2013年10月26日土曜日

#102 朝鮮半島に何が起きるか?――衰退した半島地政学

 
 
 私は工学部卒で技術者であったが、関心が多岐にわたり、分野をかまわず何でも読書をしてきた。会社勤めをしてからは、独身寮の時代から大きな机と回転椅子を買って、狭い社宅アパートでも一室を占領してきた。雑学の大家(?)と揶揄されたこともあるが、大家であるかは疑問にしても、読書家ではあるだろう。  何十年このかた、毎日3~4時間は読書をしてきた。
 私が知る大企業の元社長は毎日6時間も読書をしてきたという。上には上があるものだ。今は気力が衰えてきたが、それでも2時間くらいは読書している。
 東京世田谷の社宅に住んでいた時、通勤に通る商店街に小さな本屋があった。大書店で立ち読みしたり、新聞広告で興味ある本を知ると、すべてこの本屋から注文した。私がアメリカ企業に転職することになって社宅を引き払うと、本屋の店主は嘆いた。「わあ、ショックです。大口のお客を失った」と。  
 今は、遠い昔の話です。  
  今回は朝鮮半島についていろいろ雑学の発想してみましょう。

◇ 北朝鮮の将来は?  

 従来からの経済封鎖に加えて中国が北朝鮮との銀行取引を停止した。これで表向きでは北朝鮮は必要な物を海外から輸入できないことになった。  かつて北朝鮮の輸出三品は、ミサイルなどの武器、麻薬、偽ドル札であったが、海外からの監視が利いているのでどれも輸出できない。つまり外貨を稼ぐ手段がなくなったのだ。 唯一の外貨獲得手段であったケソン工業団地を5ヶ月も封鎖した打撃は大きい。トウシロウ金第一書記は何を考えているのか?
 それにしても、外貨がないはずの北朝鮮で高級レストラン、アイススケート場、高級遊覧船、大遊園地に続いて、次は最新スキー場を建設するという。金はどこから来るのか? 私は素人の推測として、中国が人民元の札束を陸送しているのではないかと疑っている。  この狂った独裁政権の先は危うい。
 最近、ロシアの高官が北朝鮮は韓国に併合されればよいと言ったとか。中国政府もこの暴れ者の舎弟に匙を投げているかもしれないが、そうかと言って見捨てるわけにはいかないだろう。なぜなら中国は38度線を自国の国境と考えているからだ。  しかし、諸君の時代には何か起きるだろう。  

◇  半島の地政学は死んだ

  かつてアメリカの海軍将校だったマハンなどの「半島が敵国に占領されると対岸の国々に覇権が及ぶ」という地政学が流行ったことがある。70年代に日本でもしきりともてはやされ、何冊も本が出た。当時はベトナム戦争の最中で、インドシナ半島で南ベトナムをアメリカが支援するために、戦争を正当化する理論として地政学が使われた。  
 つまり、インドシナ半島が北ベトナムに統合されると、共産主義が半島を超えて各国に広まると言われた。アメリカは大変な警戒感を持っていた。しかし、北ベトナムが南ベトナムを統合しても何も起こらなかった。ベトナムは市場経済と独自の社会主義によって成長しているし、対岸まで支配することはない。共産主義そのものが衰退した。 
  中国の政府と軍部が、太平洋の西半分を支配下に置く野望を持っているとするなら、朝鮮半島全体をチベット化する野望を持っているとしても不思議はない。逆に、韓国が半島を統一する、つまり北朝鮮を併合するなら、韓国経済は重荷に耐えられないだろう。
 このことは、西ドイツが東ドイツを併合して以来、おそらく10年間はどんなに重荷であったかを参考にすればよい。東ドイツ市民は市場、会社、民主主義の意味が分からなかった。その上、東ドイツ語訛りが差別された。 それが今や、東ドイツ出身のメルケル首相がEUの実力者になった。

  テレビのコメントを鵜呑みにするな  

 先日のNHKの海外ニュース番組で、アメリカがシリア攻撃を止めたことについて、東京から出張したキャスターとシリア駐在の記者が対
 あの程度の記者たちに見られるコメントは貧しい。大体、「迷走」と「場当たり」は政府批判でも安易に使われる常用句だ。
 私は別の見方をする。アメリカがシリア攻撃を止めたことについて、オバマ大統領は、フランスのオランド大統領と同じく、議会を説得できず、反対の議決によってシリア攻撃を止められたのだ。  攻撃中止によってロシアを仲裁に巻き込んだことは大きな成果だ。これまでロシアは、中国も、国連常任理事国として拒否権を発動するだけだった。国際紛争には冷淡だった。
 アメリカも財政赤字の最中、戦費を使わずに助かった。もっとも、軍需産業は使われるはずだったミサイルの補充ビジネスを受注できなかったので失望しただろう。

 それにしても、なぜ一方的に空爆しているシリア空軍から制空権を奪わないのだろうか? NATOのフランス空軍は、リビィア内戦で戦闘機を使い、制空権を支配したのに。                (完)

Read more...

Back to TOP  

2013年10月17日木曜日

#101 上海たより、「加倍」

 今年は田中首相の訪中により日中国交正常化されて51年になります。諸君は生まれていなかったから、当時を知る人はいないでしょう。
 今回、上海のI氏から寄せられた「上海たより」の中で、中国の古い記事を紹介しています。中国政府専用機の中でぐうぐう眠っていたのは、いかにも田中首相らしい。また、彼は中国が強大な国家になることを予測しましたが、日本の脅威にはならないと思っていました。なかなか面白いですね。   

   ――――――――――――――――――――――――――――――――

  『あまちゃん』最終回、2012年夏の北三陸鉄道再開祝賀シーンに、何度もソ連国旗が出ていたのが印象的でした。その翌日、緊張の会議シーンにカメラマンが写っていたご愛嬌とともに『半沢直樹』も終わりました。二つのTV番組は中国のDVD店に並んでいます。またDVDを待つまでもなく、放映翌日にインターネットで中国語字幕付きで流されて、熱心な当地のファンの支持を得ているようです。
 弁護士事務所のパートナー先生も早くから『半沢直樹』を追いかけて居ました。豊富な日本経験の持ち主で、熱心なタイガースファンでもある先生に教えて頂きたいことがあります。今年の流行語になりそうな「倍返し」を、中国語字幕では「加倍奉還」と表現していることの可否についてです。  
 東京から逆に上海ドラマを追いかけている後輩社員から、女性同士の諍いシーンでも「加倍奉還」というセリフが出ていたとの報告を貰いました。この中国語訳では、日本語の単純語感から見ると、倍にして(感謝の気持ちを)お返しする、という印象を受けてしまいます。他に適切な言葉がないか色々と調べていますが、「加倍回撃」という訳し方くらいしか思い到らず、自信はありません。    
 相手の名前を訊ねる時の中国語の用法は、普通には「你是誰?」「你姓什麼?」などがあり、相手を尊敬する丁寧な言い方としては「您貴姓?」を使い、問われた方は「免貴姓○」(○は陳とか汪とかの姓)と応えます。尊敬される程の者ではありませんが(「貴」を「免じる」)○と申します、という謙譲表現を挟むことで滑らかな会話となります。
 ところが、ずいぶん昔の中国東北地方を走る夜行列車内で起こった喧嘩の最中、「お前は誰やネン?」とぶつける状況となった時に、この「您貴姓?」が口から出てしまい、周りの爆笑を買って、結果として座が和んで事なきを得た、という失敗(成功?)実例を、今年も大学の集中講座の学生たちに話しました。ところが、或る中国の人から、喧嘩のような緊張した状況でとびきりの丁寧な「您貴姓?」を使うと、言われた方は却って震えあがって、抜き差しならぬ深みにはまる惧れもあるから注意するに越したことはない、と教えて貰いました。
  「加倍奉還」にも、表面的な丁寧さが、まさに凄い脅しを含めた「倍返し」になっているのかも知れないな、とも思い始めています。いずれにせよ、文化や言葉が異なる相手との喧嘩は難しいので、よく自分と相手を見極めて(見くびらず、少しおだてて、臆せず、毅然として・・・)からにすべきだと思います。喧嘩と口説きと値切りは、日本語も含めたどんな言語でも難しくて、残念な思いを若い頃から続けています。  
 40年以上前、雑誌『中国』という一種の啓蒙雑誌がありました。主筆の竹内好による「中国を知るために」という連載は単行本にもなって、初学者の入門書・指南書として分かりやすく熱心に読みました。その中に、果物の話がありました。夏から初秋には、たわわに実をつけた柿の木も晩秋には収穫や落果を続けます。それを見て、中国人は「もう、無くなった」と言い、日本人は「まだ、有るではないか」と反論する。数えきれないくらいあった果実が、数えるばかりになった状態を「もう無い」と感じるか、「まだ有る」と考えるか、という一種の文化論でした。ブドウ園には「もう無い」と判断した日本人は入場せず、「まだ有る」と言う中国人の売り子の言い方が面白くて、竹内好の古い文章を思い出しました。  
 その竹内好が1972年初めのニクソン訪中の報せに接して、朝日ジャーナルに緊急寄稿した一文の題が、たしか「晴天の霹靂」であったと記憶しています。蒋介石の中華民国政府との関係、ベトナム戦争、ソ連とのバランスから見て、米中関係の良化は無いとしていたが、その有りえないことが起こった、と不明を率直に認める文章だったので印象に残っています。しかし、不明であったのは直前まで知らされていなかった日本政府も同じであり、それからほどなく反中国・親台湾の佐藤栄作長期政権が退陣し、田中角栄内閣が成立しました。
 そして、バスに乗り遅れまいとする総資本の後押しで中国を訪問し、戦争状態の終結と国交正常化の交渉を行ったのは、42年前のこの季節でした。 42年前の9月29日の出来事について、9月26日付『環球時報』13頁、周斌氏(元外交部高級通訳。79歳)の手記が掲載されています。
 北京で「中日共同声明」に調印したあと、周恩来首相の専用機で上海へ移動した機内での田中角栄首相、大平正芳外相の様子。上海虹橋空港到着後に直行した「馬陸人民公社」での周首相と張春橋(上海市革命委員会主任。後に四人組として訴追)の振舞い。上海虹橋空港での別れ際に周首相が「天皇陛下に宜しくお伝えください」と語ったことなどを通訳した体験を記述しています。以下に部分抄訳します。  

  田中、機上で鼾をかいて爆睡  
  大平、詩作について(周)総理に教えを請う           
 「田中角栄 上海訪問19時間の追憶」 1972年9月29日午前10時「日中共同声明」発表。多年の外交関係中断から恢復。 午後1時30分 田中・大平は北京を離れ、3時30分 上海に到着。 翌30日午前10時半 上海を離れて帰国。 田中は自らの専用機をあえて使わず、周のソ連製専用機への同乗を強く希望 搭乗10分足らずで、田中は深い眠りに。「機上会談」を要請した田中の外交儀礼を逸した 振る舞いに、大平は大いに当惑し、「済みません」を繰り返しながら、揺り起こそうと するも、周は不快感を微塵も見せず、懐の深い態度で大平を感動させた。 (中略)上海虹橋空港から錦江飯店に向かう前に、嘉定県馬陸人民公社で立寄り。 周は張春橋が接遇する一行から離れて、公社の工場や田畑にいる群衆の中に入って行った。 涙ながらに訴えてくる女工たちに暖かく接していた周の姿勢を、後に田中は回想録に記述し、中国が強大になっても、日本の脅威とは成り得ず中国は侵略国家ではないとしている(後略)

Read more...

Back to TOP  

編集

Back to TOP