだろうか?

関電の経営体質に問題がある 
 電力事業は、少数の例外を除いて、全国で地域独占の電力会社によって行われている。つまり、競争がない。当然社内では競争意識が育まれない。これが長く続くと経営者にも幹部にも世間からずれた感覚が持たれる。
 他の民間会社と比較してみよう。値上げは一例であるが、顧客に犠牲を強いる時には、先ず有力顧客を回って打診と説得を試みるものだ。中でも代理店に対する説得から了解を得ることは欠かせないステップだ。ところが、関電には代理店がないし、通常の顧客意識も欠けているだろう。関電は社内の上意下達をそのまま外に持ちだしたも同然。
 発表前に行ったはずの意思決定の会議でこんな意見は出なかったのだろうか?

 「一体、正確にはどれだけの電力が不足するというデータの詳細を詰めたのか?」
 「火力を緊急で復旧したら要請なしで行けるのではないか」
 「東電による節電要請が出されて以来、産業と市民の間では、関西でも節電意識が高まっているから、大げ さに節電要請を出さなくてもよいのではないか。もっと穏やかな広報で行くべきだ」
 「LPGの火力発電を持っている大阪ガスや新日鉄の堺火力に容量拡大をお願いする手もある」(関電と大 阪ガスの仲の悪さはつとに知られていることで、関電が頭を下げるとは思えない)
 「全面発表より個別に大ユーザーにお願いしてみるべきだ」
 「震災対策として関東の大企業が本社補完組織や工場を西日本に移転することを考えている時に、こんな発 表をすれば水を差すことになる。これは関電の問題だけではなく、関西の経済に悪影響を及ぼすことになる ではないか」(こんな思慮もできないのなら、会長は財界トップを辞任すべきだろう)

◇ 停電した時の設備被害、復旧期間
 もし電力使用オーバーで突然の停電により関電の全設備がストップした場合、直接被害がいくらになるのか、また復旧にどれだけの期間がかかるのか?
 誰でも知りたいことであるはずなのに、新聞は伝えない。新聞の役目は、後追いで騒ぐテレビと違って、後追いだけではないだろう。

新たに関電の経営問題 
 節電はこれまでの消費生活を見直す上で時代の要請であり、避けて通れない。関電の節電要請は自社の売上減につながり、緊急時とは言え、自分の首を絞めている半面がある。これまで「ガスより電気がお得」と全電化ハウスを勧められて新居を買った消費者こそいい迷惑だ。
 短絡した節電要請の発表に対して経営者が責任を取るほかに、売上減に伴う社内コストを下げるためには、経営者と幹部の人事刷新を図り、気鋭の人材の登用が求められるだろう。
 これだけの大企業でありながら、今も本社と呼ばずに本店と称している。古い体質の表れかもしれない。
 かねて言われていた電力自由化や発電・売電の分離はまだ早い。先ず関電の自助努力に期待したい。

関電小史の一つ 
 関電の前身は1913年設立の宇治川電気である。関電は1951年のGHQ指令によって電力再編が行われた時にこれを引き継いだ。西天満にある宇治川電気ビルは当時の本社だった。
 ここから私事になるが、私の亡父は宇治川電気の本社から釧路郊外にあった子会社の庶路炭鉱に経理責任者として出向した。私はここで昭和15年に生まれた。謄本によると、出生地は北海道白糠郡白糠村大字庶路村字庶路原野番外地となっている。原野番外地とはすごい住所だといつも思うが、当時は炭鉱のそばに社宅の一群しかなかった。私が生まれる時、父は馬に乗り、半時間かけて産婆さんを呼びに行き、帰りは彼女が馬に乗り自分は手綱を引いて歩きで1時間以上かかったという。
 遠い昔、札幌で学生時代に寮の先輩に連れられてバーに行った時のこと、「オレは道産子だ」と言ったら、大阪弁訛りの北海道弁を話す私に対し、ホステスに「嘘ばっかり」と言われて信じてもらえなかった。
 2歳で西宮に帰ったから、当時のことは何も憶えていない。

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2011年7月2日土曜日

#52 「私の台湾関係史33年」--小説『人間機関車・呉昌征』から転載

 先日台湾の漁船が尖閣諸島魚釣島に近付こうとして、日本の巡視艇に阻止されました。乗っていた愛国活動 家たちに対し、同島の領有を主張する台湾政府も黙視しているようです。けしからん、と諸君は思いますか?
 私は日本にとって悪くないなと思います。なぜなら尖閣諸島問題が日中間の二国間紛争になればいずれ衝突を避けられないので、台湾を含む三国の紛争である方が中国政府の反日運動に利用されにくいからです。
 この三角関係が諸君たちの時代にはどうなっているか、日頃台湾に関する情報が少ない中、参考のために下記の一文を転載します。
 これは、私が台湾に滞在していた時、グループ会食や講話の席で話したものに加筆して、小説『人間機関車・呉昌征』に「附篇」として収録された日本語原文です。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
   「私の台湾関係史33年――台湾はアジアのオランダ――」                          
                      経営評論家・岡本 博志

 私が初めて台湾を訪れたのは、1975年、日本企業の技術者として機械設備のアジア輸出担当に任命された時でした。その後1978年にアメリカ企業に転職するため家族とともに渡米し、95年に帰国するまで17年余りアメリカの地方の町で生活しました。アメリカ生活中の一度を含め、これまで33年間に台湾訪問は20回に及びます。
 出会いとは不思議なものです。その極めつけは、最近の台湾出張でふとしたきっかけから、両国でほとんど忘れられていたプロ野球選手の呉昌征をモデルにし、小説を書いたことです。もともと日本の読者を意識し、私の小説を読むうちに、台湾について知ってもらうことを意図して書きましたが、出会いの因縁から台湾で先に刊行されることになりました。
 台湾での刊行が決まった時に、その附篇として私がどうしても台湾の読者、特に若い世代の皆さんに対して書きたいと思うようになり、そして、この稿として願いが実現しました。
 これは、私が台湾、アメリカ、日本の三国で会食や雑談の中で、問われるままに話してきたことをまとめたものです。他方、日本のメディアでは大陸中国については連日報道されますが、それに比べると台湾に関する報道ははるかに少ない。年々、両国の間で観光客が増えていても、その割には両国事情の相互理解は進んでいない一面があり、台湾について詳しく知る日本人は少ないのです。
 他方、私が知る範囲で台湾の若い人たちも自国の歴史や世界における地位について認識不足があると感じています。
 台湾の独立をめぐる中国との対立は、台湾の問題にとどまらず、台湾海峡の情勢は日本の安全保障にとって極めて重要でありますから、日本の若い人たちにも台湾のことをよく知ってもらうために、執筆を続けたいと思っています。
 今年の5月20日、台湾では国民党の馬英九総統が就任しました。台湾は民主主義が成熟した時代に入ったのです。

 台湾を見てきた33年 
 私が初めて台湾を訪れたのは1976年のことで、もう33年前になります。
 当時、日本のメーカーで技術者であった私は、貿易部に転勤になり、アジア地域での技術支援と設備の輸出を担当していました。アジアと言っても、台湾と韓国が中心であり、私はこの2国の市場開拓を積極的に取り組みすることにし、その他の諸国は引合いに対応するだけで待ちの方針にとどめていました。
 76年は蒋介石総統が亡くなった翌年で、蒋経国総統への政権移行が慎重に進められていた時代でした。台湾史の中でも緊張が高まった時代の一つであったでしょう。
 松山国際空港には薄茶色の背広を着た公安警察官が目につき、入国審査は今とは比べようがないほど厳しかったものです。通関の荷物を調べる女性検査官たちは、日本人の間で評判が悪く、私も初めての訪問でひどい目に遭ったことがあります。彼女は、スーツケースの中にある土産物の包装紙の上からいきなり棒を刺し、包装紙を破って中身を調べるのです。これにはびっくりして、「開け、と言ってくれれば自分で包装紙をていねいに開くではないか」と英語でやんわりと抗議しました。すると、厳しい目つきをし、薄茶色の制服を着た男女の公安警察官が近づいてきたので、私はさっとスーツケースに乱雑に荷物が積まれたままで立ち去りました。後で代理店の人に話すと、「引き際が良かった」と言われ、それ以上しつこくすると別室行きだったとのことです。
 最近、桃園国際空港では、通関は早く、快適に通してもらえるように様変わりしています。通関はどこかな、と思っているうちに、もう外に出てしまいます。オランダのアムステルダム空港と同じで、時代が大きく変わったことを実感します。
 また、かつて全国どこに行っても「大陸光復」という看板や垂れ幕が見られましたが、今やどこにも「大陸光復」は見られなくなりました。おそらく今の台湾では若い世代には理解できないような戒厳令の下での緊張感があったのです。
 70年代には台湾政府が日本からの輸入を規制しており、「アメリカ製品優先購買」政策(ヨーロッパからの輸入は規制なし)を取っていたので、軍工廠や官営大企業へ日本の設備を輸出することが閉ざされていました。そのため当時私が選択した方策は、高雄の軍工廠と大企業(トップは軍人や国民党幹部)には技術提携していたアメリカ企業の設備輸出を支援してコミッションを受け取り、民間企業には規制が緩かった台北地域の中小企業には日本メーカーの設備を輸出するというものでした。
 当時は、商談には高雄では英語、台北では日本語を使い、民間企業の経営者とは直接日本語で話できましたが、今では70歳以上の世代でないと日本語達者が少なくなりました。
 
 ここで一つ挿話を挙げますと、鉄道マニアの私は、台北から高雄に移動するのにいつも特急列車に乗ることにこだわっていました。当時は特急券が手に入りにくく、ダフ屋のおばさんから買っていました。わずかの釣銭は返してもらわなくてもよいのに、周囲の警察官の目を気にしながら、すれ違いざまに釣銭を私の手に渡してくれました。彼女たちはそれなりの仁義を持ちながら必死で生きていることに感心したものです。時代が大きく変わって、今では新幹線が走るようになりましたが、私は今でも当時と変わらない縦貫鉄路の特急を乗るようにしています。
 78年、日本メーカーと技術提携を交わしていたアメリカ企業から誘いがあり、この会社を円満退職して転職するために家族とともに渡米しました。86年にはアメリカ企業を退職して独立、日米両国の数社で取締役を務め、同時に経営評論家として執筆と講演を始めました。大学で日米経営や通商問題について講義し、また、政府機関や経営団体が主催するセミナーで講演もしました。こうして当初の予定より長く、95年に帰国するまで17年以上もアメリカの小さな町(ペンシルベニア州)で生活しました。
 この間には台湾で激変がありました。79年米国と断交、84年李登輝国民党副総統に就任、86年民進党結成、87年戒厳令解除、88年李登輝総統が就任、などがありました。
 87年に、私は、アメリカの国際経営学会が台湾政府の招きにより台北で開催された時、台湾を訪問したことがあります。この時、開会式で挨拶した李登輝副総統(当時)を初めて近くで見ました。大柄な身体の全身からオーラが漂う副総統の姿に強い印象を持ったものです。台湾は確実に変化していました。
 2006年6月、会社用件と日米通商問題に関連して執筆するために台湾に出張しました。台北で行政院と新聞社を訪問した後、友人のはからいで嘉義に足を延ばし、会社や大学を訪問する機会を得ました。台湾はさらに大きく変わっていました。
 ある日、台湾人の友達がぼやいたことがありました。
「最近の台湾では犯罪が目立ち、不法移民が急増して治安が乱れている」と。私がにやにやしていることを「何かおかしいか?」と咎めたので、「そりゃ、日本も同じだよ。犯罪が多い、不法移民が増えるというのは、言うなれば、先進国の証しみたいなもので、避けられないもんだ。台湾に限らず、独裁国家はどこでも治安が良い。昔の台湾も治安は良かったじゃないか」と説明しました。譬えれば、移民は、水が高きから低きに流れるのとは逆に、低い国から高いところに流れるものだ、ということを示唆したのです。
 実際、台湾は民度、経済力、民主社会のどこから見ても独立国で先進国に見えました。

 台湾はアジアのオランダ
 台湾は残念なことに独立国ではないが、それはあくまで「名」の上でのことです。
 他方、「実」の上では独立国であるどころか、世界標準に照らせば大国です。読者の皆さんは驚かれるかもしれないが、私が「オランダは小国ですか?」と問えば、いや、ヨーロッパの有力な国の一つだと答えられるでしょう。そこで、台湾とオランダの比較表を下記につくってみました。

       国土面積(㎢)  人口(万人)   GDP(億米ドル)

  台 湾   3 6 0 0 0   2 3 0 0     3 6 5 0

  オランダ  4 1 0 0 0   1 6 3 0     5 9 5 0

  (台湾政府統計2005年、オランダ2006年政府公式ホームページ)
 
 これを見ればわかるように、台湾は「アジアのオランダ」であると言えるのです。名目GDPでは両国の間に開きがあるように見えても、オランダの物価は台湾よりはるかに高いことを考慮に入れるなら実質ではそれほど開きがない。そして、台湾にはまだ成長余力があります。かつて台湾への最初の侵入者として南部を支配したオランダと肩を並べるようになったのです。
 同じ太平洋国家のニュージーランドは、国土では台湾の9倍もあり、GDPでは台湾の半分ですが、人口が台湾の1/5ですから一人当たりGDPでは台湾の2倍以上になる豊かな国であります。台湾の成長余力とはこの点にあり、いずれ一人当たりGDPでもニュージーランドの水準に近づいていくでしょう。
 私が思うに、日本では、おそらく台湾でも、長年島国のハンディが言われてきましたが、今は島国の利点について注目する時代になりました。日本人も台湾人も肌で感じることはできないかもしれませんが、中国と陸続きの半島国家が受ける圧迫は大変なものでしょう。航空機が発達した今日では、人や貨物が往来するのに時間距離の上では、島国のハンディは問題ではないのです。それどころか、島国の方が大陸国家より国際的な国になりつつあります。
 日本では何十年来、日本の国際化は遅れている、と自虐的に見えるほどの言論があふれています。国際化とは英語化のことではなく、人がどれだけ他国の事情を理解し、自分を主張すると同時に他国の尺度も考えてみることだ、と私は理解しています。今から20年前に書いた本の中で、「日本よりアメリカの方が国際化されていない」と書き、世論に一石を投げました。
 実際、大陸国家の人々は、自国の尺度でしか考えない傾向が強いのです。特に、アメリカのように世界で自国語が通用するがゆえに、相手国について大して学ぶ必要がないからです。これから北京語が世界に通用する時代になるかもしれませんが、歴史的に中華思想(中国が世界の中心)に縛られているとするなら、この大陸国家が相手国との価値観について学ぶ姿勢を望むことは難しいのです。
 そうです。世界の国に対し、自国の価値観を押し付けて自説を主張することでは、中国がアメリカを上回るでしょう。むしろ人の心を変えることでは、大陸国家における方が困難であり、これが世界の問題になるに違いありません。
 
 私はアメリカ生活中に、台湾からの留学生たちから、「台湾は小さい」、「台湾は小さな島」という言葉を何度も聞きました。誰もがアメリカに住めば自国が小さく見えるのは仕方がないことですが、台湾でも同じ言葉をどの世代からも聞いています。
 台湾やオランダが小さく見えるのは、どちらも海洋通商国家であることを見落としているからです。海洋通商国家というものは、国土に比べると実体が大きいのです。台湾の人たち、特に若い人たちも実体を認識して意識を変える必要があります。
 また、ある時アメリカの大学で日米通商問題や日本の経営に関して特別講義をした時、アメリカ人の教授から「日本人の留学生は日本に帰るのに対し、台湾人留学生はアメリカに残りたがるのはなぜなのですか?」と質問を受けたことがあります。私は「多分、台湾では政治の不安定要因もありますが、それよりも台湾ではまだ給料が安いからでしょう」と答えました。それから15年以上経った今では、多くの留学生が台湾に帰って職に就くと聞いています。ここにも台湾の変化があります。
 アメリカの話をもう一つしてみましょう。
 私がアメリカ企業のマネジャーとして働き始めてから間もない80年頃、週に2回夜に大学院に通っていました。15人くらいのクラスにアフリカのN国からの留学生が一人いました。彼は30代半ばの彼は自国政府からの官費留学生でした。親しくなっていたある時、私はジョーク半分で「なぜアメリカの大学に来たの?貴国の官僚として、何かアメリカから学べることがあると思いますか?」と尋ねました。そして、続けて「台湾とかニュージーランドの方がふさわしいのではないか。特に台湾はこれから政府主導で経済発展するし、民主化の過程に直面しているから」と言いました。
 彼はしばし考えてから、「そうかもしれない。しかし、政府が決めたことであり、個人的には外国語も習得しなければならない重荷があるよ」
 「いや、台湾ではね、北京語が標準語であるから、これから世界を展望すると北京語は価値が高まると思う」と私がやんわりと反論しました。私は建国を進める国情には英語一本で英米の価値観だけでは限界があることを感じていました。
 その後、台湾では民主化でも経済発展でも大きく進歩することになりました。私は今でも、いや当時以上に政治でも経済でも世界の発展途上国が台湾モデルをもっと注目すべきだと思います。
 
 次に、国交という「名」のことです。
 不幸にして世界政治の枠組みの中で、特に中国政府の政策によって台湾の独立が認められていません。国連への加入も認められず、台湾と正式の外交関係がある国は中南米、ポリネシア、アフリカの約20ヶ国に限られています。日本とは「名」の上では正式の国交がありません。
 しかし、東京には台北駐日経済文化代表處が置かれ、この「実」は駐日台湾大使館です。大阪には台北駐大阪経済文化辦事處が置かれ、これは総領事館と言えます。すでに台湾省が廃止された今、代表處の「実」を一歩進めて台北を台湾に変えてもよいと思います。代表處の代表(大使)に長年独立運動に関わってきた許世楷氏が任命された時にも、日中関係の大きな問題にならなかったので、今さら中国政府が目くじらを立てることはないでしょう。正式に台湾国でないとしても、地名の台湾は歴然として国際的に認知されているのですから、台北代表處というのは台湾代表處であるべきです。半官半民の機関である台湾貿易センターは台湾を名乗っています。大学も、國立台北大学、國立嘉義大学のように、現実に台湾國立です。
 私は台湾の外交官に、改名の記者会見も行わず、台北を台湾に看板を静かに書きかえることを勧めたことがあります。
 
 台湾が、例えば、オリンピックへの参加が認められたように、先ず「準加入国」として国連への加入が認められることになるはずです。同様に、WHO(世界保健機関)やWTO(世界貿易機関)にも加盟が認められるでしょう。いずれも世界の世論が決め手になります。言いかえれば、世界に貢献できる、そして世界が求めている「アジアのオランダ」を蚊帳の外に置く不合理がいずれ認識されることになります。
 ここでも一つ挿話を入れましょう。
 80年代に「ランボー」というハリウッド映画がありました。その中でベトナム戦争の特殊部隊の一員として鍛えられた主人公ランボーが険しい山に逃げ込んでいる時に、地元の警察部隊が包囲したところへかつての上官が現れます。上官はそこで警察部隊の指揮官にこう言います。
「私はランボーを助けるためにここに来たのではなく、あなた方部隊を彼から助けるために来たのだ」と。この上官の逆論理を借りるなら、「台湾が世界に助けを求めているのではなく、世界が台湾の助けを必要としているのだ」ということになります。独立国として自らは世界に敵を持たず、侵略する野心がない平和国家台湾が世界のために貢献できる分野が多いのです。「ランボー」のように世界が台湾を包囲して孤立させることは世界のためになりません。
 台湾は着々と「実」を積み重ねていくことで世界に貢献できます。

 「名」の独立は中国の安定待ち 
 台湾はどこから見ても「実」では独立国です。「名」の独立が実現しない障害は、台湾の努力が及ばない中国の国内統治事情にあります。
 日本ではあまりに台湾に関する報道が少ないせいか、台湾の実状も知らずに台湾と中国の関係が論じられています。その結果、台湾派と中国派にグループ分けされています。
 例えば、私は長年台湾独立を支持しているので、単純に台湾派、そして同時に反中国派と思われています。しかし、私は台湾派でありますが、反中国派ではありません。このことを理解してもらうことはなかなか難しいのです。
 このことを説明しましょう。

 今、中国に侵略しようとする国はありません。中国は第二次世界大戦後、局地的ではありますが、韓国・アメリカ(朝鮮戦争で)、旧ソ連、インド、台湾、チベット、ベトナムと戦争をしてきましたが、今ではこれらの国で中国と戦争(紛争)を意図する国はありません。台湾も中国と一見対立関係にあるように見えますが、「大陸光復」の目的を捨て、台湾省も全省代表議会も廃止した現在、台湾の側には中国と軍事対決を望むことは台湾政府もどの政党も政策に掲げていないのです。つまり、台湾は本来中国の敵国ではありません。
 それでいて、私が台湾の友人から聞いた話では、台湾の対岸に1000基以上のミサイルを配置しているそうです。これはアメリカに対する外交交渉力の維持と、台湾政府に対する脅し(牽制)だと言われています。私の友人の中には中国は脅し以上に本気だという意見もあります。
 しかし、もし中国が一方的に――台湾から攻撃する理由は何もない――台湾を攻撃すれば、アジアの周辺諸国が反中国になり、また世界の世論が許さないでしょう。では、なぜ中国政府は台湾の独立を許さないのでしょうか?
 それは、台湾の独立を許せば、その影響がたちまち新彊ウイグルなど、周辺イスラム圏と内モンゴールの独立に及ぶからです。チベット問題もあります。中国政府は沿岸部と内陸の所得格差、地方政府の長年の汚職腐敗、農村の荒廃、環境汚染、水不足、エネルギー不足、世界に比類なき230万人の人民解放軍の維持(アメリカでさえ120万人)と権力闘争、法律で抑制しても止まらない人口増加(10年で1億人増えた)、などとてつもなく困難な内政問題に取組んでいます。その上に台湾独立による内政の混乱が起きれば統治能力を超えてしまう恐れがあります。
 私は中国政府の今の政体を消極的ながら支持しています。彼らしか困難を克服し、13億人の国を統治できないという「実」を見ているからです。彼らの政体は民主主義の標準から見れば外れているかもしれません。しかし、共産党の中でもさらに限られた組織の中とは言え、合議の上で任期がある指導者が選ばれ、そこからまた選ばれた英才のグループによって統治されています。ですから、中国を単純に独裁国家と決めつけ、北朝鮮、シリア、キューバなど長期の独裁者国家と同列に扱うことは誤りです。私は中国の政体を「会社民主主義」と呼んでいます。なぜかと言うと、大会社では株主の意を反映しながら、取締役会が社長を選ぶからです。社員が投票で社長を選ぶことはないのです。
 
 1989年に天安門事件が起きた直後、私が住むアメリカの町で親しい友達数人と会食をしていた席で、彼らは厳しく中国政府の武力弾圧を批判していました。その中でただ一人、私は「やむを得ない現実的な対応だ」と発言したので、アメリカ人みんなから批判の声を浴びました。
 そこで、「社会基盤も民心も成熟していない今、民主化は早すぎる。民主化教育も抑制されている。こんな状況で一部の民意を不用意に受け入れれば国全体が混乱に陥り、国を統治できなくなる。早い話、犠牲者は300人の10倍をはるかに超えたと思うよ」と説明しました。今も私の考えには変わりがありません。
 後年、アメリカに亡命した当時の指導者たちは、あの時点での民主化運動は誤りであったことを認めています。
 いつかは中国でも、台湾が民主化にたどった道にならって民主主義体制が実現するかもしれませんが、それには中国全体で均衡ある経済が発展し、教育水準を上げて民度を高め、人民解放軍の圧力を抑止できるまでは長い道程が必要です。
 それでは、最近起きたチベット暴動に対してはどうでしょうか?
 これには私も天安門事件の時のように中国政府には同情的ではありますが、容易に考えをまとめることはできません。なぜならかつて武力占領したとは言え、今は、中国が主張するように内政の問題であるという現実があります。
 大国というものは、ロシアも中国も国境には小心なほどこだわりを持つように見えます。周辺地域に独立を認めると、新独立国が隣接する他の大国の進出を招く恐れがあるからでしょう。チベットの独立を認めると、国境を接するインドの影響を恐れているかもしれません。現にインドの影響が強いネパールとチベットが並ぶと、中国の国境線は大きく後退してしまいます。
 数年前に完成した青海チベット鉄道は、日本でも観光コースとして人気が高まっています。しかし、中国政府は巨額の資本を投下して観光鉄道をつくったのではないでしょう。言われているように、目的はチベットの経済開発を名目にしてチベットを中国化することにあるとされますが、私はもう一つ、いざという時に兵隊と戦車を迅速に運べる軍用鉄道に使えると見ています。

それでは、「ソ連が解体した時に、周辺国の独立を許したではないか」という反論が出るかもしれません。しかし、ソ連というのは、言わば、親会社みたいなもので、ロシアも周辺諸国も親会社の傘下で独立した子会社であったのです。実際、今のロシアは自国内で独立を求める運動に対しては厳しく弾圧しています。チェチェンがその一つです。このように、ロシアも中国も自国領内と見なす地域での独立運動に対しては厳しい政策を取る点では共通しています。

 中国人から台湾人への時代
 もう一つの例を挙げます。
 1997年にホンコンが英国から中国に返還される以前、アメリカで返還が話題になり始めた頃、ピッツバーグであった国際経営関係のセミナーで数人の講師の一人としてスピーチを行いました。この時、会食の講師テーブルでホンコン出身の女性大学教授と隣席になり、いろいろ世間話をしていると、話題がホンコン返還になったのです。その中で、私が「民意に関わりなく、返還が市民の雲の上で両国政府の間だけで行われていることに対し、市民がまったく表に出てこないことを不思議に思います」と発言しました。すると彼女は、「不思議はありません。ホンコンは市民が政治から遠ざけてこられた英国植民地支配の芸術品みたいなもので、平和な生活さえ保障されれば地主が誰であろうと気にしないのですよ」と、きついことを言いました。
 アメリカで生活する外国人が自国について辛口で言うことは珍しくないので、慣れている私でさえ彼女の発言には驚いたものです。それでも、中国から独立して住民自決を訴える声は聞いたことがありません。しかし、ホンコンと同じ「一国二制度」の地位が台湾に与えられて、それで台湾の中国との統合がうまく進むとは思いません。ホンコンと台湾では、歴史、人口、民度、経済力、社会構造から軍事力、政治成熟度まであらゆる点で違いが大き過ぎます。
 台湾の人々にとって、中央政府に国税を払う、教育を変えられる、人民解放軍が進駐して台湾軍がその指揮下に入る、ことなど誰一人として望まないでしょう。
 彼女との会話の終りに、私は「理想としては、台湾、ホンコン、シンガポールの中国人系国家が、中国共益連邦として緩やかな連帯で結ばれることでしょう」と言いました。これは、今日でもかつての宗主国イギリスと旧植民地諸国が、女王が出席して集まる大英国連邦British Commonwealthからヒントを得た発想です。

 台湾の人々は、ホンコンと中国周辺のイスラム圏と台湾の大きな違いを世界に明らかに、そして静かに知らしめていくことが大事だと思います。つまり、台湾は別格であることが理解されるように持っていくことです。これは日常努力の範囲です。
 世界の世論に加えて、日本人が持とうとしても持てない世界にわたる組織である華僑ネットワークは、中国系人の一大パワーであり、台湾が彼らの世論を味方につけることも日常的に努力を積み重ねる必要があります。
 最近、許世楷夫妻が書かれた著書『台湾は台湾人の国』(はまの出版、2005年)を読みました。
 在日台北経済文化處の許代表はこの本の中で、台湾人を四つのグループに分けています。ホーロー語系(9割を占める、いわゆる台湾人)、原住民系、客家系、北京語系(外省人)の四つで、この歴史的に違うグループの融合を説いておられます。これはまさに台湾内部の問題であり、台湾人が努力すべき問題です。
 国際関係では政府や政治家が過激に動くと災いの種になることがよくあります。ですから、私の考えではこの問題については民間人が自主的に努力することがより賢明だと言えましょう。これに中国政府や台湾政府が干渉することはできません。
 私は民族融和の問題は年月が解決すると思っていますが、また、一つの例を引いてみることにしましょう。
 世界で2位の大製鉄会社である新日本製鉄は、八幡製鉄と富士製鉄が1970年に合併した会社ですから、37年が経っています。当初は八幡族と富士族との社内融和が懸念され、社長も両社出身者が交互に選ばれました。当時、大学卒の新入社員は今では定年になり、社員のほとんどは合併前の両社の出身者ではありません。今年、新日鉄に入社した新世代から初めて社長が選ばれました。社内融合の問題は年月が解決してくれました。
 新日鉄の話を出したので、もう一つ紹介したい話があります。
 今や、新日鉄の売り上げを凌ぐ台湾の大企業があることです。この鴻海企業は半導体製造専門企業(EMSと総称される)の中で世界一になっています。また、長栄集団(エバーグリーン)も世界一の海運会社であり、最近では航空会社としても知られます。
 
 熟柿は必ず落ちる――結び
 台湾に国民党軍とそのグループ(外省人)が台湾に移住してきたのは、1947~9年のことですから、もう60年近くになります。今では第2世代、第3世代の時代に入り、おそらく9割以上が台湾生まれです。彼らは大陸を知らない台湾人なのです。年月がさらに経てば、すべて台湾人になってしまいます。
 私は独立急進派の支持者ではありませんが、陳水篇前総統の功績も評価しています。それは独立志向を強く訴える中で、台湾の世論を喚起して「台湾人の台湾」という意識を高めたことです。
聞くところによれば、「台湾人」より「中国人」でありたいと思う人たちがいるそうです。そのために中国との統合を求めます。私はこの考えには道理がおかしい点があると思います。
 私の理解では多数派の人たちはいつか独立して台湾人でありたいと願っているとすると、比喩的に言えば、少数派の人たちは台湾の島を中国に移動するようなものです。少数派の人たちが台湾人であるより中国人にこだわるなら、彼らには島を移動させるのではなく、彼ら自身が中国に移動する選択があります。これはあくまで道理の喩えであり、少数派の人たちに台湾から排斥することを意味していません。
 台湾はChineseというより、Taiwaneseと誇りを持って言える人たちが統治すべきことは自明の理です。
  
 最近、大阪の本屋で外国語学習の本が集められている棚を見ました。何十冊もある北京語学習の本の中に、一冊だけ「台湾の北京語」という本がありました。日本人にとっては、中国の簡略化漢字より台湾の正統漢字の方が分かりやすいのですが、そのためではなく、台湾理解を意識した北京語を学ぶ読者が存在するという証でしょう。日本でも台湾理解が広まり、世論に広がりが出てくることは望ましいことです。政治家や官僚には中国との関係で台湾については制約がありますが、民間人には制約がありません。台湾にとっては、日本の世論も重要なことです。
 顧みると、私が日本企業で海外ビジネスに関わり始めた33年前には、中国と国交が正常化されていなかったので、中国語学習の主流はビジネス用語としての広東語でありました。ここにも日本の中国語学習における大きな変化を見ることができます。
 
 今年の5月に国民党の馬英九総統が選ばれました。新総統は「独立しない、統一しない、武力を使わない」の「三つのない」を公約として掲げています。「この三つのない」は、裏返せば、中国も守らなければならないということです。つまり、両国には今直ぐの紛争を避けるという合意があり、柿が熟するまでの過渡期政策であると言えましょう。この政策は国際社会でも広く認知されています。
 日本のメディアには、台湾で社会の世論が真っ二つに分かれて国が分裂している印象を与える報道があり、現実とは違います。むしろ、政策と選挙による政争は民主主義の証と見るべきです。この種の報道が見落としているのは、どんなに意見が分かれても、台湾には反共という強固な共通の基盤があるということです。
 他方、日本にも近隣国と緊張関係があるにも関わらず、漫然と生活の安定と平和志向に浸り、どこか社会が緩んでいます。また、私が移住した70年代後半のアメリカでも社会の緩みがあまねく広がっていました。民主主義の避けられない落とし穴は、個人が個人本位に陥り、国を考えなくなることにあるようです。
私は、統一問題が台湾の社会に適度な緊張感をもたらしていると感じています。
終りに、台湾の独立は年月と世界の世論が決めるに違いない、そして「熟した柿は必ず木から落ちる」ということを述べて結びとします。そのために「名」より「実」をひたすら積み上げることによって柿を落としてほしいと思います。
                   (完)

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