2015年3月3日火曜日

#133 北京たより――「嘉義農林」

 今、日本と台湾の合作映画『KANO―海の向こうからの甲子園』が全国で上映されています。全国公開の一ヶ月遅れで上映された当地で私も観ました。
 KANOとは嘉義農林学校の略称、嘉農のことで、戦前の1931年に台湾代表として夏の第9回甲子園大会に初出場し、準優勝を遂げた野球部を描いた映画です。当時は日本が植民地にしていた朝鮮と満州の代表も出場していたのです。
 因みに、当時の学制は中学と専門学校(嘉農が例)が5年、高校と大学予科が3年、大学が3年でした。この旧制高校は戦後、大学になりました。
  諸君たちの興をそがないように、映画の講評は来月にしましょう。 「KANO」は感動的な映画で、また戦前の台湾を知る一端になります。是非観にいってください。
  この映画を2度も観たというI氏が台湾からの「北京たより」を届けます。
    ―――――――――――――――――――――――――

 1980年代初めによく利用した懐かしの兄弟大飯店での新聞記者とのランチミーティング。様々な新台湾の話題の流れは、『KANO』に行き当たりました。映画をテーマにした珈琲ショップが出来たばかりとのことを知りました。名物の飲茶料理はまだ少し残っていましたが、急き立てて案内してもらいました。
 地下鉄を3回乗り換えて、忠孝新生駅で降り立った地区は古い建築物が残った一角。一人では見つけられない場所に店はありました。(www.realguts.com.tw)使い古したバット・グローブ・当時の新聞・映画で使われた古いラジオや将棋盤、そして究めつけは店の前に置かれた古ぼけた自転車。よく見ると、それは山陽堂書店の名前入り、呉投手が初恋の幼馴染を乗せた自転車でした。    
 魏徳聖プロデューサーの前々作『海角7号』、前作の霧社事件を扱った『セデック・パレ』に関する映画資料とともに、壁一杯に関係図書が並んでおり、下村教授の霧社事件に関する訳書や戦前の平安中学や南海ホークスで活躍した台湾出身選手の本もありました。
 近くに住む記者の友人も駆けつけ、昨年夏の広島での平和式典に参加した時のことから始まり、日本への関心度の高さを感じさせる話を一気に語ってくれました。

  1895年 4月 下関講和条約(台湾・澎湖諸島が日本へ割譲)
  1930年    嘉南大圳工事完成  
    1930年10月 霧社事件発生 (翌春に第2霧社事件)
  1931年 8月 嘉義農林野球隊 夏の甲子園準優勝
  1931年 9月 柳条溝事件  
    1937年4月 総督府令 新聞雑誌の漢文欄廃止→中国語の禁止
  1937年 7月 蘆溝橋事件 
  1946年10月 中華民国台湾省行政長官公署 日本語廃止令
  1947年 2月 2.28事件 戒厳令下に  
    1987年 7月 戒厳令解除、廃止

 近藤兵太郎(松山商業OB。嘉義農林監督)や八田興一(桃園大圳そして嘉南大圳の建設指揮)、また一躍スターになった呉明捷投手など、俳優自身の魅力と魏徳聖(プロデューサー、脚本)馬志翔(監督)の演出により、とても格好が良かったのは事実です。 高雄出身の友人は、嘉義農林のことは知らなかったけど、八田さんのことはとても素晴らしいこととして賞賛。台中出身の記者は、歴史背景を巧く調整したりして美化しすぎかな?背中合わせに「理蕃政策」が破綻した霧社事件があるなど、歴史の陰陽も知るべきだとのコメント。二人に対して、『KANO』 が北京で上映されることは無いだろう。
 札幌商業OBの錠者士官が途中下車した嘉義駅に整列する兵隊たちの顔に独特の刺青があったのは、皇民化政策により植民地原住民まで徴兵したことの象徴だろう、と伝えました。昨年、見学した嘉義球場前の記念碑は、巨大なバットと6頭だけの虎の彫刻だったことは記者のみに伝えました。(日本の2頭は戦死。1頭は戦後帰国して社会党茨城県幹部に)
 弁護士は少しウィスキーを召されたか、小学校時代、家庭で使っている言葉を話したら教師から罰金を取られた、家で両親に何故なのか?と問いただしたら、「それを訊ねてはダメだ」と言われた故事を洩らしてくれました。二回りも若い弁護士も「それを訊ねてはダメだ」の時代を生きてきたわけで、2.28事件のことも京都大学留学時にようやく知ったとの痛切な体験も教えてくれました。 ・・・     
 1946年10月25日台湾の「光復節」(祖国復帰記念日)を機に、台湾総督府に代わって台湾の統治機構となった台湾省行政長官公署から発布された日本語廃止令である。1937年に中国語が禁止されて以来、日本が敗戦を迎えるまで日本語一色の世界に生きざるをえなかった台湾の人びとにとっては、台湾の現実を無視した情け容赦のない苛酷な言語政策であった。しかも、台湾人は日本帝国主義の「奴隷化教育」を受けてきたと指弾されれば返す言葉もなかったであろう。・・・ 『文学で読む台湾』下村作次郎(田畑書店 現代アジア叢書22)  

       (中略)

 二二八和平公園で、馬英九総統や選挙で勝ったばかりの柯文哲台北市長が、しめやかに語る言葉の多くは聞き取れませんでしたが「不忘記」「教訓」という単語が頻発していた印象があります。家族が事件被害者であった柯市長についてのメディア報道が多かったと後で聴きました。
 一時間の儀式のあとに乗ったタクシーの林運転手は、「68周年でしたね」という言葉に反応して、「GOOD」と指を立てながら「実は93歳の父親も参列しているんだ」と長い話の口火を切りました。今回は地下鉄にしなくて良かったです。
  北京は快晴です。米国大使館からの空気汚染警報も「GOOD」ではないでしょうか?
                         (了)


Back to TOP  

0 コメント:

編集

Back to TOP