2011年7月2日土曜日

#52 「私の台湾関係史33年」--小説『人間機関車・呉昌征』から転載

 先日台湾の漁船が尖閣諸島魚釣島に近付こうとして、日本の巡視艇に阻止されました。乗っていた愛国活動 家たちに対し、同島の領有を主張する台湾政府も黙視しているようです。けしからん、と諸君は思いますか?
 私は日本にとって悪くないなと思います。なぜなら尖閣諸島問題が日中間の二国間紛争になればいずれ衝突を避けられないので、台湾を含む三国の紛争である方が中国政府の反日運動に利用されにくいからです。
 この三角関係が諸君たちの時代にはどうなっているか、日頃台湾に関する情報が少ない中、参考のために下記の一文を転載します。
 これは、私が台湾に滞在していた時、グループ会食や講話の席で話したものに加筆して、小説『人間機関車・呉昌征』に「附篇」として収録された日本語原文です。

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   「私の台湾関係史33年――台湾はアジアのオランダ――」                          
                      経営評論家・岡本 博志

 私が初めて台湾を訪れたのは、1975年、日本企業の技術者として機械設備のアジア輸出担当に任命された時でした。その後1978年にアメリカ企業に転職するため家族とともに渡米し、95年に帰国するまで17年余りアメリカの地方の町で生活しました。アメリカ生活中の一度を含め、これまで33年間に台湾訪問は20回に及びます。
 出会いとは不思議なものです。その極めつけは、最近の台湾出張でふとしたきっかけから、両国でほとんど忘れられていたプロ野球選手の呉昌征をモデルにし、小説を書いたことです。もともと日本の読者を意識し、私の小説を読むうちに、台湾について知ってもらうことを意図して書きましたが、出会いの因縁から台湾で先に刊行されることになりました。
 台湾での刊行が決まった時に、その附篇として私がどうしても台湾の読者、特に若い世代の皆さんに対して書きたいと思うようになり、そして、この稿として願いが実現しました。
 これは、私が台湾、アメリカ、日本の三国で会食や雑談の中で、問われるままに話してきたことをまとめたものです。他方、日本のメディアでは大陸中国については連日報道されますが、それに比べると台湾に関する報道ははるかに少ない。年々、両国の間で観光客が増えていても、その割には両国事情の相互理解は進んでいない一面があり、台湾について詳しく知る日本人は少ないのです。
 他方、私が知る範囲で台湾の若い人たちも自国の歴史や世界における地位について認識不足があると感じています。
 台湾の独立をめぐる中国との対立は、台湾の問題にとどまらず、台湾海峡の情勢は日本の安全保障にとって極めて重要でありますから、日本の若い人たちにも台湾のことをよく知ってもらうために、執筆を続けたいと思っています。
 今年の5月20日、台湾では国民党の馬英九総統が就任しました。台湾は民主主義が成熟した時代に入ったのです。

 台湾を見てきた33年 
 私が初めて台湾を訪れたのは1976年のことで、もう33年前になります。
 当時、日本のメーカーで技術者であった私は、貿易部に転勤になり、アジア地域での技術支援と設備の輸出を担当していました。アジアと言っても、台湾と韓国が中心であり、私はこの2国の市場開拓を積極的に取り組みすることにし、その他の諸国は引合いに対応するだけで待ちの方針にとどめていました。
 76年は蒋介石総統が亡くなった翌年で、蒋経国総統への政権移行が慎重に進められていた時代でした。台湾史の中でも緊張が高まった時代の一つであったでしょう。
 松山国際空港には薄茶色の背広を着た公安警察官が目につき、入国審査は今とは比べようがないほど厳しかったものです。通関の荷物を調べる女性検査官たちは、日本人の間で評判が悪く、私も初めての訪問でひどい目に遭ったことがあります。彼女は、スーツケースの中にある土産物の包装紙の上からいきなり棒を刺し、包装紙を破って中身を調べるのです。これにはびっくりして、「開け、と言ってくれれば自分で包装紙をていねいに開くではないか」と英語でやんわりと抗議しました。すると、厳しい目つきをし、薄茶色の制服を着た男女の公安警察官が近づいてきたので、私はさっとスーツケースに乱雑に荷物が積まれたままで立ち去りました。後で代理店の人に話すと、「引き際が良かった」と言われ、それ以上しつこくすると別室行きだったとのことです。
 最近、桃園国際空港では、通関は早く、快適に通してもらえるように様変わりしています。通関はどこかな、と思っているうちに、もう外に出てしまいます。オランダのアムステルダム空港と同じで、時代が大きく変わったことを実感します。
 また、かつて全国どこに行っても「大陸光復」という看板や垂れ幕が見られましたが、今やどこにも「大陸光復」は見られなくなりました。おそらく今の台湾では若い世代には理解できないような戒厳令の下での緊張感があったのです。
 70年代には台湾政府が日本からの輸入を規制しており、「アメリカ製品優先購買」政策(ヨーロッパからの輸入は規制なし)を取っていたので、軍工廠や官営大企業へ日本の設備を輸出することが閉ざされていました。そのため当時私が選択した方策は、高雄の軍工廠と大企業(トップは軍人や国民党幹部)には技術提携していたアメリカ企業の設備輸出を支援してコミッションを受け取り、民間企業には規制が緩かった台北地域の中小企業には日本メーカーの設備を輸出するというものでした。
 当時は、商談には高雄では英語、台北では日本語を使い、民間企業の経営者とは直接日本語で話できましたが、今では70歳以上の世代でないと日本語達者が少なくなりました。
 
 ここで一つ挿話を挙げますと、鉄道マニアの私は、台北から高雄に移動するのにいつも特急列車に乗ることにこだわっていました。当時は特急券が手に入りにくく、ダフ屋のおばさんから買っていました。わずかの釣銭は返してもらわなくてもよいのに、周囲の警察官の目を気にしながら、すれ違いざまに釣銭を私の手に渡してくれました。彼女たちはそれなりの仁義を持ちながら必死で生きていることに感心したものです。時代が大きく変わって、今では新幹線が走るようになりましたが、私は今でも当時と変わらない縦貫鉄路の特急を乗るようにしています。
 78年、日本メーカーと技術提携を交わしていたアメリカ企業から誘いがあり、この会社を円満退職して転職するために家族とともに渡米しました。86年にはアメリカ企業を退職して独立、日米両国の数社で取締役を務め、同時に経営評論家として執筆と講演を始めました。大学で日米経営や通商問題について講義し、また、政府機関や経営団体が主催するセミナーで講演もしました。こうして当初の予定より長く、95年に帰国するまで17年以上もアメリカの小さな町(ペンシルベニア州)で生活しました。
 この間には台湾で激変がありました。79年米国と断交、84年李登輝国民党副総統に就任、86年民進党結成、87年戒厳令解除、88年李登輝総統が就任、などがありました。
 87年に、私は、アメリカの国際経営学会が台湾政府の招きにより台北で開催された時、台湾を訪問したことがあります。この時、開会式で挨拶した李登輝副総統(当時)を初めて近くで見ました。大柄な身体の全身からオーラが漂う副総統の姿に強い印象を持ったものです。台湾は確実に変化していました。
 2006年6月、会社用件と日米通商問題に関連して執筆するために台湾に出張しました。台北で行政院と新聞社を訪問した後、友人のはからいで嘉義に足を延ばし、会社や大学を訪問する機会を得ました。台湾はさらに大きく変わっていました。
 ある日、台湾人の友達がぼやいたことがありました。
「最近の台湾では犯罪が目立ち、不法移民が急増して治安が乱れている」と。私がにやにやしていることを「何かおかしいか?」と咎めたので、「そりゃ、日本も同じだよ。犯罪が多い、不法移民が増えるというのは、言うなれば、先進国の証しみたいなもので、避けられないもんだ。台湾に限らず、独裁国家はどこでも治安が良い。昔の台湾も治安は良かったじゃないか」と説明しました。譬えれば、移民は、水が高きから低きに流れるのとは逆に、低い国から高いところに流れるものだ、ということを示唆したのです。
 実際、台湾は民度、経済力、民主社会のどこから見ても独立国で先進国に見えました。

 台湾はアジアのオランダ
 台湾は残念なことに独立国ではないが、それはあくまで「名」の上でのことです。
 他方、「実」の上では独立国であるどころか、世界標準に照らせば大国です。読者の皆さんは驚かれるかもしれないが、私が「オランダは小国ですか?」と問えば、いや、ヨーロッパの有力な国の一つだと答えられるでしょう。そこで、台湾とオランダの比較表を下記につくってみました。

       国土面積(㎢)  人口(万人)   GDP(億米ドル)

  台 湾   3 6 0 0 0   2 3 0 0     3 6 5 0

  オランダ  4 1 0 0 0   1 6 3 0     5 9 5 0

  (台湾政府統計2005年、オランダ2006年政府公式ホームページ)
 
 これを見ればわかるように、台湾は「アジアのオランダ」であると言えるのです。名目GDPでは両国の間に開きがあるように見えても、オランダの物価は台湾よりはるかに高いことを考慮に入れるなら実質ではそれほど開きがない。そして、台湾にはまだ成長余力があります。かつて台湾への最初の侵入者として南部を支配したオランダと肩を並べるようになったのです。
 同じ太平洋国家のニュージーランドは、国土では台湾の9倍もあり、GDPでは台湾の半分ですが、人口が台湾の1/5ですから一人当たりGDPでは台湾の2倍以上になる豊かな国であります。台湾の成長余力とはこの点にあり、いずれ一人当たりGDPでもニュージーランドの水準に近づいていくでしょう。
 私が思うに、日本では、おそらく台湾でも、長年島国のハンディが言われてきましたが、今は島国の利点について注目する時代になりました。日本人も台湾人も肌で感じることはできないかもしれませんが、中国と陸続きの半島国家が受ける圧迫は大変なものでしょう。航空機が発達した今日では、人や貨物が往来するのに時間距離の上では、島国のハンディは問題ではないのです。それどころか、島国の方が大陸国家より国際的な国になりつつあります。
 日本では何十年来、日本の国際化は遅れている、と自虐的に見えるほどの言論があふれています。国際化とは英語化のことではなく、人がどれだけ他国の事情を理解し、自分を主張すると同時に他国の尺度も考えてみることだ、と私は理解しています。今から20年前に書いた本の中で、「日本よりアメリカの方が国際化されていない」と書き、世論に一石を投げました。
 実際、大陸国家の人々は、自国の尺度でしか考えない傾向が強いのです。特に、アメリカのように世界で自国語が通用するがゆえに、相手国について大して学ぶ必要がないからです。これから北京語が世界に通用する時代になるかもしれませんが、歴史的に中華思想(中国が世界の中心)に縛られているとするなら、この大陸国家が相手国との価値観について学ぶ姿勢を望むことは難しいのです。
 そうです。世界の国に対し、自国の価値観を押し付けて自説を主張することでは、中国がアメリカを上回るでしょう。むしろ人の心を変えることでは、大陸国家における方が困難であり、これが世界の問題になるに違いありません。
 
 私はアメリカ生活中に、台湾からの留学生たちから、「台湾は小さい」、「台湾は小さな島」という言葉を何度も聞きました。誰もがアメリカに住めば自国が小さく見えるのは仕方がないことですが、台湾でも同じ言葉をどの世代からも聞いています。
 台湾やオランダが小さく見えるのは、どちらも海洋通商国家であることを見落としているからです。海洋通商国家というものは、国土に比べると実体が大きいのです。台湾の人たち、特に若い人たちも実体を認識して意識を変える必要があります。
 また、ある時アメリカの大学で日米通商問題や日本の経営に関して特別講義をした時、アメリカ人の教授から「日本人の留学生は日本に帰るのに対し、台湾人留学生はアメリカに残りたがるのはなぜなのですか?」と質問を受けたことがあります。私は「多分、台湾では政治の不安定要因もありますが、それよりも台湾ではまだ給料が安いからでしょう」と答えました。それから15年以上経った今では、多くの留学生が台湾に帰って職に就くと聞いています。ここにも台湾の変化があります。
 アメリカの話をもう一つしてみましょう。
 私がアメリカ企業のマネジャーとして働き始めてから間もない80年頃、週に2回夜に大学院に通っていました。15人くらいのクラスにアフリカのN国からの留学生が一人いました。彼は30代半ばの彼は自国政府からの官費留学生でした。親しくなっていたある時、私はジョーク半分で「なぜアメリカの大学に来たの?貴国の官僚として、何かアメリカから学べることがあると思いますか?」と尋ねました。そして、続けて「台湾とかニュージーランドの方がふさわしいのではないか。特に台湾はこれから政府主導で経済発展するし、民主化の過程に直面しているから」と言いました。
 彼はしばし考えてから、「そうかもしれない。しかし、政府が決めたことであり、個人的には外国語も習得しなければならない重荷があるよ」
 「いや、台湾ではね、北京語が標準語であるから、これから世界を展望すると北京語は価値が高まると思う」と私がやんわりと反論しました。私は建国を進める国情には英語一本で英米の価値観だけでは限界があることを感じていました。
 その後、台湾では民主化でも経済発展でも大きく進歩することになりました。私は今でも、いや当時以上に政治でも経済でも世界の発展途上国が台湾モデルをもっと注目すべきだと思います。
 
 次に、国交という「名」のことです。
 不幸にして世界政治の枠組みの中で、特に中国政府の政策によって台湾の独立が認められていません。国連への加入も認められず、台湾と正式の外交関係がある国は中南米、ポリネシア、アフリカの約20ヶ国に限られています。日本とは「名」の上では正式の国交がありません。
 しかし、東京には台北駐日経済文化代表處が置かれ、この「実」は駐日台湾大使館です。大阪には台北駐大阪経済文化辦事處が置かれ、これは総領事館と言えます。すでに台湾省が廃止された今、代表處の「実」を一歩進めて台北を台湾に変えてもよいと思います。代表處の代表(大使)に長年独立運動に関わってきた許世楷氏が任命された時にも、日中関係の大きな問題にならなかったので、今さら中国政府が目くじらを立てることはないでしょう。正式に台湾国でないとしても、地名の台湾は歴然として国際的に認知されているのですから、台北代表處というのは台湾代表處であるべきです。半官半民の機関である台湾貿易センターは台湾を名乗っています。大学も、國立台北大学、國立嘉義大学のように、現実に台湾國立です。
 私は台湾の外交官に、改名の記者会見も行わず、台北を台湾に看板を静かに書きかえることを勧めたことがあります。
 
 台湾が、例えば、オリンピックへの参加が認められたように、先ず「準加入国」として国連への加入が認められることになるはずです。同様に、WHO(世界保健機関)やWTO(世界貿易機関)にも加盟が認められるでしょう。いずれも世界の世論が決め手になります。言いかえれば、世界に貢献できる、そして世界が求めている「アジアのオランダ」を蚊帳の外に置く不合理がいずれ認識されることになります。
 ここでも一つ挿話を入れましょう。
 80年代に「ランボー」というハリウッド映画がありました。その中でベトナム戦争の特殊部隊の一員として鍛えられた主人公ランボーが険しい山に逃げ込んでいる時に、地元の警察部隊が包囲したところへかつての上官が現れます。上官はそこで警察部隊の指揮官にこう言います。
「私はランボーを助けるためにここに来たのではなく、あなた方部隊を彼から助けるために来たのだ」と。この上官の逆論理を借りるなら、「台湾が世界に助けを求めているのではなく、世界が台湾の助けを必要としているのだ」ということになります。独立国として自らは世界に敵を持たず、侵略する野心がない平和国家台湾が世界のために貢献できる分野が多いのです。「ランボー」のように世界が台湾を包囲して孤立させることは世界のためになりません。
 台湾は着々と「実」を積み重ねていくことで世界に貢献できます。

 「名」の独立は中国の安定待ち 
 台湾はどこから見ても「実」では独立国です。「名」の独立が実現しない障害は、台湾の努力が及ばない中国の国内統治事情にあります。
 日本ではあまりに台湾に関する報道が少ないせいか、台湾の実状も知らずに台湾と中国の関係が論じられています。その結果、台湾派と中国派にグループ分けされています。
 例えば、私は長年台湾独立を支持しているので、単純に台湾派、そして同時に反中国派と思われています。しかし、私は台湾派でありますが、反中国派ではありません。このことを理解してもらうことはなかなか難しいのです。
 このことを説明しましょう。

 今、中国に侵略しようとする国はありません。中国は第二次世界大戦後、局地的ではありますが、韓国・アメリカ(朝鮮戦争で)、旧ソ連、インド、台湾、チベット、ベトナムと戦争をしてきましたが、今ではこれらの国で中国と戦争(紛争)を意図する国はありません。台湾も中国と一見対立関係にあるように見えますが、「大陸光復」の目的を捨て、台湾省も全省代表議会も廃止した現在、台湾の側には中国と軍事対決を望むことは台湾政府もどの政党も政策に掲げていないのです。つまり、台湾は本来中国の敵国ではありません。
 それでいて、私が台湾の友人から聞いた話では、台湾の対岸に1000基以上のミサイルを配置しているそうです。これはアメリカに対する外交交渉力の維持と、台湾政府に対する脅し(牽制)だと言われています。私の友人の中には中国は脅し以上に本気だという意見もあります。
 しかし、もし中国が一方的に――台湾から攻撃する理由は何もない――台湾を攻撃すれば、アジアの周辺諸国が反中国になり、また世界の世論が許さないでしょう。では、なぜ中国政府は台湾の独立を許さないのでしょうか?
 それは、台湾の独立を許せば、その影響がたちまち新彊ウイグルなど、周辺イスラム圏と内モンゴールの独立に及ぶからです。チベット問題もあります。中国政府は沿岸部と内陸の所得格差、地方政府の長年の汚職腐敗、農村の荒廃、環境汚染、水不足、エネルギー不足、世界に比類なき230万人の人民解放軍の維持(アメリカでさえ120万人)と権力闘争、法律で抑制しても止まらない人口増加(10年で1億人増えた)、などとてつもなく困難な内政問題に取組んでいます。その上に台湾独立による内政の混乱が起きれば統治能力を超えてしまう恐れがあります。
 私は中国政府の今の政体を消極的ながら支持しています。彼らしか困難を克服し、13億人の国を統治できないという「実」を見ているからです。彼らの政体は民主主義の標準から見れば外れているかもしれません。しかし、共産党の中でもさらに限られた組織の中とは言え、合議の上で任期がある指導者が選ばれ、そこからまた選ばれた英才のグループによって統治されています。ですから、中国を単純に独裁国家と決めつけ、北朝鮮、シリア、キューバなど長期の独裁者国家と同列に扱うことは誤りです。私は中国の政体を「会社民主主義」と呼んでいます。なぜかと言うと、大会社では株主の意を反映しながら、取締役会が社長を選ぶからです。社員が投票で社長を選ぶことはないのです。
 
 1989年に天安門事件が起きた直後、私が住むアメリカの町で親しい友達数人と会食をしていた席で、彼らは厳しく中国政府の武力弾圧を批判していました。その中でただ一人、私は「やむを得ない現実的な対応だ」と発言したので、アメリカ人みんなから批判の声を浴びました。
 そこで、「社会基盤も民心も成熟していない今、民主化は早すぎる。民主化教育も抑制されている。こんな状況で一部の民意を不用意に受け入れれば国全体が混乱に陥り、国を統治できなくなる。早い話、犠牲者は300人の10倍をはるかに超えたと思うよ」と説明しました。今も私の考えには変わりがありません。
 後年、アメリカに亡命した当時の指導者たちは、あの時点での民主化運動は誤りであったことを認めています。
 いつかは中国でも、台湾が民主化にたどった道にならって民主主義体制が実現するかもしれませんが、それには中国全体で均衡ある経済が発展し、教育水準を上げて民度を高め、人民解放軍の圧力を抑止できるまでは長い道程が必要です。
 それでは、最近起きたチベット暴動に対してはどうでしょうか?
 これには私も天安門事件の時のように中国政府には同情的ではありますが、容易に考えをまとめることはできません。なぜならかつて武力占領したとは言え、今は、中国が主張するように内政の問題であるという現実があります。
 大国というものは、ロシアも中国も国境には小心なほどこだわりを持つように見えます。周辺地域に独立を認めると、新独立国が隣接する他の大国の進出を招く恐れがあるからでしょう。チベットの独立を認めると、国境を接するインドの影響を恐れているかもしれません。現にインドの影響が強いネパールとチベットが並ぶと、中国の国境線は大きく後退してしまいます。
 数年前に完成した青海チベット鉄道は、日本でも観光コースとして人気が高まっています。しかし、中国政府は巨額の資本を投下して観光鉄道をつくったのではないでしょう。言われているように、目的はチベットの経済開発を名目にしてチベットを中国化することにあるとされますが、私はもう一つ、いざという時に兵隊と戦車を迅速に運べる軍用鉄道に使えると見ています。

それでは、「ソ連が解体した時に、周辺国の独立を許したではないか」という反論が出るかもしれません。しかし、ソ連というのは、言わば、親会社みたいなもので、ロシアも周辺諸国も親会社の傘下で独立した子会社であったのです。実際、今のロシアは自国内で独立を求める運動に対しては厳しく弾圧しています。チェチェンがその一つです。このように、ロシアも中国も自国領内と見なす地域での独立運動に対しては厳しい政策を取る点では共通しています。

 中国人から台湾人への時代
 もう一つの例を挙げます。
 1997年にホンコンが英国から中国に返還される以前、アメリカで返還が話題になり始めた頃、ピッツバーグであった国際経営関係のセミナーで数人の講師の一人としてスピーチを行いました。この時、会食の講師テーブルでホンコン出身の女性大学教授と隣席になり、いろいろ世間話をしていると、話題がホンコン返還になったのです。その中で、私が「民意に関わりなく、返還が市民の雲の上で両国政府の間だけで行われていることに対し、市民がまったく表に出てこないことを不思議に思います」と発言しました。すると彼女は、「不思議はありません。ホンコンは市民が政治から遠ざけてこられた英国植民地支配の芸術品みたいなもので、平和な生活さえ保障されれば地主が誰であろうと気にしないのですよ」と、きついことを言いました。
 アメリカで生活する外国人が自国について辛口で言うことは珍しくないので、慣れている私でさえ彼女の発言には驚いたものです。それでも、中国から独立して住民自決を訴える声は聞いたことがありません。しかし、ホンコンと同じ「一国二制度」の地位が台湾に与えられて、それで台湾の中国との統合がうまく進むとは思いません。ホンコンと台湾では、歴史、人口、民度、経済力、社会構造から軍事力、政治成熟度まであらゆる点で違いが大き過ぎます。
 台湾の人々にとって、中央政府に国税を払う、教育を変えられる、人民解放軍が進駐して台湾軍がその指揮下に入る、ことなど誰一人として望まないでしょう。
 彼女との会話の終りに、私は「理想としては、台湾、ホンコン、シンガポールの中国人系国家が、中国共益連邦として緩やかな連帯で結ばれることでしょう」と言いました。これは、今日でもかつての宗主国イギリスと旧植民地諸国が、女王が出席して集まる大英国連邦British Commonwealthからヒントを得た発想です。

 台湾の人々は、ホンコンと中国周辺のイスラム圏と台湾の大きな違いを世界に明らかに、そして静かに知らしめていくことが大事だと思います。つまり、台湾は別格であることが理解されるように持っていくことです。これは日常努力の範囲です。
 世界の世論に加えて、日本人が持とうとしても持てない世界にわたる組織である華僑ネットワークは、中国系人の一大パワーであり、台湾が彼らの世論を味方につけることも日常的に努力を積み重ねる必要があります。
 最近、許世楷夫妻が書かれた著書『台湾は台湾人の国』(はまの出版、2005年)を読みました。
 在日台北経済文化處の許代表はこの本の中で、台湾人を四つのグループに分けています。ホーロー語系(9割を占める、いわゆる台湾人)、原住民系、客家系、北京語系(外省人)の四つで、この歴史的に違うグループの融合を説いておられます。これはまさに台湾内部の問題であり、台湾人が努力すべき問題です。
 国際関係では政府や政治家が過激に動くと災いの種になることがよくあります。ですから、私の考えではこの問題については民間人が自主的に努力することがより賢明だと言えましょう。これに中国政府や台湾政府が干渉することはできません。
 私は民族融和の問題は年月が解決すると思っていますが、また、一つの例を引いてみることにしましょう。
 世界で2位の大製鉄会社である新日本製鉄は、八幡製鉄と富士製鉄が1970年に合併した会社ですから、37年が経っています。当初は八幡族と富士族との社内融和が懸念され、社長も両社出身者が交互に選ばれました。当時、大学卒の新入社員は今では定年になり、社員のほとんどは合併前の両社の出身者ではありません。今年、新日鉄に入社した新世代から初めて社長が選ばれました。社内融合の問題は年月が解決してくれました。
 新日鉄の話を出したので、もう一つ紹介したい話があります。
 今や、新日鉄の売り上げを凌ぐ台湾の大企業があることです。この鴻海企業は半導体製造専門企業(EMSと総称される)の中で世界一になっています。また、長栄集団(エバーグリーン)も世界一の海運会社であり、最近では航空会社としても知られます。
 
 熟柿は必ず落ちる――結び
 台湾に国民党軍とそのグループ(外省人)が台湾に移住してきたのは、1947~9年のことですから、もう60年近くになります。今では第2世代、第3世代の時代に入り、おそらく9割以上が台湾生まれです。彼らは大陸を知らない台湾人なのです。年月がさらに経てば、すべて台湾人になってしまいます。
 私は独立急進派の支持者ではありませんが、陳水篇前総統の功績も評価しています。それは独立志向を強く訴える中で、台湾の世論を喚起して「台湾人の台湾」という意識を高めたことです。
聞くところによれば、「台湾人」より「中国人」でありたいと思う人たちがいるそうです。そのために中国との統合を求めます。私はこの考えには道理がおかしい点があると思います。
 私の理解では多数派の人たちはいつか独立して台湾人でありたいと願っているとすると、比喩的に言えば、少数派の人たちは台湾の島を中国に移動するようなものです。少数派の人たちが台湾人であるより中国人にこだわるなら、彼らには島を移動させるのではなく、彼ら自身が中国に移動する選択があります。これはあくまで道理の喩えであり、少数派の人たちに台湾から排斥することを意味していません。
 台湾はChineseというより、Taiwaneseと誇りを持って言える人たちが統治すべきことは自明の理です。
  
 最近、大阪の本屋で外国語学習の本が集められている棚を見ました。何十冊もある北京語学習の本の中に、一冊だけ「台湾の北京語」という本がありました。日本人にとっては、中国の簡略化漢字より台湾の正統漢字の方が分かりやすいのですが、そのためではなく、台湾理解を意識した北京語を学ぶ読者が存在するという証でしょう。日本でも台湾理解が広まり、世論に広がりが出てくることは望ましいことです。政治家や官僚には中国との関係で台湾については制約がありますが、民間人には制約がありません。台湾にとっては、日本の世論も重要なことです。
 顧みると、私が日本企業で海外ビジネスに関わり始めた33年前には、中国と国交が正常化されていなかったので、中国語学習の主流はビジネス用語としての広東語でありました。ここにも日本の中国語学習における大きな変化を見ることができます。
 
 今年の5月に国民党の馬英九総統が選ばれました。新総統は「独立しない、統一しない、武力を使わない」の「三つのない」を公約として掲げています。「この三つのない」は、裏返せば、中国も守らなければならないということです。つまり、両国には今直ぐの紛争を避けるという合意があり、柿が熟するまでの過渡期政策であると言えましょう。この政策は国際社会でも広く認知されています。
 日本のメディアには、台湾で社会の世論が真っ二つに分かれて国が分裂している印象を与える報道があり、現実とは違います。むしろ、政策と選挙による政争は民主主義の証と見るべきです。この種の報道が見落としているのは、どんなに意見が分かれても、台湾には反共という強固な共通の基盤があるということです。
 他方、日本にも近隣国と緊張関係があるにも関わらず、漫然と生活の安定と平和志向に浸り、どこか社会が緩んでいます。また、私が移住した70年代後半のアメリカでも社会の緩みがあまねく広がっていました。民主主義の避けられない落とし穴は、個人が個人本位に陥り、国を考えなくなることにあるようです。
私は、統一問題が台湾の社会に適度な緊張感をもたらしていると感じています。
終りに、台湾の独立は年月と世界の世論が決めるに違いない、そして「熟した柿は必ず木から落ちる」ということを述べて結びとします。そのために「名」より「実」をひたすら積み上げることによって柿を落としてほしいと思います。
                   (完)


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