2013年6月20日木曜日

#94 長寿と健康を自慢するなかれーーどちらも幸運の賜物

 今は遠い日のこと、滞米生活の初期にカブスカウト(ボーイスカウトの幼少組織)を引率して町の老人ホーム付属の病院を慰問したことがあります。
  病院の廊下を子供たちが大声でクリスマスソングを歌いながら歩きます。部屋のドアに出てくる人もいれば、病気のせいか出てこない人もいます。リーダーが転居していなくなったので、私が臨時リーダーとして後方から付いていました。  
 この時、ふと疑問が湧いたのです。「本当に喜ばれているのだろうか?元気をもらっているのだろうか?」と。  
 みんな高齢者で、病気の人もいる。そこへ元気いっぱいの子供たちが歌って行進する。ひょっとしたら元気だった時代を思い出して悲しくさせているかもしれない。  
 最近、この時からの疑問を感じることがありました。私はへそ曲がりなのでしょうか?

 この老人ホームは、広大な公園のような敷地に何棟もの個室棟と病院を併設している。  敷地の中に夫婦だけの一戸建ちの家を個人の金で建てることもできる。近隣の州にも知られる高級施設だ。入居するには高額の支払いをするか、資産を投げださなければならない。そのために相続遺産を当てにしている子供は入居に反対するという。  
 近郊にある州立の老人ホームで働く看護婦さんと知り合いだった。彼女の話によれば、「本人の意思に反して州立施設に入るお年寄りは長生きしない。他方、高級施設の人たちは長生きします。あそこでは80歳でも若い方で、80歳ならまだチクン(ひよこ)だと言われています」と。命も金次第とは悲しい話です。
 長寿と健康を自慢するなかれ、という3人の例を挙げます。(敬称を略す)

◇ 三浦雄一郎  
 
 三浦が80歳で3度目のエレベスト登頂を目指すことを知った時、私は「ええ加減にせい」という反応を持った。彼が初めて70歳で登頂に成功した時には「やった、グレート」と言った。75歳で2度目の挑戦が報じられた時は、「またか」と思った。  
 4月中旬にベースキャンプに到着してから1ヶ月後に登頂に成功した。日本からの登頂支援者たち、テレビの撮影隊、医師、シェルパの大部隊の総勢100人に支えられ、1億円以上の資金を使っての成果だった。  これが冒険なのか?壮大なショウだった。冒険がショウ化したのだ。
 帰国後、彼は記者会見で述べた。「70歳や80歳で自分をあきらめる人が多すぎる」と。  私はここに引っかかる。病気の人も多い。病気でなくても、冒険を試みることができない人が圧倒的に多い。いかに本人が努力したと言えど、彼は幸運な人であったので、長寿と健康を自慢すべきではないだろう。  
 メディアもはしゃぎ過ぎた。街頭でマイクを向けられた大衆市民も異口同音に彼の偉大さを讃えた。仮に私のように水を差すような意見を述べたとしても放映されなかっただろう。
 もっとはしゃいだのは政府だった。選挙対策と言うのはうがち過ぎかもしれないが、大衆迎合だろう。国民栄誉賞を考えたが、これには適格がないとして、その代わり、国民に夢と希望を与えた功績を讃えて「三浦雄一郎記念日本冒険家大賞」の創設を発表した。格下の賞にしたのだ。  
 同じ頃、女性登山家の河野千鶴子が、静かに日本を発ち、ダウラギリの登頂を目指した。  シェルパ2人を連れるだけの登山中、不運にも、亡くなった。ご冥福を祈る。

日野原重明  
 ドクター日野原は100歳を超えても聖路加記念病院の理事長で現役の医師。これまで医療に大きな貢献をして、功成り名を遂げた大人物だ。
 彼は要職のかたわら全国で講演し、小学生に命の大切さを説いている。その上、ミュージカルに出演した。高齢でありながら、やりたいことをやれる幸運の人だ。いかにも長寿と健康を誇っているようで、尊敬はされるだろうが、多くの健康に恵まれない人たちに勇気を与えているだろうか?
 私はへそ曲がりのようだから、「もうほどほどにしたらいい」と思う。

加山雄三  
 彼が出演するテレビのコマーシャルで、元気に運動する映像を見せた後でこんなことを話す。「皆さん、私のような元気な74歳がいるでしょうか」と。  インチキ臭いコマーシャルが多い中でもこれはひどい例だ。これで勇気づけられる視聴者がどれだけいるだろうか?  
 生計のためなのだから、俳優がコマーシャルに出ることは仕方がない。彼には「役者は与えられた台本を読むだけ」だという言い分はあるだろうが、願わくば、名声にふさわしい見識でコマーシャルを選別してほしい。

長寿と健康は賜り物
 私は70歳を超えて健康で体力もある。それでもいつ病魔に襲われるかもしれない。健康だったのに60歳代で亡くなった友達が二人もいる。たとえ長生きしても人に誇ることはしない。
 さて、若者諸君よ、この稿に対して私を非難するか?                 (完)

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2013年6月3日月曜日

Long and Winding Road to China Democracy

   #93 上海たより(2013年5月)――台湾出張から


 
 前回に書いた韓国のパク大統領に続いて、先月にはドイツでの首脳会談のため訪問中の中国李克強首相が演説した中で、「日本が(尖閣諸島などを)盗んだ」と対日非難を言った。はしたないヤツだ。彼の中華論理に基づけば、終戦直後のドサクサに北方4島を武力で占領したソ連を強盗と呼ばなければならない。海外の諸国の政府や国民はどう受け止めるだろうか? 日本政府の対中外交は、武士のたしなみも持たない相手では苦労が多いと察するが、相手がいかんであれ、武士の姿勢を貫いてほしいと思う。それが日本国の外交であり、そのうち海外から評価されるだろう。
 今回はI氏が中国と台湾について書いています。私はアメリカに次いで台湾を良く知っていますが、彼から違った視点を与えてもらえると思います。         
        ――――――――――――――――――――――――――

 「人混みには出たくない」、「SLEEP」、「家族と家で過ごします」・・・4月29日からの3連休を前にした上海の中國人職員たちの反応です。27,28日の土曜日曜に振替出社して、5月1日の労働節に繋いだ3連休ですが、今一つ盛り上がっていませんでした。それよりも7日連続で出勤する疲労感や、他国は休日なのでメールや電話が届かない、そんな変則的な出勤に身体も気分も乗り切れないようでした。個人的にも、その前の週末も台北支店長交代に立ち会う為の出張をした老骨にはシンドイ出勤でした。  
 変則連休前の当地新聞にも政府の決める休暇について異論異見記事が載っていました。革命後ながらく春節と国慶節だけが長期休暇でありました。そこへ清明節・端午節・中秋節という伝統的な節季を国家級の休暇としました。更に振替を駆使して連休を増やしたものの、今では経済効果も庶民の支持も今一つではないか、という分析でした。米国並みに休日を増しても、休日に何をするかの意識が追い付かず、何ができるかの社会の受け皿が未整備なのかも知れません。

 休日に積読の山を崩そうとしたら、司馬遼太郎の『街道を行く 第40巻 台湾紀行』(朝日新聞社)が出て来た、手にしたら面白くて一気に読んでしまった、とのメールが友人から届きました。日中友好ブームが未だ金属疲労を表面化していなかった当時、一種タブーであった台湾紀行が『週刊朝日』に連載され、単行本出版、朝日文庫出版と続きました。ちょうど台湾で40年余りに渡る戒厳令が解除され、蒋介石・蒋経国父子から次世代にバトンタッチされた時期でした。巻末の著者と李登輝総統との対談もかなり刺激的であったと記憶しています。  
 台北での取引銀行や関係会社への挨拶などの引継ぎ業務も一段落したあと、新旧支店長とH氏(台湾在住20年の知人)と4人で2.28平和公園へ行きました。かつて園内の2.28記念館を同窓の下村作次郎教授に案内してもらいました。次に3年前に再訪した際には国民党への政権交代後の改修中でした。新装された元台湾放送協会(THK)の記念館は視覚的に訴える展示が増えていました。ビデオルームから馬英九総統が挨拶する声が聞こえ、それが閩南語(台湾・福建の日常語)で語られているのが分かりました。
 台湾で結婚し、長く閩南語の世界で生活しているH氏によれば「馬総統は2.28事件関係の場では閩南語で挨拶をします。昔は拙かったけど、だいぶマシになりましたね」との由。

  1945年に犬が去り、大陸から豚が来た、と揶揄される国民党軍の腐敗・横暴への不満が限界に達した1947年2月。多くの無辜の民が犠牲となり、知識人や芸術家が圧迫を受けたことが、映画『非情城市』の国際映画祭授賞などで広く知られるようになったのは1990年代になってからのことでした。若き日の李登輝元総統も身を潜めたと言われています。
 邱永漢は香港へ脱出してから日本へ。その後、作家・金儲けの神様としての邱永漢が有名になりました。昨年逝去した後、著作を探したら若い頃読んだ佳作『呉濁渓』以外は料理とマネービルの関係しか見つかりませんでした。 邱氏に比べると地味な存在かもしれませんが、事件の犠牲者の一人に高一生がいます。台湾嘉義県阿里山郷の鄒族の人。Uyongu Yatauyunganaと発する本名以外に、矢多一夫という日本名で師範学校に学び、戦後は高一生という漢字名となりました。教師、作曲家であり、原住民自治を構想する活動にも従事していた頃に国民党の粛清の対象になりました。
 2008年、天理大学で催されたシンポジウムには高一生の遺族関係者や研究者が集り、末席で傍聴したあと質疑応答にも参加させてもらいました。台湾からの皆さんの熱心な発表には眼を開かされ、素晴らしい歌声は心に沁みました。この会を主宰した下村教授は、2012年台湾行政院「一等原住民族専門賞」を外国人として初めて受賞されました。長年の研鑽の一端を知る者としても、同級生の一人としても心より嬉しい報せでした。  
 2.28記念館のあとに向かった九汾は、映画『非情城市』の舞台にもなった断崖の町です。夕方の雨が続き、崖の洞穴の奥の茶館で阿里山茶を何杯も喫みながら、引継ぎ業務(外地業務ではその土地の風を知ることが肝要だと強弁します)のお喋りの続きをしました。ようやく雨もおとなしくなったので外に出ると、紅い提灯が幻想的でした。同行の男たちも詩心が増したのか、「うぶ毛雨ですね」と異口同音に語りかけてくれました。  

 嘉義という地名を聴くと、直ぐに「嘉義農林」という校名を思い浮かべ、戦前の中等野球大会時代の甲子園で「嘉義旋風」を巻き起こしたという伝説を連想するのは、野球小僧でも所謂オールドファンだけでしょうか? 手元の資料(と言っても毎年春夏の大会前に購入する高校野球雑誌ですが)によれば、夏の大会に台湾代表は1923年から毎年出場、センバツには1930年から3回だけ選ばれています。それに先んじて1921年から青島中学・天津商業などが大陸代表として、釜山商業・京城中学などが朝鮮代表として夏の甲子園に出ています(ともにセンバツには出場なし)。
 1926年夏には円城寺投手の大連商業が準優勝しています。夏の大会は1941年、センバツは1942年から戦争の為に中断します。夏は1946年、春は1947年から復活しますが、当然ながら台湾・大陸・朝鮮の欄には、「3大会消滅」と書かれています。   台湾代表の中で、目覚ましい成績を上げたのが嘉義農林専門学校(現在、国立嘉義大学)です。
 4月半ばに上海に遊びに来られた岡本博志氏の著書『人間機関車;呉征昌 台湾人初の日本プロ野球選手の奮闘生涯』(陳明言訳。台北南天書局出版、2009年)によれば、八田與一氏指導による烏山頭ダム建設や灌漑治水によりサトウキビ栽培が発展、阿里山鉄道建設により木材・樟脳産業が振興。嘉義農林学校は人材育成基地となった。
 松山商業出身の近藤兵太郎氏の指導により野球部も強化された。1931年夏、呉明捷投手を擁して準優勝。(呉明捷は早稲田大学でも活躍し、通算7本塁打は20年後に立教大学の長嶋茂雄に破られるまでの東京六大学野球記録であった。その後輩の呉征昌は快足強打、加えて左腕投手としても優れて、甲子園には春夏4回出場。読売(1937年~連続して首位打者、1943年MVP)阪神(1944年~盗塁王。1946年ノーヒットノーラン試合記録)毎日(1950年~)で活躍。球歴に比べて かなり遅いと思われる1995年に野球殿堂入りしています。
 その呉征昌が1947年の2.28事件の頃、日本に漏れて届く2.28事件の情報を知り、仲間内で「台湾語も日本語も通じない国民党の『国語』の世界になった」と将来の身の振り方を語り合うシーンも描かれています。

  隣人の張勇さん一家から上海郊外の農村・農家跡を整備した釣り堀やレストラン、一種の農業テーマパークの「農家楽」へ行こうと誘われていました。一方折から来訪した岡本氏は上海で農村を見たいという「無理難題」をご希望。そこで折衷案として張さんに二人での参加を要請して快諾を得ました。高級車でのドライブと食事と会話を愉ませて貰った御礼に、岡本氏は台湾で出版された上述の著書『人間機関車』にサインをしてプレゼントされました。
  キッシンジャーの近著『On China』(Henry Kissinger 2011) は、『論中国』(2012年 胡利平ほか訳 中信出版社 68元)として中国でも平積販売されています。出版の素早さと踏み込んだ部分(1989年の事件など)までの訳出が注目されています。中でも1972年2月21日からの北京、ニクソン大統領・キッシンジャー国務長官と毛沢東・周恩来とのやり取りは、(笑)が多く表記された率直な会話の部分が白眉であります。とりわけ台湾、ソ連、日本に関する会話部分に注目しました。
 ここでは、台湾についての一部を転記致します(第九章「恢復関係」;254頁 )。

  毛沢東;我々の共同の友人(老朋友)蒋委員長は今回のことを喜ばないだろう・・・彼は我々を 共匪と呼んでいる。(中略)
 ニクソン;蒋介石は主席を匪と称する。主席は彼を何と呼んでいますか?
 周恩来;一般的には、我々は彼らを『蒋幇』と呼んでいる。時々報道では、我々も彼を匪と呼ぶので、彼も我々を匪と呼ぶことになる。こうして、我々はお互いに罵りあう。
 毛沢東;実際は、我々と彼との交情は、皆さんたちの交情と比べてとてもとても長い。   

  ※「幇」動詞;助ける 名詞;集団。仲間。グループ。組。(例)青幇、四人幇など。                     
                        (了)

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