2013年4月27日土曜日

Long and Winding Road to China Democracy

#90 上海は静かだった――上海の現実  

 
 今月13日から16日まで上海に行ってきました。このブログに「上海たより」を寄稿してもらっている友達のI氏を訪ねていろいろ中国事情を学んできました。  周囲では鳥インフルエンザの渦中に行くことに心配の声を聞きましたが、上海市民の対応を間近に見ることができ、むしろ特別の機会でありました。10年前の新型肺炎(SARS)が北京で流行した時には、中国政府は情報隠ぺいして発表が遅れ、これが感染を拡大したと言われます。  これに懲りた政府は今回には情報を公開し、WHOに協力もしています。
 I氏の話によると、前回から教訓を得たというよりは、この10年間にインターネットがすさまじい勢いで普及し、強権政府でさえ情報を抑え込むことができなくなったとのことです。  日本の週刊誌の新聞広告で「決死の上海ルポ」という見出しが出ていました。
 さて、私の決死の上海ルポは如何に? 本日現在、発熱はありません。

◇ 上海は静かだった    

 日本で報道されるほど鳥インフルエンザもP2.5による大気汚染も騒がれていず、静かだった。誰もマスクをしていないので、私も持参したマスクを使わなかった。滞在した3日間は晴天であったが、空の青さは日本の空より薄い。  土、日曜はI氏につきっきりで案内してもらった。日曜にはI氏が住むマンションの隣家の中国人家族に、ベンツのファミリーバンで郊外を案内され、農村をモデルにした公園を見学した。市街から1時間以上の距離だったが、どこまで行っても高層アパートが林立する住宅地帯で、本物の農村は見られなかった。  この時、「上海市は東京都のようだ」と発想が浮かんだ。
 調べてみると、上海市域は東京都の倍もあることが分かった。人口が倍もある。とてつもなく広い。  

 月曜は一人で観光バスに乗って半日を過ごし、黄浦江めぐりの観光船から両岸の高層ビル群を眺めた。河岸の広い歩道に置かれた椅子に座って、アメリカではどこにでもあるSubwayのホギーを食べながら通り行く観光団や歩行者を眺めていた。夕方までバンドと呼ばれる旧租界地をぶらぶらした。  次から次へやってくる観光団は、日本でもよく見られるように、小旗を持ったガイドに案内される地方からのお上りさんたちだった。日本人にも日本からの観光団にもまったく会わなかった。多分、反日感情か鳥インフルエンザのせいで日本から観光客が来ないのだろう。  
 観光バスに乗る時にトラブルがあった。それは受付にスマホに記録された予約と料金支払いの確認を求められたが、I氏から預かったスマホが見たこともないノキア製の最新型で、そこに記録された「mail」を開けない。係員も分からないと言うから、会社へ電話してデータを確認するように求めたところ、「会社にはあなたの登録データがない」という返事。ええ加減なものだ。この記録を見ないことには乗車券を発行できないと突っ張る。若い男の係員は英語も日本語もできない(あれほど万博の前に上海政府は英会話教育に力を入れたのだから、日本人に英語を分からない振りをしているのか、と疑った)というから説得も利かない。こういうのを埒があかないというのだろう。  仕方ないから、スマホと格闘すること20分、偶然登録の記録が出た。そこには私の予約と支払い済みの記録があった。めでたし!
 後でI氏と会食した時、スマホについて「もう一回やれと言われてもできない」とジョークを言った。彼によると上海ではスマホが何にでも利用されているとのこと。しかし、私の感触では、末端までは理解されていないようで、上滑りしている面があるようだ。ひょっとしたら、スマホ利用が勝ち組と負け組を分けているかもしれない。
 観光バスの車体後面に数ヵ国の国旗が書かれていたが、日の丸が無かった。I氏の生活感では、これは商売を守るための方便だとのこと。つまり外向けに日本または日本人を歓迎しないタテマエを掲げているのだと言う。彼が良く行く中国人オーナーの日本食料理店が中国料理店に衣替えしたのも根は同じ。一般市民もあまり反日感情を持っていないそうだ。彼らは反日ではなく非親日を装っているのか。
 考えてみれば、日本人の感覚では島一つのことで一般市民が激怒することはないのだから。  

 上海を出発する日の早朝5時半、ホテルから近くの地下鉄駅に歩いていると、何人かが歩道を箒で掃除していた。地方から上海に来ているのだろう。上海の道路掃除やごみ収集はこうした底辺の労働者が担っているという。だから春節など彼らが故郷に帰ると、町全体が汚くなる。  私はドイツで出稼ぎのトルコ人やギリシァ人が2等市民として底辺の労働を支えていたことを連想した。日本でもバブル期から日系ブラジル人が安い労働に雇われた。そう、中国の農民工は同じ国民であるのに、2等市民に置かれてきたのだ。

◇ 「国際地方化」時代の中国人研修労働者  

 私が住む富山には国際空港がある。富山から上海のほか北京・大連、台北、ソウル、ウラジオストック(運休中)に国際便が飛んでいる。私は富山から上海までの直行便を利用した。約2時間の飛行でなんと便利なことか。隔世の感とはこのことだろう。  実は、1986年に講談社から『米国ビジネスマンの思考法』が刊行された時に、国際地方化という言葉をつくり、各地の講演でも触れた。  私の時代では、海外出張には羽田空港に行き、貿易部門は東京にあった。それが今では地方の本社に貿易部門を移すことが増え、海外出張は地方空港を利用する。  私が国際地方化を執筆や講演で提唱していると、ある大学教授が国際化は外向きで、地方化は内向きだから並び立たないと書いていた。10年以上経ってアメリカでもglobalとlocalを合わせたglocalizationという造語を目にした。
  往きの飛行機では15人ほどの若い中国人男女と乗り合わせた。待合室で米俵二つ分の大きな袋をカートに積んでいた。生活品のほかにみやげをどっさり持って帰るのだろう。誰もが特別外国人許可証を胸に下げており、訊いてみると3年間の研修労働を終えて大連に帰るのだという。安い労働力に使われて腹を立てることがあったかもしれないが、彼らはみんな幸せそうだった。
  帰りの飛行機では、日本に研修労働に行くという60人の中国人男女に私の席を囲まれた。片言の日本語を話し、やはり大連から富山に行くという。 富山と大連は何か関係があるのだろうか?                    
           (完)


Back to TOP  

0 コメント:

編集

Back to TOP