2016年4月20日水曜日

#158  中国たよりーー『渡海人』

 今回はI氏が韓国と台湾の詩人について、また中国の漁業の一端について書いています。 日本のメディアからは知ることができない貴重な情報です。
 諸君には政治とは関係がない3国の民間交流を知ってほしいと思います。      
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      中国たより、4月ーー『渡海人』


 
 この一ヶ月もいろいろな方とお会いし、お話を聴かせてもらいました。
 3月初めの日曜日、上海市静安区にある朱實老師のお宅をまたまた押しかけ訪問しました。
そして漢俳(漢字だけで五七五、十七字、季語に当たる言葉を使い俳句的な世界を醸し出す)の作品をお預かりしました。


    一雷驚百蟲 万象更新春意濃 耕種微雨中 翟麦 (朱實)
       (拙訳:啓蟹や万象めざめる微雨の中)

 冬を乗り越え啓蟹を迎えたことを喜び、春気が濃くなる微雨のなかで土を耕し、新たな種を植えていこう、という明るい内容の作品でした。卒寿の春を迎えて、なお一層創作に意欲的な句意を喜ばしく思いました。
 
 この漢俳に朱實老師からの献字を添えた色紙は、3月末に山田洋次監督にお渡しできました。翌日の2015年度大連日本商工会文化事業イベントで「ぼくと寅さん」と題する講演をされる予定の山田監督と同じフライト、しかも機内では近くの席に座る巡り合わせの良さがありました。
 「朱さん、お幾つになった? 90歳!」と気さくに対応いただいたので、漢俳の大意は『母と暮らせば』、『家族はつらいよ』を仕上げたばかりの山田監督への、朱老師からの激励のようですとお伝えできました

 大佛次郎賞受賞記念講演会が満員札止めの横浜市開港記念会館で行われました。第42回目の本年度は、詩人金時鐘氏の回想記『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』(岩波新書)が受賞対象でした。昨年9月の「中国たより」に、金時鐘氏の済州島脱出について拙文『済州島』に少しだけ触れました。受賞作の回想記を通じて、1948年4月3日から1954年まで続いた(完全終息は1957年?)「四・三事件」について、よりリアルに知ることができました。
 その流れに沿って、実体験をご本人の肉声で聴きたいと思い講演会への申し込みをしました。 淡々とした関西なまりの金氏は、文章では表現し尽くせない臭いや粘り気を我々に伝えようとされていると思いました。知的好奇心とか歴史への興味からの姿勢だけでは吸収しにくい精神のオリ(澱・滓)の塊(=魂?)を伝えようとしているのかとも思いました。
  金氏は21世紀になって、ようやく済州島に戻ることができました。故郷で金氏は両親や事件で亡くなった人たちの「魂(霊)寄せ」の祭祀を主宰したとのことです。元来の自分は唯物論的な発想をする人間ですと断りながら、金氏は祈ることで救いを得たと語り、講演を締めくくりました。
 台湾と朝鮮の若い詩人が、同じ1949年に密かに海を渡っていることに気付きます。
 一人は日中戦争終息後の国民党による台湾支配のなかで、2.28事件のあとも民主文化運動の挺身。ついには身分証明書を偽造して基隆港から脱出し、英国船籍の貨物船で大陸に渡った朱實老師。
 一人は朝鮮半島で南北政権が対峙するなか、済州島での民主化運動に参画。4・3事件の緊張下で身を潜め、父親が極秘裏に手配した漁船で済州島を夜陰にまぎれて脱出し、神戸市の須磨海岸あたりにたどり着き、大阪市の猪飼野に棲みついた金時鐘氏。
  お二人が同じ年に両親や故郷と別れて、海を渡った背景には国民党・中華民国と共産党・中華人民共和国の対立や大韓民国と朝鮮民主人民共和国の対峙があり、更には米国とソ連を盟主とする冷戦構造の亀裂が鋭角化する朝鮮戦争のまさに前夜のことでした。
 朱老師、金氏と同じく海を渡った人の肉声を聴く機会が3月にもう一度ありました。 台湾原住民作家シャマン・ラポガン氏を挟んで作家の高樹のぶ子さん、台湾文学者の魚住悦子さんによる公開鼎談が東京虎の門の日本財団ビルでありました。
 シャマン・ラポガン氏は1957年台東県蘭嶼という離島の生まれ。台湾原住民16族のなかで唯一の海洋民族であるタオ(ヤミ)族の漁民。国立清華大学修了。人類学修士。台北でタクシー運転手などの就業をしたあと蘭嶼島に戻り、伝統的な漁をしつつ作家活動を続けている由。  新作の下村作次郎訳『空の目』(草風館)を訳者自身から届けてもらい、その夜の公開鼎談のあとも下村さんからシャマン・ラポガン氏について色々と教わりました。核廃棄物の貯蔵施設設置に対する反対運動家でもあること、翌日は同氏夫妻の希望に沿って三浦半島の漁港を案内すること・・・「読む前に知る」のは場合によっては、先入観が強くなることもありますが、この夜のシャマン・ラポガン氏の中国語による発言はウィットに富み、知的で論理的でありながら原初的で荒削りな魅力に溢れていました。無駄のない直裁な表現内容をシャマン・ラポカン氏は短いセンテンスで区切り、卓抜な女性通訳者との相乗効果を生み出していました。
  英語圏でも翻訳本が出版されているというシャマン・ラポカン氏は流暢な英語も口にしていたようでしたが、日本語はできないようです。氏の父親世代たちは逆に中国語を学びきれなかったものの、日本語は話せるとのこと。朱老師や金時鐘氏世代に当るのでしょう。 新作『海洋文学――父の物語』の一節に、漁場での印象的な箇所がありました。
  ・・・わしらはマグロやロウニンアジを何匹か釣り上げた。叔父がわれらの漁獲はこれで充分だ。十匹以上とってはいけないと言った。海に魚が「いつまでも」いるというわしらの信仰は貪欲さを受け入れないというのだ。わしらはその信念を受け入れ、帰るために舟を漕ぎはじめた・・・  同じ時期に、BS画像で台湾の対岸である浙江省の漁業関係者の生活を見ました。つい数年前までの鮮魚需要拡大に上滑りした感じの好景気、御殿のような家並みが続く町。 若いやり手の船長のニヒルな言葉を曖昧に記憶しています。 「乱獲競争のため漁獲は減り、収入は減るばかり。そして網の目は益々小さくなり、水揚げされるのは小ぶりの魚ばかり。小魚の段階で獲ってしまい、成魚になるまで待つ自己規制が機能していない。他の漁船に根こそぎ獲られてしまうから」 

  浙江省の船長が、台湾蘭嶼島の漁民作家の小説を手にすることは当面ないでしょう。                (了)

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2016年4月2日土曜日

#157 アメリカ社会のキリスト教――宗教は家族の世襲か

 アメリカ大統領選挙の予備選や党員集会で、共和党ではトランプ候補のリードが続いていますが、私はよもや彼に国の舵取りを任せることはないとアメリカ人の良識を信じています。ただ一つ、彼に共感することは、ローマ法王が「壁を除くのではなく、壁をつくるトランプはキリスト教徒ではない」と発言したことに対し、「個人の宗教は心の問題であり、 彼からとやかく言われることではない」と反論したことです。
 今、イスラム教がテロと関連して問題にされていますが、私はアメリカのキリスト教の中には愛国主義と結びついた宗派が気になります。アメリカ社会で約18年生活した間に経験したことを書いてみます。

◇ 宗教の家族世襲と豚肉

 中東の小国出身でアメリカに移住してきた若い技術者と仕事で付き合う機会があった。初めて昼の会食をした時、彼は慎重にメニューから豚肉が入っていない料理を選んだ。私が持ち前の好奇心から質問をした。
 「豚肉を食べないのはイスラム教が禁止するからかい?」
 「それもあるが、家族で豚肉を食べないから、好きも嫌いも分からない。正直に言えば、ただ生活習慣です。あなたは豚肉を食べますか?」
 「食べます。牛肉も鶏肉もなんでも食べます(笑い)」 しかし、日本人が肉を食べ始めたのは、19世紀後半からで、それまでは四つ足と言って動物の肉を卑しいと見ていたのです」
 「へえー、それはまたなぜなのですか?」
 「仏教の影響もあるかもしれませんが、要するに食べる習慣がなかったのです。それが1868年の明治維新、Restorationと英訳されていますが、まあ封建主義が打破された革命みたいなもので、西洋化されるとみんな牛肉も豚肉も食べ始めたのです」
 「今も日本は仏教国なのに教えに反しないのですか?」
 「正確には分からないが、仏教の規制は日本では緩やかだから家族の習慣が変わったのでしょう。今も仏教の影響は広いのですが、人の日常生活を縛る点では緩やかです」
 今度は私が尋ねた。
 「あなたもイスラム教徒ですね。いや、これは愚問だったか」
 「いえ、アメリカに来てからはモスクに行かないし、毎日5回のお祈りもしないから、敬虔な信者ではありません。地域や社会で目立たないようにするためです。生活のためです。イスラム教徒の家族で生まれ、アメリカに来るまでイスラム社会で育ったのですから、当然コーランも読みました。ほかに選択がなかったのです。友達に誘われて結婚式や葬儀にキリスト教会に行くことはありますが特に抵抗はありません」
 「やはり私も代々仏教の家に生まれましたから、仏教の信者です。仏教からいろいろ教えを受けてきました。それでも世襲みたいなもので、本当に自分の信仰であるかどうか、いつも迷いを持っています」
  「アメリカではどうしているのですか?」 「私が住む人口2万人の町は保守的な社会ですが、友達に誘われて通い始めたユニタリアンという無宗派の教会に属しています。ポーランドに始まったこの宗派は一時アメリカで広がりましたが、衰退しました。教義がなく、人道や個人の信仰の自由を掲げています。こんな小さな町に立派な教会があるのは、19世紀半ばに近隣で世界で初めて油井技術が開発され、石油産業が興ってとてつもなく豊かな時に、金持ちがつくった無宗派の牧師養成学校があったからです。
 町では保守派のキリスト教会各派が30以上もあります。その中で異端と見られるユニタリアン教会には強い支持がなく、私に『なぜあなたはまともな教会に行かないのか?』と言われたことがあります。それでも町を去るまで会員でありました。私が尊敬していた会員の友達は『信仰は揺れ動く波頭のようなもの』と言っていました」  彼は「アメリカにヨーロッパからの移住者は信仰の自由を求めてきたのに、今は変わりましたね。宗教差別が強くなっています」と言った。
 これは実感だっただろう。
 彼との宗教談はこれで終わった。  

◇ 保守派教会の契約違反 

 渡米して2年目のこと、両親が訪ねてくることになり、仮住まいの家から快適な住宅地の広い家に引越しすることにした。友達にあちこち借家の情報を求めていた。ある日、町で最も親しくなった家族から、彼らが行く教会が持つ家の借主を求めていることを知った。
 高級住宅地にある家は両親に過ごしてもらうにふさわしい家だった。教会は喜んだ。自宅に訪ねてきた理事と打合せしたところ、おおむね双方が合意したが、後で家族の話によると、私たちがユニタリアン教会の会員であることに反対した理事の一人がいたという。
 保守派教会にしてみれば、私たちが会員である自由派教会は異端なのだ。それでも、この町ではアパートを除いて借家の需要が少ない、まして家賃が高い借家の借り手がなく、結局、教会は私たちを受け入れた。
 一年近くが経つと、理事が訪ねてきて、家を明け渡してほしいと言った。副牧師が決まったので彼に貸さなければならないと理由を説明した。
 「待ってください。2年の期間を要求したのはあなた方ですよ。契約もそうなっています」
 「理事会の決定であり、副牧師を迎えなければならないのです」  
 「聞けば、副牧師はこれから結婚しても二人家族だからアパートでもよいのですから契約を守るべきではないですか」
 これは訴訟をすれば勝てる戦(いくさ)だった。しかし、大切な友達の立場のこと、小さな町で話題になりたくないことを熟慮して家を出た。幸い、期限前に教会の友達が海外に行くことになり、家を貸す申し出があった。それから2年後、同じ町内で売りに出された家を買った。
  一件の牧師にスーパーで会うと、私たちを避けて逃げた。良くないことをしたという意識はあったらしい。
 この一件からいろいろ学ぶことがあった。
 教会の都合は時に契約が通じないこと。友達の話ではよくあることだという。  保守派教会が自分たちこそ正統キリスト教会であると盲目的に信じていること。これがアメリカ社会の風土の一部になっている。           (完)

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