2011年12月5日月曜日

#61 上海たより、その(4)ーー「皮影戯」とは?

堅い話が続きました。今回はI氏からのたよりをお届けします。メディアが伝えないことなので面白いですね。
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 午後から帰国する客との打合せを終えて、フリーとなった北京の休日。
 地下鉄円明園駅近くにあると、HPで当りをつけた『皮影戯』劇場・記念館を目指しました。ところが、見つけた場所はモヌケの殻、何人かの通行人に聞いても『皮影戯』とはナンじゃ?という反応のみ。かなりの努力をして、ようやく引越ししたばかりであることを警備員から聞きだし、本屋のオバサンから、団員の子供が前を通っていたから、引越し先はたぶん円明園の南門付近であろうと教えてもらいました。
 斜陽期の場末の映画館のような建物の回りに、引越し荷物が散在しており、受付の女性が日本人の客は珍しい、と非常に喜んでくれて60元のチケット(円明園入場券付き)を渡してくれました。HPの住所変更がなかったことについては、笑って不問に付されました(1ヵ月後の今も前住所のままです)。
 上演30分前のステージと客席には、人影はなく、記念館らしきものも閑散。中国人の客も珍しいのではないか?と呟やきながら、時間つぶしに円明園を散歩しました。頤和園と並んで、北京北西に所在する清朝の離宮。最盛期の粋を凝らした名園が1860年の英仏連合軍に蹂躙されたことでも知られています。そんな遺蹟公園を時間つぶしに歩くなど、とんでもない贅沢だと怒られそうですが、遅めの昼食は園内屋台のお好み焼きと素焼きの壷入りヨーグルトという慎ましいものにしたので勝手に許して頂きます。
 
 『皮影戯』とは民間伝承の影絵劇のことで、解説文には、皮影芸術は、西漢武帝時代に、その雛形が誕生し、今日まで2000年に渡り伝承されている。俗に「灯影」、「影戯」等とも呼ばれており、劇に登場する人物や道具は全てロバ皮牛皮を加工彫刻し色を入れて作られている。それを「亮子」と呼ばれる幕に押し付け、操り線や歌、道具を使って物語を表現してゆく、とあります。 「非物質文化遺産(Intangible Cultural Heritage )」と位置づけられていますので、日本で言えば、文楽・歌舞伎・能などの「無形文化遺産」に当るのでしょうか。

 灯りを落とした会場に入ると、子供連れの観客が20人くらい座っていました。一つ目の出し物を「亮子」も向こうで演じたあとに、挨拶に出てきたのは、小学校高学年か初級中学生という感じの子供たちだけでした。舞台裏見学を挟んで、録音と思われる演奏と語りで三幕を演じて、打ち出し。約一時間の異次元体験でしたが、古典芸能鑑賞という先入観で訪ねた者には、かなり素朴で熱心な子供劇に思えました。

 今年の端午節(旧暦5月5日)の休日は6月6日で土日に続いて3連休でした。文楽劇場の制作責任者から京都の大学教授に転じた後藤センセと、共通の友人の立っちゃん(同期入社。会社を辞めて、家業を大きく伸ばしてから、実弟に社長職を譲って、別の起業で悪戦苦闘。ようやくユトリができた昨今です)が上海にやってきました。センセからの事前の要請は、「特に無いのですが、できれば『皮影戯』の調査をしたい、何とか実演を見物できれば幸い」という短いメール。当方も「ナンじゃそりゃあ?」状態でしたが、CS(CUSTOMER SATISFACTION。顧客満足)という商社マンの基本姿勢をクスグル高等戦術にまんまと乗って、先の北京での「諜報活動」となりました。
 しかし、肝心の上海では、身近な中国人に聞くも、やはり「ナンじゃ、そりゃあ?」
「爺さんが話していたかも?」という感じで、上海では断念か、と思っていたら、熱心な人が街はずれの七宝地区で演っているようだという口コミ情報を届けてくれました。
 上海の西郊の青浦・松江区から江蘇省にかけては水郷地帯で、清朝末期までは水運で栄えた町や郷鎮が点在しています。その幾つかが保存されて、「老街」として観光ガイドにも載っています。その一つの朱家角を先ず訪ね、村の城隍廟(鎮守神を祀った廟)で、怪しげな運勢判断の道士に引っ掛かったり、螺旋状天井を持つ昆劇舞台を発見したり、各家の門口の菖蒲の飾り物や粽作りを見物。更には馬桶(マートン。旧来からの室内用簡便トイレ)を堀で洗うシーンを偶然見かけたのは幸ウンでした(馬桶洗いのオバサンからすれば、酔狂な3人のオッサンが対岸から凝視しているのを怪訝に思ったかも?)。

 そして目指す七宝「老街」に移動。人混みを掻き分けてようやく『皮影戯』を上演している小屋に辿りつきました。入場料はなんと5元(65円)。あまりの安さに驚いたのも束の間、6畳くらいの部屋に5列くらい椅子があり、30人強の観客がぎっしり押し込まれました。「亮子」も2mX3mくらいの小ぶりなものでした。しかし、胡弓や笛などの鳴り物は実演、語りも肉声で迫力十分。肉声であるけど、何を言っているかは殆ど分からないな、と思っていたら、子供連れの教育ママ風の奥様が「標準語で演じなさいよ!何が何だか分からない」と声を上げたのに抗して、幕の内側から演者の老人が「昔からうちらは、こない演っているんや!」 と上海語で言い返した(ようです)。
 そんな遣り取りとは関係なく、立っちゃんを初め、半数近くが途中退場。一演目毎の入れ替え制であることに気付いたのは、二番演目を見終えて、興が乗ってきたセンセと二人で居座っているところを、案内係から追い出されてからでした。しかし追加料金は要求されませんでした。そこで三番演目は舞台裏から、6人くらいの年配の演者の手さばき、語り、演奏を覗き見しました。
 その後、整備された記念館を見学、立派に編集された説明書を買おうとしたら、無料で渡してくれました。入場料といい、入れ替え制度の甘さといい、何とも鷹揚な印象が残りました。どうもこれは営利団体ではなく、観光地としての七宝「老街」再開発のための一環事業のような気がしました。その無料の説明書によると、南宋の頃に北方から首都の杭州に伝わり、七宝近辺には清朝光緒帝時代に伝播、その後、毛耕漁(1850~1907)という名手が出て、興行的にも認知され、1920年から30年代には上海市中の大劇場で常打ち公演をするほどの人気であった、その後の内乱、戦争そして革命の時代をくぐり、七代に亘り流派は伝わってきたが、映画やテレビなどの娯楽の普及とともに衰退の一途を辿った、とあります)
 
 「非物質文化遺産」の継承は他所事ならず、日本でもセンセも含めて大変な苦労をされているわけでして、中国においても、北京の子供に演じてもらうやり方、上海の一種のテーマパーク内部で演じるやり方、いずれも一概に是非は言えないな、と思いました。センセの事前の考察は、インドネシアのガムラン(gamelan)音楽とともに演じられる影絵劇が中国に伝わったのではないか?という「南方由来説」なのですが、中国では、独自文化の「北方由来説」が強調されているようです。ただ、いずれにせよ、魯迅の初期作品『社戯(宮芝居)』に描かれているような、農村の人たちのささやかな娯楽の世界の一つであったのでしょう。
 
 帰国当日も、朝から上海の城隍廟をお参りして、廟周囲に広がる豫園「老街」を散歩しました。ところが、その外れの小さな店に、『皮影戯』の影絵人形を売っているのを偶然発見。あくまでも現金決済を主張する店主に、立っちゃんを人質に残して、センセは銀行に走りました。店主の張涛兄さん曰く「お師匠さんが『皮影戯』の演者であり、その指導を受けて制作しているが、七宝での実演は見たことはない、すぐに見に行きたい」とのことでした。     
 旅の終わりに、念願の影絵人形を入手できたので、CS度は上がったことと思います。
 その二週間後にまた、城隍廟の奥深くの店にしかない旨い素麺(一杯8元。精進料理)を食べに行った折に、張涛兄さんの店を冷やかして聴いたら「商売で忙しくて、まだ七宝には行っていない」とのことでした。「あんたのような物好きと違って」という枕詞は呑み込んでくれましたが、顔には書いていたようです。
          
(了)






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