2011年9月5日月曜日

#56 上海たより(3) 中朝国境の町

 日本のメディアが伝えない現地情報についてI氏からの寄稿です。今、国連決議によって世界は北朝鮮に対して経済封鎖をしていますが、中国の北朝鮮支援はざるに空いた大きな穴みたいなものです。私の見立てでは、いざ北朝鮮が破綻すれば大量の難民が中国に流れ込む、韓国との38度線国境が揺らぐなどを中国政府が恐れているのではないでしょうか。
 若者諸君、長文でありますが、貴重な情報を終わりまで読み切ってください。諸君の得意な台詞、「オレには関係ないよ」は危ない。

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 ベランダの朝顔の病葉を摘みながら、ふとこの夏を振り返ってみると、中国東北地方の遼寧省そしてコリアに関することに多く触れたことに思い至りました。

 きっかけは、古川薫の小説。それを渡してくれたのは、滋賀県野洲市の得意先社長でした。戦前の上海生まれの氏は、児玉源太郎の信奉者でして、児玉神社や生家跡を山口県周南市(元は徳山市)まで訪ねて行くくらい熱心な方です。徳山小学校を卒業した縁のあることから、児玉公園で同級生の吉田光雄君(リングネーム長州力で知られています。ミュンヘン五輪に韓国代表で出場)たちと草野球をして遊んでいたなどと話すと、とても喜んでくれました。
 その後、社長から児玉源太郎や乃木希典に関する本が届くようになりました。二年ぶりのお会いしたこの夏は、古川薫の『斜陽に立つ』を渡してくれました。司馬遼太郎が偏頗な思い込みや個人的な嗜好を、「歴史」のように仕上げている誤謬を正した書物という位置づけの本でした。主な舞台はやはり日露戦争、そして遼東
半島の旅順でした。
 それと前後して、東京の岩波ホールで羽田澄子監督の『はるかなる故郷~旅順・大連~』というドキュメンタリー映画、というか、戦前に監督自身が送った外地生活の跡を辿る記録映画を見ました。『人間の条件』や『風雪の門』とは違って坦々と旅順や大連を映像化され、声高な意見が聞こえてこない映画でした。

 以前から気になっていた遼寧省丹東市へ出張したのは7月11日でした。25年くらい前に、開発テーマを探そうと、東北三省をかなり奥地まで歩き回ったことがあります。コーリャンで合板を作れないか、良質の広葉樹を探して突板にする、野生黒スグリからエキスを抽出する、滑石(タルク)の第4の鉱区を見つけよう・・・ 黒龍江省のソ連国境近くや吉林省の長伯山系の山奥を巡りながら、地元の人から、一つ山越しゃ他国(朝鮮)の町だよと言われ、戦前にこんな所まで鉄道を敷いて、日本人が分け入っていたことに、改めて溜息をついたことを思い出します。
 そのような山間の鉄道を乗り継いで、延吉から通化そして丹東に辿りついたことがありました。それ以来の丹東訪問でした。

 この数年、丹東は注目され続けています。北朝鮮と鴨緑江を隔てただけの国境の町ということもあり、政治的にも経済的にも要地であります。5月に、鉄道好きの総書記が中国各地を訪問した直後に、中朝国境の黄金坪島に共同開発区を作る、という情報が流れ、気の早いマスコミは「いよいよ改革開放か」と騒ぎ立てました。安全保障貿易の観点からも、現地の実態を確認しなければならない、と大連から高速道路を3時間半ほど走り、丹東を訪れました。
 繊維縫製事業で提携しているボスの伝手の御陰で、丹東市政府の要路の方と面談ができました。「極めて微妙な事柄である」と前置きがあり、慎重な言葉の拾い方をした呟きを聴き取らせてもらいました。
 
 ・丹東市の開発は、旧区+新区+港湾の結合で着々と進んでいる
 ・国家事業として東北開発は至上命題であり、その鍵は大連郊外の長興島
  開発区(次期首相と目されている李克強副首相が遼寧省のトップの頃に、
  旧満鉄の開発資料を参考に指定された、と長興島開発誘致関係者の話)と
  丹東開発区である
 ・これらの開発は丹東独自のものであり、隣国とは全く関係ない
 ・中朝共同の黄金坪開発区のテープカットが6月に行われたのは事実だが、
  具体的な作業は、未だ緒にも就いていない
 ・相手方の立法も資金手当ても為されていない(ようだ)
 ・中国からの対朝貿易の約80%は丹東経由であるが、見返りに安価な労働
  者を連れてきて、活用しているなどというのはデマである。彼の国の出国
  規制の厳しさはご存知の通り・・・・・・

 面談後、ボスの案内で黄金坪島地区に連れて行ってもらいました。
 島と言っても、小川で隔てられている地域で一部は陸続きになっていました。鉄条網と高電圧線で二重に囲まれており、中国語と英語で三ヶ条のお達しの高札がありました。
 ①乗り越えてはならない ②物を投げ入れてはならない ③話したり、物々交換してはならない。
 撮影禁止とは書かれていないことを確認して看板を撮りました。
 境界の向こう側は、草茫々で彼方に小さな建物が見えるだけでした。
 とても開発の槌音が響く、といった光景ではありませんでした。丹東側の政府機関や体育館などの構造物と境界の向かいの草地の間に立ち、ボスは一言、「30年前に決心した国と未だに決心が付かない国の違い!」と語りました。柵の隙間から、片足だけ越境(CROSSING)して、役人との会食場へ移動しました。
 とても親密な内輪の人たちだけの会食だったせいか、かなり興味深い話も聴けました。食事途中のアトラクションで、久しぶりに民族楽器の長鼓の演奏などを楽しめましたが、こちらの意識過剰のせいか、007の世界を前にしているような気分もありました。

 早めに終わった会食のあと、ボスたちと離れて、タクシーで旧区探索に出掛けました。途中にライトアップされていたのは、鴨緑江を跨ぐ二代目の橋であり、列車が通らない時にはトラックが使う、との事。その少し上流に日本が架けたという初代の橋が、朝鮮戦争の際に米軍に空爆された残骸のままにあり、観光名所化している由。
 運転手や足裏マッサージの兄さんに聞いても、異口同音に答えるのは、隣国からの人は外観で直ぐに判る、勲章付きの軍服の団体か選ばれた高官子弟だけ。一般人が来れるはずがない、との言葉でした。またこの地域は元々満州族が中心であり、延辺地区のような朝鮮族が多数を占める土地柄でもないことを教えてもらいました。

 翌朝、朝霧の向こうに広がる緑の土地を眺めました。まさに指呼の間とはこの事と感じる実質的な距離と、政治が隔てる距離の違いの大きさに改めて不条理を感じました。1959年12月から始まった北朝鮮帰国事業で総計9万3340人の在日コリアンや日本人配偶者が「帰国」(菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業 「壮大な拉致」か「追放」か』中央公論新社より)。その中には『キューポラのある街』で吉永小百合・市川好郎が演じた姉弟の子分のサンちゃんのように新潟港向かった子供もいたでしょう。また、二十歳頃から交流のあった在日コリアン夫婦が突然音信不通となり、旦那が勤務していた北朝鮮系貿易会社に尋ねに行っても、そんな人が在職していた事は知らないといった鉄仮面の反応は今も鮮明です。

 直後の東京出張の際に、ソウルオフィスの責任者に決まったO氏と新宿で韓国映画を観てから、彼の案内で新大久保のコリアンタウンで会食しました。
 名作『鯨とり』が23年ぶりにリバイバルされるという週末でしたが、客は我々を含めて3人だけでした。『鯨取り』は大阪天六で、やはりO氏と二人で観て以来。主演のアン・ソンギはその後国民的俳優として信頼を集めており、『祝祭』『シルミド』そして小栗康平監督の『眠る男』にも出演(楽しみに観に行きましたが、ずっと眠るだけで台詞なしでした)。『鯨とり』で失語症の娼婦役を好演したイ・ミスクは、現在では「美人だけどイケズなオバサン役」に嵌まっているとは、O氏の受け売り。1988年のソウル五輪前の混乱期閉塞期の韓国の映画は骨太でした、とは現在の韓流映画についていけないイケズなオッサンの抵抗の弁です。
 そして、日本女性のグループがマッコリをぐいぐい呑んでいる、コリアとの接点の一つの新大久保へ。丹東の話をするには、雰囲気があまりにもアッケラカンとしすぎて、彼我の落差を感じるばかりでした。ましてや、コリア問題の源流の一つは日清・日露戦争に遡るのではないか?といったことを話題にしていたグループは居なかったでしょう。

 8月21日の日経新聞には、お召し列車でロシアに向かった総書記の動きとともに、「黄金坪は6月の着工後2ヶ月を過ぎても、造成などを進める動きはない(中国側丹東の経済関係者)」という記事が載っていました。
 ただ、鴨緑江に架かる現在の橋の下流には、大型の橋が建設中であり、丹東側は橋から、そのまま大きなスペースの土地に直行できる閉鎖型の道路が造成中でした。極めて微妙な問題なので軽率な分析は控えるべき
でしょうが、「保税区」に仕上がるのではないか?と推測しました。
 また国務院新聞弁公室編集の『中国的対外援助』(2011年4月人民出版社)には、2万3000文字のなかで、2ページ目の序言に「朝鮮」の2文字が記載されているのみで、統計や文章はアフリカ、南米、東南アジアに対する援助についてのみでした。ここにも極めて微妙な問題扱いの一端を観察するのは穿ちすぎでしょうか? 丹東の関係者に感謝するとともに、今後の動向は一筋縄では無く、定期的な注視が必要だと感じています。
              (了)




 




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