2014年7月25日金曜日

#120 国連を過信、現実を直視しない――マスコミの責任か

 この暑さで執筆の気力が減退。その上持病の腰痛がきつく、今月は私自身のブログ執筆は初めて。 I氏の癒しのエッセイから私の硬い話に戻ります。
 集団的自衛権など政治問題、社会の事件、世界の紛争を話題にして諸君たちの既存の考えに対して揺さぶりをかけます。揺さぶりと、逆に揺さぶられることも思考の源泉です。
 共感でも反感でも精いっぱい感じてください。また、私に誤りがあれば正してください。

憲法解釈の変更を問う  

 騒がれてきた憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使を認めることを政府が閣議決定した。  閣議決定というのは、法律の枠内でできることについて重要施策を実行することを決める政府の最高機関だ。会社で喩えれば、取締役会に当たるだろう。
 今回大きく騒がれたのは、政府が40年もの間、守ってきた「集団的自衛権は有するが行使できない」という解釈について、「行使できる」と変更したためだ。世間では、取締役会ではなく、株主総会で決めなければならない、つまり憲法改正を国会で決めなければならないという意見が見かけでは強い。
 40年前の東アジア情勢はどうだったか?
 中国政府が鄧小平によって改革開放政策を実行したのは1980年のことで、社会主義から社会主義市場経済に大きく体制を変えて35年、貧しかった中国を経済大国に押し上げた。彼は「黒い猫でも白い猫でもネズミを取るなら猫に変わりはない」という有名な言葉を残した。
 要するになんでも国の歳入が増えればよい、という強引な政策によって軍事費を増やせたことで、軍事大国になったのだ。これが東シナ海と南シナ海における脅威になった。さらに西太平洋にいたるまで支配地域を拡大することを公言している。
 中国にとっては尖閣島も沖縄群島も邪魔な存在なのだ。このことは地図を見ればよく分かる。  これでは日本国は座して対応をこまねいてはおられない。  どんな大企業でも40年前の経営にとどまっていては生き残れない。ライバルの経営改革に対応しなければならない。  

小沢一郎の「普通の国、普通の軍隊」  

 憲法全体を置き替え、自衛隊を軍隊にして国連決議に基づいて世界に派遣できるようにすることを、小沢一郎生活の党代表が提唱したのはもう20年も前のことだったか。日本国軍隊を国連の下に置くという国連中心主義を唱えた。集団的自衛権も当然含まれた、と思う。
 国連の実態を考えると、今に思えば絵に描いた餅だった。話題にはなったが、世間ではあまり反対がなかったように記憶している。
 岩手県選挙区の若者諸君よ、政党遍歴王、政策変節王の小沢一郎に代えて新しい候補を育てるべし。
 小沢一郎も日本人の多くも国連は善であると過信している。

国連は機能していない  

 イスラエル・パレスチナ紛争、イラク内戦、アフガン紛争、シリア内戦、ごく最近ではウクライナ紛争に対して国連の働きは無力。国連がやっていることと言えば、非難決議、和解勧告、総長声明くらいで、実効性に乏しい。長年言われている改革はできていない。これからも変わらないだろう。    
 日本は国連にアメリカに次ぐ巨額を拠出し、その他PKO支援と関係機関に1千億円を払っている。国連分担金で中国の6位はまだしもロシアは15位にとどまる。事務総長を出している韓国は11位であるが、毎年の支払いが遅れ、延滞率は80%だという。
 アメリカも10年以上延滞している。滞米生活中の80年代、アメリカでは国連改革の世論が盛り上がり、政府は元上院議員(その前はペンシルベニア州知事)を国連に送りこんで改革を試みたが、この伏魔殿をいかんともし難く、匙を投げた。
 どんなに貧しい国でもメンバーの資格を与えられ、特権外交官として本国では考えられないようなニューヨークの優雅な生活を送っている。数で決められる議決では改革案も通らない。

 私は、本部を解体して難民高等弁務官(なんたる訳語か)、WHO、ユネスコなど下部の実務機関のための管理本部に縮小すべきだ。日本は戦勝国体制の常任理事国になれないまま、国民の税金を浪費することは我慢ならない。

ウクライナ内戦にも国連は無力  

 今起きている内戦中に旅客機撃墜事件が起きた。墜落現場で親ロ武装グループが現場の調査を妨害していると伝えられる。この時こそ、ウクライナ政府は現場保存と国際調査団の保護を目的として戦車、歩兵部隊、空挺部隊を集中的に投入して武装グループを駆逐する好機だった。国際世論の支持も得られる。  やはり長くソ連傘下にあって安全保障と国防をソ連に委ねてきたため、国策の決断力が経験不足であるかもしれない。あるいは、素人の友達が言うように、ウクライナ軍の戦力が弱いのか。
 国連は何もできないだろう。             (完)  

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2014年7月1日火曜日

#119 上海たより――台湾紀行

 
  I氏が台湾を訪れました。台湾通の私も知らないことを書かれています。彼は日本で俳句の会に参加されているので、最後に一句で締めくくりです。

 
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 海上を飛ぶこと半時間余り、懐かしの台北陽明山が見えてきました。その中腹に所在する文化学院大学から交換教授制度で来日されていた江樹生教授から閩南語(閩は福建の古名。福建省東南部から広東省、台湾で使われる中国語の一方言。台湾語とも称される、と広辞苑には書いています)を2年間教わりました。華僑の友人と二人だけの不肖の受講生は、熱心な江教授を嘆かせ続けました。その後、江教授は、かつて台湾を占拠していたオランダに残る文献を追って、欧州へ留学されました。餞別代わりに学生にとっては、なけなしの金で買った大和赤膚焼の小皿をお届けしたのが唯一の慰めです。思えばそれが台湾との御縁の始まりでした。

 初日の台北では亜東関係協会(台湾側の対日本窓口)での外務官僚の勉強会に特別参加させて貰いました。当日の講師を務められた邦銀支店長の御好意によるものでした。その夜は、上海・香港以来の御縁が続いている学兄が亜東交流協会幹部として着任されたので、銀行支店長とともに囲み、台湾にちなむお話を聴かせて頂きました。
 その中には、1942年5月8日に没した八田與一の命日に、南嘉義の烏山頭ダムで営まれている追悼会に出席された支店長の興味深いお話もありました。
 翌日早朝の新幹線で嘉義に向かい、台北日本商会と台日産業技術合作協会の共同主催による活動に参加。耐須集団傘下の食品大手の愛健集団(特定保健食品14種類を開発)、合成樹脂とその収益の社会還元で有名な奇美集団や工業開発研究院などを訪問。夜には台南市長の頼清徳市長が参加された交流懇親会に加えて頂きました。
 頼市長は1959年生まれ。医学を専攻されたスマートな方。ごく一部の街の声(タクシーを運転してくれた人たち、水割りの酒を作ってくれた人たち)にも頗る評判が宜しいようでした。民進党の「次の次」を担う全国人気ナンバーワン市長とのことでした。 台北支店のスタッフ全員とのランチミーティングでも、「次」の総統候補とされる蔡女史が「お嬢さま育ち」であることが話題になりました。父親がフォルクスワーゲンの総代理商、大学に通うにも高級外車を運転していたという出自と対照的に、頼市長は2歳で父親を亡くし、台湾大学、成功大学の医学部を卒業した刻苦奮励の評判も聞きました。
 台北市長時代の高い評判が見る影もなく、今や支持率が20%を切ろうとしている国民党の馬英九総統の例もあります。頼氏には一寸先が闇の世界で自重自戒しながらも存在感を高めて貰いたいものだと、深夜の坦仔麺(50新台湾ドル)を高校の後輩でもある当社の支店長にご馳走しながら語り合いました。美味い坦仔麺を求め歩き、かなり遠くで見つけた半露半屋の店からホテルまでのタクシー代(110新台湾ドル)は支店長に払ってもらいました。
  亜熱帯の6月に鳳凰花の赤、阿勃勒の黄が咲き競う古都台南での土曜の朝。支店長とは別の自由行動をさせてもらい、往時に長崎平戸と結んだ貿易港安平古堡(1624年侵攻したオランダ人が建てた熱蘭遮城;Fort Zeelandia。鄭成功も拠点化。倭寇など日本関係資料も多く掲示。英国との戦争に備えた砲台跡やオランダ式漆喰やレンガ建築遺跡も)に行きました。NYのマンハッタン島に柵が設けられた頃に、オランダ東インド会社が安平砂洲に設けた貿易拠点。NYの柵はウォール街に進化しましたが、安平の城は古跡観光地に留まっています。
  その記念館の売店にオランダ人総督日誌の中国訳版が置いていました。大部4分冊、1分冊1,600台湾ドルの本。高い、重い、直ぐには読めないから、この本には出会わなかった事にしようと思い始めた刹那、ふと翻訳者名に眼が留まりました。訳者江樹生?が江樹生先生!に変わるのは直ぐでした。前の晩、支店長に話した閩南語の先生、その人の名前でした。すぐに訳者前言を読むと、1971年に文化学院から日本へ、阿呆な生徒に呆れてとは書いていなくて良かったですが、直ぐにオランダへ渡り交流史研究を深めたとありました。間違いなく江先生である御縁に驚きました。 
 入場門で事情を話し一度町に出て、現金を引出してから売店に舞い戻り、第1冊だけ分けて貰いました。限定300セットとあるので、分割販売は店としても困ったことでしょうが、個人的な熱心さと大陸富裕層とは違う財布の薄さを理解してくれたのでしょう。

  在来線の台南駅。成功大学キャンバスの見えるベンチで列車待ちをしている間、支店長にオランダ人総統日誌を見せて顛末を話していたら、彼は発行者として頼清徳と書かれているのに気付かせてくれました。それが前夜ご挨拶した台南市長であることを二人で確認しました。台南市の文化事業として支援した書籍発行であることを理解し、ますます市長への好感度が上がりました。 お二人の名前が並んでいるのを見て、まさに温故知新の御縁への感慨を深めました。
 台北に戻った夕方の会合。台湾での生活が長くなった友人(奥さんの実家は民進党支持)とお喋りをしながら台南での思い込みの検証をしました。 6月3日午後、深圳での主管者会議を終えて三々五々それぞれの拠点に戻る仲間(中には残った紅ワインを持った人も)と別れて、独り北京行きのフライトに乗りました。向かい風のせいか1時間遅れて4時間近くの機内で、ひたすら『嘉南大圳之父;八田與一伝』を読み続けました。
  嘉義から台南への移動途中、戦前に東洋一と謳われた烏山頭ダムの官舎跡そしてダム建設功労者として今も慕われている八田與一夫妻の墓と作業着姿での半跏思惟風の坐像を参観できました。主催者の参観と昼食を共存させる時間と場所への配慮と選定に感謝しました。駆け足参観だったので、売店で中身も見ずに伝記だけを買いました。巻頭に「八田與一が台湾に留めた恩徳と功績」と題する李登輝元総統によるいわくつきの文章が載せられていることも知らずにいました。(2002年、慶応大学「三田祭」での講演予定原稿。
 日本政府からのビザが発給されず、幻の原稿となった文章) 翌日の北京では、語学研修生とその友人のイタリア人留学生らとの会食場所として長安街に近い店を指定。食後、25年前に戦車が実働した長安街を歩きながら往時茫々を実感じました。  

  あの日から胸の振り子は朱夏を指し              (了)

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