2015年8月25日火曜日

#143 中国たより『暑瑕日記』――普通の中国人社会

 中国叩きの報道や雑誌評論があふれています。私も書いています。
 これに対し、普通の中国社会や中国人の情報が少ないので、I氏からの今回のたよりは日本人と中国人の交流を伝えてくれます。
 この中でI氏の友達が「台湾から大陸へ決死の脱出」と書かれていますが、これは国共内戦に敗れた蒋介石の国民党軍が台湾に侵攻した時のことです。台湾で何が起きるかわからなかったからでしょう。私の台湾人の知人(農学博士)もこの時大陸に北京に渡り、その後半世紀を経て台湾に戻りました。
 
諸君たちにも、私が言う「嫌中は政府が対象で、一般の中国人とは別」を思い起こしてください。

 
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   中国たより、『暑瑕日記』ーー普通の中国人社会

 
 猛烈に暑い日々、小難しい文章を読んで頂くのも、綴るのも回避したい本音を優先して、小学生のように何日分かの「夏休み日記」をお届けすることで楽をさせて頂きます。 中国語では、夏休みは「暑假」と表現すると随分以前に書きました。中国では「閑」という言葉は良く見かけますが(休閑=カジュアル。閑人免進=立入禁止)、「暇」は見かけません。
 この場合の「假」はJiaの4声で開放的に発音し、仮とか真実でないと言う場合の「假」は陰に篭った3声です(假幣=ニセ貨幣、假薬=ニセ薬、假的日本料理など色々あります。

  7月23日(雨);上海では驟雨が続いていました。花屋の譚さんから晩飯を一緒にしようよと誘われました。美味しい上海庶民料理の店かなと思いきや、讃岐うどんが評判の『田屋』を予約したとのこと、聞けば『田屋』のオーナーに長年可愛がられて、色々と助言を貰う関係。門松の初発注者もそのオーナーであり、こちらは二番手だったことを知りました。
 折り入っての話はいつもの長男の針路のこと。留学先はどうしても日本にしたいと息子が言う、花好きで勉強嫌いだった息子が家の近くの日本語学校に通い始めたとのこと。東京・大阪・福岡の何処が良いと思うか?と問われても、野球チームの好みで決めるような問題ではないので困りましたが、先ずは上海で日本語の基礎をしっかり作るようにと助言し、翌日には、大連理工大学の蔡教授編纂の日本語教科書を届けました。息子の針路話の次は、花屋経営の将来についての話でしたが、いつもとは趣が違いました。
  譚さんは、日本人酔客相手の夜の花束商売は終わったことも、倹約奨励・腐敗撲滅政策で大宴会場や開業式などの需要も当面戻らないことも承知していました。個人客を待つやり方(請進来)では、少々店をキレイにしても大きくは伸びないだろう、やはり自ら外に出て安定客を掴みにいくやり方(走出去)が大事ではないか、と常識的なコメントをしたところ、譚さんはニヤリと笑って携帯電話の写真集を見せてくれました。
 そこには若い女性に囲まれて、満面の笑みを浮かべている譚さんが写っていました。銀行や工場が福祉活動の一環として生け花(挿花)やフラワーアレンジメントの教室を開き、その講師として出向いているとのこと、もちろん助手や材料は店から帯同。皆が同じエプロン姿なのを発見し、問い詰めたところ、自らデザインした黒地に「小譚花店」の白抜き文字の洒落た品でした。
 理性消費時代に対応し、サービスと機能で顧客を開拓する姿勢に共感しました。翌日、息子への日本語教科書のお返しとして、エプロンを笑いながら手渡してくれました。

7月25日(曇りのち雷雨);瞿麦先生を紹介して欲しいとの邦字紙支局長からの要請を 実行すべく、ご自宅に同道。1949年に台湾から大陸へ決死の脱出をしてから、日中国交正常化前後の活躍までのことを中心にした話題からでした。
 今回は台湾駐在経験もある支局長が台湾語を交えて闊達な雰囲気を作ってくれたので、色々と新しい知見や深い解釈が増えました。近くの喫茶店に席を移しての茶のみ話も愉しく、ついには男三人ながら別れ辛くなって、晩御飯もご一緒しましょうと車に乗った直後に大雨が降り始め、フロントガラスのワイパーが能力超過となるくらいの豪雨でした。
 何とか(假的でなく真的)日本料理屋に入ったあとも屋根を打つ雨音と雷声が豪快でありました。会話も豪快で、90歳に近い先生の記憶力の素晴らしさと分析洞察力に若い(?)二人も押され気味の愉しい夜でした。                (完)

Read more...

Back to TOP  

編集

Back to TOP