2012年10月13日土曜日

Long and Winding Road to China Democracy

    ♯76 上海たより――ここらで一息入れる


 相変わらず長くて堅い中国特集を書いてきました。 時勢に乗る内容を書くといつもより反響があり、その中には「日本語で書いても意味がない。中国語か英語で掲載せなあかん」という意見がありました。私は日本の若者世代に書いているのですが、彼らに私のメッセージが伝わっているかどうか。どっちみち中国ではブログを規制していて開けないのです。
 それでも、意見に刺激されて、私が好きなビートルズの曲「The Long and Winding Road」から借りてタイトルを英語にしました。いつか在中国大使館の情報収集に引っかかるかもしれません。中国の外交官は日本に滞在して、それなりに多様な見識を持っているはずです。
  もう一つ、Facebookに登録しました。販路開拓ならぬ読者開拓につながる期待を持って。
 さて、今回は久しぶりにI氏からの「上海たより」を出します。人柄を反映する穏やかな文の現地情報でひと息つきましょう。
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  (前段略)
 大関の鶴竜関は場内放送で「モンゴル スフバートル市出身 井筒部屋」と紹介されています。ダムディンスレンやチョイバルサンと並んで、モンゴル革命の英雄時代を彩る人物であるスフバートル由来の市名を聞いて、若き日のモンゴル好きの血が騒ぎます。学生時代に本で知ったのですが、モンゴルでの社会主義政党は1920年に成立していて、中国共産党第一回大会が1921年8月に開かれるより早く立ち上がっていますね。
  さて、モンゴルと同様に英雄時代が中国でもとっくに終わり、次のトップもチームリーダーとして各グループの軍と党と民意の三角神輿に乗ることが必須条件になることでしょう。東京の首相は北京とのホットラインを持っていない、いつも電話で直接連繋するタイミングを逸している、と評する人がいます。しかし、バランスを取っていくしかない集団合議システムの中で、トップ同士だけでの電話会談は、中国側にとって非常に危険な行為であり、誰も受話器を取る(中国語では『火中取栗』といい、『拾う』とは言いません)人は居らず、回避するのが普通でしょう。 
  ユーゴの中国大使館を誤爆した時、クリントン大統領が江沢民主席に電話を断られたというのは有名な話です。(因みに江氏は卓越した英語力の持ち主と言われております。1989年の6月動乱当時に、上海の学生たちを前に英語で演説して煙に巻き、事態を乗り切ったあと、党人事ヘリコプターに乗ったとも言われています)  
  松下電器とPANASONICが同じ企業であることを知っている人が、山東省青島市黄島 の群衆の中にどのくらい居たでしょうか? 21日からの新聞報道には、「19日に終息した・・・」 という枕詞が使われ始めました。それと同時に経済への影響に関する記事が増えました。また、 無法略奪者と合法抗議者を峻別する言い方が増えています。各地からの報告の中にも、「暴行は、出稼ぎ者の仕業」とか「青島は黄島地区の余所者から顔に泥を塗られた」という青島旧市内の住民からの声もありました。同様に長沙からは、「失業者の鬱憤」「学生の無知」を強調し、自分たちも怖かったとの声。
 お馴染みになった「日本の一部右翼の仕業」という言い回しと同じで、対象を仕分けして都合の良い(この場合は弁明)をする伝統的な手法が始まりました。 ちょうど40年前の国交正常化交渉に先立ち、中国では周恩来首相が牽引して「日本軍国主義と日本人民は別だ。日本人民も被害者だ」という国内説得工作が行われたことは知られています。当時から、この手法には無理があるなあ、と感じていました。また、「戦争賠償金は受け取らない。日本経済の発展の足を引っ張りたくない」という交渉結果にも、双方に対して首を傾げていました。臥薪嘗胆(意味は異なりますが)してでも、賠償金を完済すれば良かったと考えます。
 その青島市黄島地区について、関川夏央さんの20年前の文章に再登場して貰います。20年前の青島、黄島がどんな雰囲気だったか思い浮かべることができます。今でも丸い話を四角に語り、座の雰囲気を重くする商社員の若き日の姿もスケッチされています。  「9月18日について、80年も前のことを我々は知るはずもなく・・・」と臆面もなく前置きをして、中国の現状をコメントする姿勢は慎みたいと思います。他の例を挙げれば、9月3日を記念したロードレースが北京の盧溝橋を中継点として行われ、新聞にも報道されています。
 1945年9月2日にミズーリ号で、重光葵らの日本代表が太平洋戦争終結の降伏文書に署名した日、それは即ち、第二次世界大戦の集結を意味しており、Victory over Japan day(=JV-day。Victory in Europe day=VE dayは5月8日)として海外では知られております。中華民国が1945年9月3日から5日まで祝勝休暇としたことが、中華人民共和国でも継承され「対ファシスト戦勝記念日」として定着しています。このように5月の上海だけでなく、9月の北京にも彼我の意識の違いの大きい日付があり、そしてそれが増幅されて続けていることを感じます。未来思考とか、歴史認識とか言う次元以前の現実のギャップです。
  9月10日以降、各地の中国人の友人知人から連絡を貰いました。婉曲な表現ですが、『保重 身体(お大事に)』という常套語にも、今回は意味を持たせていることを感じました。内外の各種報道の紙背や、口コミ(タクシードライバーの発言も含め)の含意を探りました。東京での会議で報告協議し、方針を明確にしたあと、「安全第一。業務第二」「駐在員・スタッフその家族の安全対策と情報収集」「臆することなく経済活動を継続する」の発信をして今日に至っています。
 17日から激変した中国の新聞報道は、9月18日当日も引き続き抑制的でした。『環球時報』一面は米国務長官の調停関連。三面に日本の次期大使関連。七面に「在華日系企業は中国への感情が良い企業。右翼ではない」「日本商品をボイコットするより、中国品が日本品を凌駕する技術が大切」などの記事。『参考消息』には日本関係記事が減り、漁船出港、日本人評論家の打開策論説の転載が目立つ程度。 時事配信によると、共産主義青年団の機関紙・中国青年報は「鬱憤(うっぷん)晴らしの愛国では釣魚島を守り抜けないし、国家利益も民族の尊厳も維持できない」と苦言を呈し、「愛国と『害国』は紙一重。理性が両者の境界線だ」と訴えた。公安省の機関紙・人民公安報も「日本製品の破壊は愛国ではなく『害国害民』の違法犯罪行為だ」との厳しい論評を掲げた、との事です。
 しかし相対的に「抑制的」であっても、国民の無法行為とその放任に対する政府の謝罪と弁償については一切触れていません。暴動発生についても間接話法で婉曲に表現するのみで写真付きの記事はなく、日本で繰り返し放映された長沙の平和堂破壊のようなリアルな画像は知らされていません。琵琶湖の南で事業を展開している平和堂が、湖南省でも定着を目指した企図が破壊された一日は、過去の数千日の努力の蓄積と信頼を裏切りました。
 19日、出勤途中に見た領事館付近は、フェンスのみ残り、ゲートは撤去されていました。 警備要員は少数で緊張感はなし。新聞報道は、日本海上保安庁の船と中国政府系の船が並走する 写真を一面に掲載されているものの。米国国務長官の東京・北京での動きに関する記事が目に付く程度で、3日前までとは様変わりにお気楽な記事が増えました。そして、北京から以下の情報がもたらされました。 
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 平成24年9月19日 在中国日本国大使館  本日(19日)朝、当地関係当局より、在中国日本国大使館前の交通規制は解除される旨連絡 があるとともに、北京市公安局は、「抗議活動は一段落した、大使館区域の交通秩序は正常に復 帰した。(中略) 大使館区域への抗議には行かないよう、また、良好な交通と社会の秩序の維持 のため関係当局に協力してほしい」旨のショートメールを北京市民に発出しており、当館前での 抗議デモは一段落したものと思われます。 また、北京以外の中国国内の都市でも、本日、抗議デモが行われるとの具体的な情報に接しておりません。    
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 「一段落」と言われても、問題解決ではないので、引き続き気を緩めずに、情報収集と安全対策に努めながら、臆することなく経済活動を遂行します、とコメントを添えて転送しました。 懇意にしている近所の花屋の大将は、青島・長沙・蘇州などの暴動事件については一切知らず、「そんな事ありえないだろう?本当か?」という反応でした。それでいて、日本から特使派遣・次期大使の下馬評などの事は詳しく知っていました。ただ、各種展示会が中止、夜の街も静かな為、鮮花の売上が激減したと嘆いてみせた後で、菊の鉢植えを押し付けながら「俺たちは友好」と笑っていました。
 毎朝の出勤途上のスタンドで2,3種類の新聞を買います。新聞売りのオッサンは一面に激しい言葉が並ぶ毎日でも、いつも通り丁寧に新聞を畳んで呉れ、1部1元(12.5円)の代金を「謝謝」と頭を下げながら受け取ります。オフィスビルの同じフロアに所在する韓国大手企業の総経理とは隣人として時々会食やプレゼントをする仲です。その総経理が「南の島の騒動はどうなったの?韓国だったらもっと激しい投石やデモが起こるけど・・・」と聞いてくるので、「上海は特別に整然としていたと思う。フェンスとゲートで流れを絞り込み、3段階の装備をした警官が規制した。デモ参加者もバラバラに歩いてくるか、貸切バスから押っ取り刀でやって来るのだったから迫力は無かったよ」と応えながら、「もう少し北の島のことは、聴かないの?」という言葉は控えました・・・
 こんな風にして日常は続いています。(社宅→花屋→新聞スタンド→国際貿易センター。徒歩15分。途中領事館の搦め手を通過します)                 (了)


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