2013年4月5日金曜日

#89 英語教育について一つの考察ーー大学研究所に出した論文を転載

 やっと春が来た。大阪より一週間遅れで桜が満開になった。まだ寒い日がある。雪国で迎える春は格別だ。  
 新学期の時でもある。世間では「英語は勉強しなくともよい。聞くだけでうまくなれる」式の教材が猛烈な広告攻勢をかけている。80年代にも俳優のオーソン・ウェルズを使った同じような教材が広まったことがある。そして、消えた。  諸君が裕福なら何も言わないが、そうでなければ20万円以上も出費になるこんな教材には投資価値がないよ。
 諸君、落ち着いて考えてみよう。 これから何回か英語(英会話)学習について書きます。  
 次回からはこの論文をたたき台にして多くの皆さんとの議論から、英語の勉強方法について参考に供したいと思います。ただ一つだけ、「世間の風潮に煽られるな。目標によって取り組み方が違う」とアドバイスします。  
 せっかく力を入れて書いても、英語教育関係者のほかには読まれることがないので、私の論文を転載して皆さんの参考に供します。大学からの許可条件に従って転載する今回の稿は長い、本当に長い。皆さんは最後まで読む根気を持てますか?

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 刊行物名    立命館大学教育科学プロジェクト研究シリーズXI
          「外国語教育におけるFD研究」  
 論文/記事名  実務英語と大学教育の役割          
            ―在米の元経営者から見た日本の英語教育―  
 著者名     岡本 博志、 経営学部講師(非常勤)  
 ページ、図表番号等  17~24頁   (1999年3月)    
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      実 務 英 語 と 大 学 教 育 の 役 割

           ー在米の元経営者から見た日本の英語教育ー                                 

                                                                                                                                                    はじめに――かつての大学英語教育


 私の小論を起こすに先だって、30数年前に私が学生であった時代の英語教育を概観することから始めてみたい。 私が在学していた国立大学においては、一年半の教養課程中に必修科目としての英語を、約50人の全員が理科系であるクラスで受講した。先生から名指しされた学生が英文を読み、和訳していくという形が取られ、それは高校時代の英文解釈のクラスと同じであった。 
  当時、大学受験のために読む英文と言えば、英米の著名な作家の小説が中心であり、どこにも出てくる文学的(非論理的)表現のあいまいさや難解さに悩まされたものだ。それは同時に、入試において獲得点数の分かれ目となる箇所であった。 どういうわけか、大学の英語クラスではテキストとして探偵小説が選ばれた。テキストは比較的薄くて価格が安いこと(今日とは比ぶべくもないほど重要要因だった)、流れるストーリーがあって面白いことなどが考慮されたに違いない。
 多くの学生にとっては高校 時代の英語に比べれば易しく、たいして労苦はなかったが、それが英語との関わりを維持する唯一の機会であった。また、受験準備時代に小説の断片読みをしてきた学生にとっては、一冊の原書を読み切る初めての経験が成果であったかもしれない。
 他方、失ったもの はそれまで培ってきた英文を書く能力であった。まして、英会話の機会はサークル活動(ESSなど)に参加する少数の学生を除けば、誰もの関心事ではなかった。 もし今日、私が担当教師として改革できることがあるとすれば、教材として探偵小説の代わりに、科学評論や技術論文を選んで読ませることくらいだろう。そして、英文の読解力に加えて、論理的に精緻な文章構成と論理的思考力を学べるように配慮するだろう。
  今日、時代が変わっても、クラス編成が50人を越え、英語が一般教育科目である限り、なし得る改革には自ずと限界がある点では変わりようがない。異論もあるが、幸いにして数年前から大学における外国語が選択教科になり、教える側にも学ぶ側にも多様な内容 を選ぶ自由が与えられることになった。
  ここでは、大学が担う英語教育に関して、さまざまな事例を挙げながら、一般教育と特定教育の違いとその対応を基軸として、実社会の現場から見た改革案の一端を述べてゆくことにしたい。

    私が目指す特定教育

  それから30数年後の今、私は専攻科目の他に副専攻科目の「英語で学ぶ経営学」を担当している。 30人余りの学生は、いずれも英語を専攻にしていないが、TOEFLで一定点数を取っている英語の基礎能力の持ち主である。私が学生であった時代では考えられなかったことで、一定の話す能力もある。彼等は海外旅行や日常会話ではほとんど不自由を感じるこ とがないはずだ。さらに能力差は多少あるが、英文を書く能力も持っている。
  しかし、講義を進めるうちに彼等が話す英語には問題があることを見出した。私はもともと講義の目標として、彼等が専門職を遂行するのに、「日本企業の駐在員としてアメリカ(私の長年生活地であったので)で通用する、また私のようにアメリカ企業でマネジャーとして勤められる」ことに置くことにしていた。平たく言えば、私の部下としてこうあってほしい、ということに教え方の基本を置いている。
 当然、日本から海外に出張する際に使う英語より高い目標を設定している。 そこで、いくつか問題を挙げてみよう。
 
  先ず、彼等は目指すべき英語の目標をはっきり意識していないことである。言い換えれば、専門職として使う英語と私的な会話で使う英語の違いを意識することが弱い。私は便宜的に前者を将校英語、後者を兵士英語と呼んでいるが、要するに将校英語は論理的な、 かつ文法上正しい会話を意味する。話し手は聞き手に正確にメッセージを伝え、理解や説得を求める必要と責任を伴うからである。
 実際、アメリカ人の政治家、ジャーナリスト、弁護士、会社役員などの職業人は文法に合った明解な英語を話す。ある時、クラスの一人 が達者な英語の割りにはもたもたした意見の述べ方をするので、日本語で答えるように指示すると、日本語自体が論理的にまとめられず、自分の意見をうまく話せなかった。将校英語の腕を磨くためには、日頃の日本語による論理的表現力を磨くことも大切だろう。
  他方、私的な英会話は個人の文化の領域であり、他人がとやかく言うことではないから、私は講義の対象にしていない。

  第二に、彼等が英語に日本語訛が入ることを嫌い、いかにもネーティブが話す英語に近付くことに腐心しているように見えることである。その結果として流暢に聞こえるが、むしろ聞き取りにくく、どこか馴れ馴れしい英語になっている。時に品格を欠くこともある 。
 私はネーティブの発音に近付く努力より、品格・明確・正確の「三カク」(註1)を目指すことを勧めている。 実例を挙げると、日本の大使が国連で演説する英語を聴いたことがあり、決してネーティブに近い発音ではないが、大使の英語は明確であり、しかも説得力があった。また、俳優のアーノルド・シュワルツフェガーの発音には今もドイツ語訛があるが、かえってそれ が個性の一部をつくっているように感じる。「あの人の英語には訛がある」などとケチを付けるのは国際社会の実態をよく知らないからだろう。もともと発音に関しては、東京に何年住んでも大阪弁訛が取れないタイプと、私のように東京に住むと自然に東京弁になり 、アメリカに住むと英語弁に馴染むタイプがあり、能力というより適性の違いがあるようだ(その代わり、私は正統大阪弁をうまく話せない)。
 
 第三に、私が同年代であった時に比べると、彼等には英文を書く能力が数段高く備わっているが、文章のスタイルが話し言葉調になっていることが気にかかることである。英語には日本語ほど話し言葉と書き言葉の差がないが、それでもビジネス交信においては違い が歴然とある。文章による交信は面談に頼らないだけに、文体や構成の点で的確な配慮が要求される。書き手はじっくりと内容を練る時間が許されるが、同時に読み手もそれなりに構えて読むからである。日本人の書き手としては、先ず目的にかなった良い手本の文章 を模範にしていく他ない。私の経験では、書く英文が良くなるに従い、会話の質が高まっていくようである。

 第四に、彼等の英文に句読点の使い方や文法上の間違いが目に付くことである。日本では英語教育において、文法に重きを置いた教育法に対して批判の声が強いようであるが、アメリカでも高校教育までは国語(英語)の文法をしっかりと教育していることが見落と されているのではないか。アメリカの社会では、文法上正しい英語を使うことが一つの教養水準の目安になっているようだと私は感じている。 例えば、アメリカで私に仕えた秘書は誰もが、デスクの上に辞書(綴りを確かめるため)と文法書を置いて、常に私の文章をチェックして確かめていた。係争に関わる長い文章では、弁護士と秘書が徹底して用語の使い方と構成に加えて文法上の誤りも時間をかけて 正していた。
 それどころか、日本語でもかかる重要文書のみならず、会社では業務文章の用語や文法上の誤りをきちっとチェックすることが普通であり、文法をないがしろにしていることはない。 「英語は耳から」というのは教育法の一面を伝えているだけであり、だから文法を軽視してよいということではない。あくまで文法は基本であり、そこから表現に応用自在が利くのである。喩えて言うなら、会話では、ゴロがイレギュラー・バウンドすればへっぴり 腰(文法に構わず)でも球を捕る方が良いのであり、だからと言って球を捕れたから基本技(文法)を忘れてもよいということにはならない。

  終わりに、彼等の多くは声が小さく、また姿勢や表情が良くないことである。専門職として使う英語では、声、姿勢、表情も表現力の重要な構成要素であり、このことは日本語の表現力にも共通している。これは彼等が努力目標にしていないだけであり、誰かがアド バイスしさえすれば短期間のうちに変わるに違いない。    

          何よりも環境とニーズが決め手  

 企業経営においては、理想とする最強、最良の経営組織を構築することが目標であるべきと理解していながら、慣行や社会的制約のしがらみによって目標に近付けないことが普通である。同様に、大学の英語教育についても、分かっていてもさまざまな制約から理想 の姿を実現することが難しい。それでも、目標を描き、常に目標に近付ける努力が本学でもなされている。
 しかしながら、大学は一体どこまで英語教育について学生に貢献できる、あるいは責任を負うのだろうか?
  いくつか実例に即して述べてゆきたい。

  第一の例。私が設立から取締役を務めていた在米日本企業で、駐在して間もない日本人幹部5人に対して会話を中心に英語を教えていたことがある。もちろん、仕事に直結する英語から議論の仕方まで教えたのであるが、逆に私は彼等から現場の情報を聞き取ること も目的にしていた。土曜日の午前に3時間を充て、英語とは大学以来縁がなかった彼等を手ほどきすることは容易ではなかったが、最大の助けは毎日英語の環境に身を置いていること、習った英語が明日にでも役に立つことを実感している彼等の集中力と意欲がきわめ て高いことであった。月に一度、一年間続けたこのクラスの結果、受講者の中で大きく差がついた。優等生は40代の社長であった。 彼は長年の駐在を予定しているので付け刃ではすまされないことを認識している、毎日英語を使う機会が最も多い(要求される)、文科系出身で他より多く英語を勉強してきている、日常朝も夜もニュース番組を中心にテレビの英語を徹底して聴く努力を続けた、こん なことが成果として利いたのである。
  私の貢献はその成果の一部に過ぎず、大学の英語教育も同様に本人の努力以上の貢献はできない。私自身、会社の幹部英語クラスのように、今のクラスで学生と議論し、もっと個別指導をしたいと希望しているが、一人に3分間話させるだけでも90分も取るのでそ れもかないそうもない。

 第二の例。先日高校(公立)のクラス会に出席した時、発想が閃いて英語に関して調査を試みたことがある。この調査から、45人が全員大学に進学しているクラスの中で、これまでのキャリアにおいて研究・留学・駐在(短期の出張は調査できない)を目的に海外 で生活し、英語を使う必要に迫られた人材は私を含めて5人に過ぎないということが分かった。さらに中学(公立)のクラスを調べてみると、50人の中で海外生活者は私を含めて2人であった。
 時代を経た今日、海外生活者が増えたとしても、それがクラスの2割を 越えることはないだろう。因みに、経営学部生の一学年900人の2割は180人になり、こんなに多くの人材が専門職を遂行するための実務英語を目指すことは考えられない。これから言えることは、全学生を対象にする一般教育としての英語の改革は大学、あるい は学部が負う責任から外してもよいということではないか。言い換えれば、高校までに英語を履修してきた学生に対しては、一般教育としての英語科目を止めて、特定の学生を対象にし、ニーズに合わせた特定内容の英語科目に絞るということである。

  第三の例。カナダにおいては小学4年から、フランス語圏のケベック州では英語を、英語圏のオンタリオ州ではフランス語を第二言語として習うことが義務付けられている。両州を代表する国際都市モントリオールとトロントは、東京・米原間と同じ450キロの距 離にあり、両市の間は飛行機、鉄道、車で便利に行き来できる。
   仕事を通じて長年付き合ってきた友人のカナダ人(オンタリオ州民)も小学4年から高校を卒業するまで9年間もフランス語を習ったにも関わらず、フランス語を話せず、辛うじて辞書を使えば読める程度であるという。ビジネスマンである彼の長男も、フランス語 は父親よりいくらかましというレベルだそうだ。しかし、バイリンガルを要求される中央官僚志望の次男は、中学を卒業するとモントリオールの全寮制私立高校に進学した。
 目的意識(ニーズ)と環境の両面でこれに優る外国語学習の条件を、日本の一般の大学に望む ことは現実に無理というものだろう。 他方、バケーションと仕事で二度訪れたモントリオールでは、ビジネスマンのほとんどがフランス語訛の英語を流暢に話せる。特に、女性のフランス語調のソフトな英語には独特の魅力がある。モントリオールでは市民の多くも英語を話すので、パリで感じたような 不便はなかった。つまるところ、ケベック州のビジネスマンにとっては、自州を越えてより大きい英語圏州(そしてアメリカも)とのビジネスに英語が欠かせないこと、つまりニーズがオンタリオ州ビジネスマンのフランス語との違いをつくっている。
 これに比べると 、日本の学生はケベック州民のようには英語のニーズを肌で感じることはあり得ず、大学もまたこういう学生を対象にする英語教育にハンディを負っている。

  第四の例。10年ほど前に、会議出席とバケーションを兼ね、家内を伴ってヨーロッパを旅行する機会があった。フランスからイギリスに移る時、珍しく午後の連絡船がエンジントラブルで欠航になり、夜行便でドーバーを渡った。当然、船内は満員となり、明らか に学生と分かる群れに取り囲まれることになった。ちょっとしたきっかけから、ワインを回し飲みする学生たちの会話に加えられ、議論の輪の中に入った。
  彼等は、最初、仲間たちと思ったが、そのうち一人旅か二人連れが集まっていることが分かり、彼等の英語には住んでいるスペイン、イタリア、フランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなどのお国訛が色濃く出ていた。それでも馴れるに従い、彼等の英語を充分に理 解できるようになり、政治、外交、経済、ヨーロッパ統合など真面目な議論(中には極論もあった)を整然と展開する姿に感心させられた。政治や男女雇用機会など日本事情について私も意見を求められたりした。
 かくて、禍転じて福となる収穫を得る旅になり、その 代わり翌日は眠気に悩まされた。 ひるがえって、日本の学生の中に、こんな車座になって議論できる学生が何人いるだろうか。英語会話の問題よりも、しっかりした知識に基ずいて自分の意見を理路整然と述べられるような表現力の方が気になるのである。
 今日、下関からも福岡からも日韓フェリー 航路が開かれており、料金も安い。学生の往来も多いと聞く。しかし、そこで車座になって英語で議論する機会はおそらく限られているだろう。本学のキャンパスには留学生の姿が目に付くが、留学生たちと車座交流できる機会が多くあるのだろうか。英語でなくとも 、日本語でもよいと私は考えている。

  第五の例。95年12月に、アメリカにおける日本人の雇用機会に関する調査レポートを執筆するために、出版社からニューヨークに派遣された。この中でリクルートの専門家がアメリカで有利に就職するための条件として、「経営学専攻であれば、ほかに第二専攻 として財務、会計、国際ビジネス、広告、ジャーナリズムなど関連分野を取って補強する」(註2)ことを挙げている。
  実際、アメリカの大学では専攻(メジャー)と第二専攻(サブメジャー)の制度が広く取られており、それは外国語との組み合わせも見られる。例えば、イタリア史を専攻する学生が第二専攻にイタリア語を選ぶ、政治学を専攻する学生がソ連を対象にロシア語を第 二専攻にするなどである。
 私が知る限りでは、経営学専攻の学生が外国語を第二専攻にする例を見たことがないが、経営学専攻の学生が日本の経営を研究するため、あるいは日本企業に就職するために日本語を第二専攻にする例もあるはずだ。 このことから発想して、本学においても英語(他の外国語も)の第二専攻制度を設けることを改革案として挙げることができる。これは現行の英語科目が一学期毎に独立して単発的である点を改めて、2年以上の期間にわたって一定の継続性を持たせるのである。
 当 然、他の履修科目が減ることになるが、英語と他の科目のいずれかは大学の内か外(卒業後)で先か後に勉強するかの違いしかない。 アメリカの日本企業経営者の間で、「駐在員の多くはろくに英語を話せない。日本の英語教育は大学を出てもまったく役に立たない」という声を聞くことは日常のことである。それが最近では、「日常会話を話せても仕事には通用しない」という風にいくらか変わってきたように感じている。
 17年以上アメリカに住んでいた私は、最近の駐在員は英語の勉強に対して淡泊になってきたという別の感じ方を持たされている。 私は日本企業時代の30歳から海外出張を始めたが、それまではこと英会話に関してはNHKのラジオ英会話の番組を細々と聴いていたに過ぎない。ただ、属した事業部門がアメリカ企業から技術導入していたために、英文を読む機会が豊富にあった。当時からちょ うどボクシング選手が試合が近付くと練習を強化するように、海外出張がある度に会議を想定して文章をつくって会話の練習をしたり、語彙を増やそうとしてきた。
 本学の学生が多くの科目を履修して私の英語科目に集中することができないのと同じく、私も普段は日 常の業務に忙殺されていたので、年中英語の強化キャンプを張るわけにはゆかなかった。 
 こうした基礎の上に、後年アメリカ企業に転職するために、日本からアメリカに移住したことによってさらに英語の力を付けることになった。当然、年中強化キャンプをしていた ようなもので、こんな特殊な教育環境では英語がうまくなることは当然のことである。
  しかしながら、産業界の要望には時に無理があり、一般教育と特定教育の違いはおろか、特殊教育の違いをも認識せずに大学の教育責任を求めているようなところがある。このあたりは大学が産業界と交流を深めることによって広報してゆく必要がある。
 もともと、 特殊教育に関しては一般の大学も、そして国費を予算に使う文部省も責任を負わないと私は理解している。

    結びー揺れる教育方針への対応

  質はとにかくとして、今日英語を話す日本の学生の量的広がりには隔世の感がある。 私が学生であった時代に受けた読み中心の英語教育から、会話に重きを置いた教育への転換による成果の一面であろう。日本の内外における国際化の進展も背景にある。
 さらに産業界の強い要望も後押しをしてきた。さらに、文部省は現在の試験期間を経て、200 2年からは国際理解教育の名目で小学3年からの英語教育を導入しようとしている。 長年アメリカで日本人の駐在社員や学生を見てきた経験から言えば、現行の英語教育によって彼等の英語会話力は確実に向上している。
 また、前述したように、小学4年から第二言語教育をしているカナダにおいては、英語とフランス語の教育成果には環境とニーズの違いによって大きな格差が見られる。私には、なぜ日本の英語教育にここまで変革(改革と呼べる確証がない)が必要であるのか理解できないでいる。 その一方では、最近インターネットの普及に伴い、英語の読み書きの方が重要であると言う産業人の声も聞くようになった。
 私も年来、学校の教育では読み書きが中心の英語を基本にすべきであり、英会話はその応用であるという意見を唱えてきた。体育教育の例を 引いて、「限られた時間の体育正科では柔道(英会話)に強くなれない。柔道選手になりたければ、柔道部(英会話サークル)か町道場(英会話塾)に行けばよい」というのが持論である。
 今後も高校までの英語教育の基本目的が、1)国際理解を含む一般教養としての英語、2)日本国内で外国人に広く便宜を与えるための会話重視の接客英語(日本人の海外旅行英語も同じ)、3)将来専門職のために使える実務英語のレベル、のいずれに置かれるか によって揺れ動くことになろう。
 それに伴い、基本の英語教育を受けた高校卒業者を受け取る立場と、学生を教育して社会に送り出す立場とのはざまで大学の英語教育も揺すられることになるだろう。 その中で、大学は学部毎に専攻内容のニーズに合わせた英語教科を用意することと、語学ラボや英語サークル活動への支援など環境整備に揺るぎない基軸を置くことを望みたい。                   (完)


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