2016年5月6日金曜日

#159 日本の宗教界――ものは見方で違う

 明治以前には京都にある神社の宮司を務め、地主であった家系の末裔です。と言っても、父は三男坊で早くに家を出て大阪で会社員をしていました。また、一族は代々天台宗の信徒であったから、日本では多くがそうであるように、神仏習合だったのです。私もこのような環境で育ちました。   
 高校生の時、一級上の先輩二人とともに町にある小さなキリスト教会の聖書会に週一度通っていました。イギリス出身で年配の女性宣教師から英語に日本語を交えて話す聖書を学びました。  神道からも仏教からも教典から学ぶ機会はないので、結果としてキリスト教の影響を受けました。しかし、遠方の大学に入ると、宗教について考えることはなく、教養課程の哲学に熱中しました。
 その後37歳の時アメリカ企業に転職してアメリカの町でキリスト教社会に住むことになりました。  この間、ずっと宗教について迷っていました。友達の「信仰は揺れ動く波頭の上の安定」と言われて、迷うことが当たり前と思うようになり、今日に至っています。
 若者諸君、宗教や信仰について悩むことこそ当たり前なのです。

◇ 家族の墓をどうするか?

 ある日、札幌で記念行事に出席した後で級友二人SとKに会った時、車で空港に送ってもらう途中、東京に住むKの家族の墓にお参りした。そこは広大な公園のような無宗派の霊園だった。 Kがお盆の墓参に来た時、せめてお盆だけには坊さんにお経をあげてもらおうと思い、近隣の寺に電話で以来すると、檀家ではないからと断られたという。彼の子供さんは3人とも東京住まいだからなかなかお参りになかなか来られない。墓をどうするか?、思案していた。
  私も問題を抱えている。子供二人はアメリカに住み、息子はシアトルでアメリカ企業に勤め、娘はニューヨークで弁護士をして二人ともそれなりに成功しているから、日本に帰ることはなさそうだ。今は年間会費を寺と墓守さんに払っているが、当然、私も妻も死ねば家族の墓を守ってもらえない。私のように墓はあってもめったにお参りしない会員を「墓檀」と言うそうだ。
  関西の友達は大阪に墓があり、奥さんの家族の墓は東京にある。娘さんは東京住まいだ。 二人は各々の家族の墓に別々に埋葬すると言っている。  
 また大阪の友達は次男で子供がなく、死んだら骨は海にまいてもらい、墓もつくらないという。最近、こういう話をよく聞く。
 私の埋葬についてはまだ決めていない。

◇ 仏教ではなく、寺が問題

 八百万(やおろず)の神々がおわす神道、多くの伝統仏教、キリスト教、神道系と仏教系の新興宗教が共存する日本。混沌としているように見えるが、ものの見方を変えれば、世界の宗教対立とはひと味違って良い面がある。
 日本で主な宗教である仏教の寺は、今、大きな問題に直面している。
 全国に8万以上あると言われる寺はこれから減っていくだろう。人口減少のせいもあるが、それより人々の信仰が変わってきていることで支えきれなくなることだ。実際、考えてみればこれまで政府の助成金なしによく人々が支えてきたものだと思う。
 仏教のどの宗派も世襲、墓、家族に頼る現実が変わることはないだろう。

 先ず、住職の世襲制が寺の存続を危うくしていると言われる。しかし、跡取りがいない、養子を取ることが難しいという住職の家族の問題以上に住職の在り方だ。  世襲制がすべて悪いということはない。これが直接信者の寺離れになる、あるいは若者が寄り付かないことにつながることは認識違いだ。
 住職は、アメリカの牧師のように法話が核心と考えて、信者が易しく仏法に触れられる ように入念に原稿を用意すべきだ。簡単なメモで社会問題などを話すのでは信者の心をつかめない。

 二つ目は、墓の問題。今、諸君が長男でなければ、墓を買おうとすると、寺から永代借地する費用のほかに、墓石代に300万円以上もかかるそうだ。これでは簡単に墓をつくれない。 このために遺骨を納めるロッカー式の集合墓や無宗派の霊園が増えている。大阪にある無宗派の一心寺は遺骨を集めて10年毎に溶かして大仏をつくる方式をとっている。個々に墓を持てないが、お参りはできる。ここは参拝者でよく賑わっている。

 三つ目は、家族の細分化と地域住民
 昔、寺は地域の中心だった。今は家族の構成員が遠くに住む時代で、一族が寺の地域に住めるのは、農業、漁業、個人商店などの職に限られる。他方、地域には新参者が入ってくる。
 私も地域に新参者で、必ずしも地域の寺に属していない例だ。大阪郊外の町では、都市圏が広がり、昔の村落と接している。京都の寺までは法事以外になかなか行けない。その代わり至近距離にある真宗東本願寺派の住職と親交があった。周囲はすべて真宗の檀家だった。
  富山に住んでからは真宗西本願寺の地域で。家内の親戚や友達の葬儀はすべて真宗だ。 何人かの住職と親しくなり、法話を聴きに行く。他方、家族の天台宗の寺はない。
 ある時、天台宗の住職に「もう少し他宗派との相互交流を柔軟にしたらどうか」と問いかけたことがある。あっさり「宗派はなくならない」と言われた。私は宗派をなくすとは 言っていないのに、話がかみ合わない。

◇ 葬式仏教の批判は当たらない 

  若者諸君が「日本の仏教は葬式仏教だ」と言う。年寄り世代も言っている。この批判は必ずしも当たらない。なぜかと言うと、古今東西世界のどの宗教においては、また人々にとって葬儀は神聖な儀式であるからだ。第一、儀式の形がなければ人々が困る。
  日本の社会に深く根をおろしている仏教がすたることはないだろう。私が心配しているのは、仏教ではなく寺のあり方だ。 諸君の中には無宗教、無信仰の人たちがいるだろう。いつか変わるかもしれない。神は何か畏敬するもの、宗教は生活の規範と考えてはどうだろうか。    (完)


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