2016年5月23日月曜日

#160 宗教とは何かーー心の中は分からない

 日本ではさまざまな宗教、宗派が布教活動をやっています。新興宗教も盛んであるのは人が求めているからでしょう。アメリカの事情も参考に書いてみます。
 諸君、新興宗教やオカルト集団に引っかからないためには、彼らに頼るより、自分の悩みを受け入れて持ち続けることです。

◇ 衝撃的なジム・ジョーンズ教団の破滅

 1978年11月、私がアメリカに移住して3ヶ月、People Temple人民寺院という教祖ジム・ジョーンズに率いられた900人以上の信者が集団自殺をしたことに大きな衝撃を受けた。 人民寺院は1955年に設立され、人種差別撤廃を掲げて信者を増やしていったが、途中からオカルト集団になっておかしくなった。当局の追及から行き詰まり拠点を南米ガイアナに移していた。調査に訪れたアメリカの下院議員を殺害したことから、マスコミが一気に取り立て、行き場を失ったあげく、教組が毒薬を配って全員を自殺に追い込んだ。
  私は、なぜ?と考える日々を送ったが、そのうち忘れた。今ではアメリカ人もマスコミ も忘れた。   
 日本のオウム真理教も同じだろうか。同じというのは、人はなぜ信じたのか?、人は何を求めて教祖に追随したのか?ということだ。わからない。
 専門家によれば、新興宗教が興る背景には現状への不満が身近な教祖への個人崇拝が信者をひきつけると言っていた。なるほど、仏陀もイエス・キリストも遠い存在だ。
 私は人は成員として所属感(ID)を満たしてくれる場所を求めているのだと思う。

  ◇ キリスト教系の新興宗派

 日本で不況活動を熱心にしているキリスト教系の主な新興宗派は、「モルモン教」と「ものみの塔(エホバ)」だろう。モルモン教の伝道者は髪を分け、白いシャツを着た身ぎれいなアメリカ人の青年二人が家庭訪問をしている。アメリカで知ったことであるが、彼らは修行として外国での布教を本部から課せられている。他方、ものみの塔は、日本人の女性が子供を連れてドアをノックしてくる。   
 また、日本の若者にキリスト教への憧れがあり、キリスト教会で結婚式を挙げることに人気がある。私が参列した時には、アメリカ人(または外国人)牧師のつたない日本語がかえって受けているのではないかと思った。
 つたない日本語と言えば、有楽町で用足ししていた時、つたない日本語を使って街宣車が回っていた。「日本の皆さん、あなた方は罪深いのです。キリストの教えによって悔い改めてください」と言っていた。私は「日本では放っておいてくれ」と内心思いました。
 こんな布教が世界で問題を起こしている。対して、仏教もイスラム教もこんな押しつけがましい布教活動はしていない。

◇ 宗教とは何か?

  かつてソ連時代には宗教を否定していた。フルシチョフ首相は「宗教は麻薬みたいなもの」と発言したことが伝えられている。ロシアになってからはギリシャ政教が認められた。
  中国では今も宗教は認められていない。ただ民間信仰である儒教は広く信じられている。 各地にどこでもある儒教の寺院は参拝者で賑わっており、文化財として維持されている。孔子の教えである儒教が宗教であるかどうかは意見が分かれる。
 台湾も儒教の国であるが、最近では仏教が興隆しているようだ。台湾のテレビは早くから100局もあるが、その中に仏教新宗派の専用局が三つもある。
 アメリカではなんと4割(世界で最も多い)もの保守派キリスト教信者が「天地創造」(地球も人も神がつくった)を信じており、「進化論」を拒否している。これは1929年まで州法によって学校で「進化論」を教えることを禁止していたからだ。
 アメリカの州は権限が強く、教育は各州単位で決められ、連邦政府に文部省がつくられたのはカーター政権の時だから、今も「進化論」を学校で教えることを禁止している州がある。
 日本でも公立学校では宗教は教育に含めていない。私も学校で習ったことがない。

◇ 仏教を改革すれば人は変わる

 偶々、インターネットのブログに改革に熱心な僧侶が日本の仏教について書いていた。

 
     1. 書店の仏教書は難解で分からない
    2. 住職さんに聞いてもちゃんと答えてくれない
    3. 寺でたまに集会があるが世間話ばかりで教えが分からない
         4. 仏教の教えを生きていく上でどう活かしていいのか分からない
         5. 専門用語が多すぎてわからない
 
 ここに僧侶が若者世代に対応していく問題が集約されている。寺は次世代の若者を引きつけられるか?  
 私の友たちは、多くの一般の人や若者が寺詣でしている様を見て、「観賞(仏像の)、観光、信仰」と言っている。アメリカでもヨーロッパでも有名な大教会を訪ねる観光客は多いが、信仰とどれだけ関わりがあるか分からない。私もいくつか訪ねたことがある。観光目的だった。そして今より王族が豊かな時代の産物だと思った。  
 それにしても、仏教の偶像崇拝はすごい。タリバンによって破壊されたバーミャンの巨大な岩窟仏像はその極みだろう。当時の人々は何を求めたのだろうか?
 他方、キリスト教にはマリア像やイエス・キリストが十字架に張り付けされた像や絵画を見るくらい。唯一私が知る偶像は、ブラジルのリオの山上にある巨大なキリスト像だ。 
  イスラム教では偶像崇拝を禁止しているから、私たちは教祖ムハメッドの顔も知らない。                                                          (完)   

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2016年5月7日土曜日

#159 日本の宗教界――ものは見方で違う

 明治以前には京都にある神社の宮司を務め、地主であった家系の末裔です。と言っても、父は三男坊で早くに家を出て大阪で会社員をしていました。また、一族は代々天台宗の信徒であったから、日本では多くがそうであるように、神仏習合だったのです。私もこのような環境で育ちました。     高校生の時、一級上の先輩二人とともに町にある小さなキリスト教会の聖書会に週一度通っていました。イギリス出身で年配の女性宣教師から英語に日本語を交えて話す聖書を学びました。  神道からも仏教からも教典から学ぶ機会はないので、結果としてキリスト教の影響を受けました。  
 しかし、遠方の大学に入ると、宗教について考えることはなく、教養課程の哲学に熱中しました。その後37歳の時アメリカ企業に転職してアメリカの町でキリスト教社会に住むことになりました。  この間、ずっと宗教について迷っていました。友達の「信仰は揺れ動く波頭の上の安定」と言われて、迷うことが当たり前と思うようになり、今日に至っています。  
 若者諸君、宗教や信仰について悩むことこそ当たり前なのです。

◇ 家族の墓をどうするか?

 ある日、札幌で記念行事に出席した後で級友二人SとKに会った時、車で空港に送ってもらう途中、東京に住むKの家族の墓にお参りした。そこは広大な公園のような無宗派の霊園だった。 Kがお盆の墓参に来た時、せめてお盆だけには坊さんにお経をあげてもらおうと思い、近隣の寺に電話で以来すると、檀家ではないからと断られたという。彼の子供さんは3人とも東京住まいだからなかなかお参りになかなか来られない。墓をどうするか?、思案していた。
  私も問題を抱えている。子供二人はアメリカに住み、息子はシアトルでアメリカ企業に勤め、娘はニューヨークで弁護士をして二人ともそれなりに成功しているから、日本に帰ることはなさそうだ。今は年間会費を寺と墓守さんに払っているが、当然、私も妻も死ねば家族の墓を守ってもらえない。私のように墓はあってもめったにお参りしない会員を「墓檀」と言うそうだ。
  関西の友達は大阪に墓があり、奥さんの家族の墓は東京にある。娘さんは東京住まいだ。 二人は各々の家族の墓に別々に埋葬すると言っている。  
 また大阪の友達は次男で子供がなく、死んだら骨は海にまいてもらい、墓もつくらないという。最近、こういう話をよく聞く。
 私の埋葬についてはまだ決めていない。

◇ 仏教ではなく、寺が問題  

 八百万(やおろず)の神々がおわす神道、多くの伝統仏教、キリスト教、神道系と仏教系の新興宗教が共存する日本。混沌としているように見えるが、ものの見方を変えれば、世界の宗教対立とはひと味違って良い面がある。
 日本で主な宗教である仏教の寺は、今、大きな問題に直面している。
 全国に8万以上あると言われる寺はこれから減っていくだろう。人口減少のせいもあるが、それより人々の信仰が変わってきていることで支えきれなくなることだ。実際、考えてみればこれまで政府の助成金なしによく人々が支えてきたものだと思う。  仏教のどの宗派も世襲、墓、家族に頼る現実が変わることはないだろう。  

 先ず、住職の世襲制が寺の存続を危うくしていると言われる。しかし、跡取りがいない、養子を取ることが難しいという住職の家族の問題以上に住職の在り方だ。
 世襲制がすべて悪いということはない。これが直接信者の寺離れになる、あるいは若者が寄り付かないことにつながることは認識違いだ。ある宗派の本山を訪れた時、若い修行僧の群れが庭の掃除をしていた。発想が閃いて、彼らが身分を伏せて3年くらい労働者として社会修業をしてはどうかと思った。
 住職は、アメリカの牧師のように法話が核心と考えて、信者が易しく仏法に触れられる ように入念に原稿を用意すべきだ。簡単なメモで社会問題などを話すのでは信者の心をつかめない。

  二つ目は、墓の問題。今、諸君が長男でなければ、墓を買おうとすると、寺から永代借地する費用のほかに、墓石代に300万円以上もかかるそうだ。これでは簡単に墓をつくれない。 このために遺骨を納めるロッカー式の集合墓や無宗派の霊園が増えている。大阪にある無宗派の一心寺は遺骨を集めて10年毎に溶かして大仏をつくる方式をとっている。個々に墓を持てないが、お参りはできる。ここは参拝者でよく賑わっている。

 三つ目は、家族の細分化と地域住民。昔、寺は地域の中心だった。今は家族の構成員が遠くに住む時代で、一族が寺の地域に住めるのは、農業、漁業、個人商店などの職に限られる。他方、地域には新参者が入ってくる。
 私も地域に新参者で、必ずしも地域の寺に属していない例だ。大阪郊外の町では、都市圏が広がり、昔の村落と接しているマンションに住んでいた。京都の寺までは法事以外になかなか行けない。その代わり至近距離にある真宗東本願寺派の住職と親交があった。周囲はすべて真宗の檀家だった。
  富山に住んでからは真宗西本願寺の地域で。家内の親戚や友達の葬儀はすべて真宗だ。 何人かの住職と親しくなり、法話を聴きに行く。他方、家族の天台宗の寺はない。
 ある時、天台宗の住職に「もう少し他宗派との相互交流を柔軟にしたらどうか」と問いかけたことがある。あっさり「宗派はなくならない」と言われた。私は宗派をなくすとは 言っていないのに、話がかみ合わない。

◇ 葬式仏教の批判は当たらない 

  若者諸君が「日本の仏教は葬式仏教だ」と言う。年寄り世代も言っている。この批判は必ずしも当たらない。なぜかと言うと、古今東西世界のどの宗教においては、また人々にとって葬儀は神聖な儀式であるからだ。第一、儀式の形がなければ人々が困る。
  日本の社会に深く根をおろしている仏教がすたることはないだろう。私が心配しているのは、仏教ではなく寺のあり方だ。 諸君の中には無宗教、無信仰の人たちがいるだろう。いつか変わるかもしれない。神は何か畏敬するもの、宗教は生活の規範と考えてはどうだろうか。                                               (完)

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2016年5月6日金曜日

#159 日本の宗教界――ものは見方で違う

 明治以前には京都にある神社の宮司を務め、地主であった家系の末裔です。と言っても、父は三男坊で早くに家を出て大阪で会社員をしていました。また、一族は代々天台宗の信徒であったから、日本では多くがそうであるように、神仏習合だったのです。私もこのような環境で育ちました。   
 高校生の時、一級上の先輩二人とともに町にある小さなキリスト教会の聖書会に週一度通っていました。イギリス出身で年配の女性宣教師から英語に日本語を交えて話す聖書を学びました。  神道からも仏教からも教典から学ぶ機会はないので、結果としてキリスト教の影響を受けました。しかし、遠方の大学に入ると、宗教について考えることはなく、教養課程の哲学に熱中しました。
 その後37歳の時アメリカ企業に転職してアメリカの町でキリスト教社会に住むことになりました。  この間、ずっと宗教について迷っていました。友達の「信仰は揺れ動く波頭の上の安定」と言われて、迷うことが当たり前と思うようになり、今日に至っています。
 若者諸君、宗教や信仰について悩むことこそ当たり前なのです。

◇ 家族の墓をどうするか?

 ある日、札幌で記念行事に出席した後で級友二人SとKに会った時、車で空港に送ってもらう途中、東京に住むKの家族の墓にお参りした。そこは広大な公園のような無宗派の霊園だった。 Kがお盆の墓参に来た時、せめてお盆だけには坊さんにお経をあげてもらおうと思い、近隣の寺に電話で以来すると、檀家ではないからと断られたという。彼の子供さんは3人とも東京住まいだからなかなかお参りになかなか来られない。墓をどうするか?、思案していた。
  私も問題を抱えている。子供二人はアメリカに住み、息子はシアトルでアメリカ企業に勤め、娘はニューヨークで弁護士をして二人ともそれなりに成功しているから、日本に帰ることはなさそうだ。今は年間会費を寺と墓守さんに払っているが、当然、私も妻も死ねば家族の墓を守ってもらえない。私のように墓はあってもめったにお参りしない会員を「墓檀」と言うそうだ。
  関西の友達は大阪に墓があり、奥さんの家族の墓は東京にある。娘さんは東京住まいだ。 二人は各々の家族の墓に別々に埋葬すると言っている。  
 また大阪の友達は次男で子供がなく、死んだら骨は海にまいてもらい、墓もつくらないという。最近、こういう話をよく聞く。
 私の埋葬についてはまだ決めていない。

◇ 仏教ではなく、寺が問題

 八百万(やおろず)の神々がおわす神道、多くの伝統仏教、キリスト教、神道系と仏教系の新興宗教が共存する日本。混沌としているように見えるが、ものの見方を変えれば、世界の宗教対立とはひと味違って良い面がある。
 日本で主な宗教である仏教の寺は、今、大きな問題に直面している。
 全国に8万以上あると言われる寺はこれから減っていくだろう。人口減少のせいもあるが、それより人々の信仰が変わってきていることで支えきれなくなることだ。実際、考えてみればこれまで政府の助成金なしによく人々が支えてきたものだと思う。
 仏教のどの宗派も世襲、墓、家族に頼る現実が変わることはないだろう。

 先ず、住職の世襲制が寺の存続を危うくしていると言われる。しかし、跡取りがいない、養子を取ることが難しいという住職の家族の問題以上に住職の在り方だ。  世襲制がすべて悪いということはない。これが直接信者の寺離れになる、あるいは若者が寄り付かないことにつながることは認識違いだ。
 住職は、アメリカの牧師のように法話が核心と考えて、信者が易しく仏法に触れられる ように入念に原稿を用意すべきだ。簡単なメモで社会問題などを話すのでは信者の心をつかめない。

 二つ目は、墓の問題。今、諸君が長男でなければ、墓を買おうとすると、寺から永代借地する費用のほかに、墓石代に300万円以上もかかるそうだ。これでは簡単に墓をつくれない。 このために遺骨を納めるロッカー式の集合墓や無宗派の霊園が増えている。大阪にある無宗派の一心寺は遺骨を集めて10年毎に溶かして大仏をつくる方式をとっている。個々に墓を持てないが、お参りはできる。ここは参拝者でよく賑わっている。

 三つ目は、家族の細分化と地域住民
 昔、寺は地域の中心だった。今は家族の構成員が遠くに住む時代で、一族が寺の地域に住めるのは、農業、漁業、個人商店などの職に限られる。他方、地域には新参者が入ってくる。
 私も地域に新参者で、必ずしも地域の寺に属していない例だ。大阪郊外の町では、都市圏が広がり、昔の村落と接している。京都の寺までは法事以外になかなか行けない。その代わり至近距離にある真宗東本願寺派の住職と親交があった。周囲はすべて真宗の檀家だった。
  富山に住んでからは真宗西本願寺の地域で。家内の親戚や友達の葬儀はすべて真宗だ。 何人かの住職と親しくなり、法話を聴きに行く。他方、家族の天台宗の寺はない。
 ある時、天台宗の住職に「もう少し他宗派との相互交流を柔軟にしたらどうか」と問いかけたことがある。あっさり「宗派はなくならない」と言われた。私は宗派をなくすとは 言っていないのに、話がかみ合わない。

◇ 葬式仏教の批判は当たらない 

  若者諸君が「日本の仏教は葬式仏教だ」と言う。年寄り世代も言っている。この批判は必ずしも当たらない。なぜかと言うと、古今東西世界のどの宗教においては、また人々にとって葬儀は神聖な儀式であるからだ。第一、儀式の形がなければ人々が困る。
  日本の社会に深く根をおろしている仏教がすたることはないだろう。私が心配しているのは、仏教ではなく寺のあり方だ。 諸君の中には無宗教、無信仰の人たちがいるだろう。いつか変わるかもしれない。神は何か畏敬するもの、宗教は生活の規範と考えてはどうだろうか。    (完)

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