2019年6月30日日曜日

#209 ゴーンを逃がすな――日本の司法は頑張れ

 やっとゴーン報道が静まりつつあります。 
 私は新聞各紙と月刊誌を情報源としているだけで、本件に関しては専門家ではありません。取材調査もしていません。ここでは腹立ちにまかせて推測の塊として書いてみます。メディアと違う発想があるかもしれません。

 ◇ ゴーン登場から植民地総督へ  
 彼が日産ほか二社の企業連合会長として2000年に初めてテレビで見た時、友達は「顔が強欲の塊」と言ったが、私もそう思った。 
 当時、2兆円を越える有利子負債を抱えて経営が行き詰まっていた日産を4万人の首切りを行い、かつて名車をつくっていた元プリンス自動車の村山工場を閉鎖するなど荒療治をして再建した。これで自信を持った彼はその後植民地総督になり、過信から数々の狼藉を重ねた。
  結局、稀にみる大経済犯罪の様相をおびてきた。よくもまあゴーンは好き放題の不正経理と会社の金を私用に流用する犯罪(見込み)を重ねてきた。これだけ証拠が出ているのに捜査に逆らい、「無実」と「陰謀」を今も主張している。


 ◇ フランス政府の介入と対応
 日本でこれだけの証拠が出ているにもかかわらず、大株主であるフランス政府がルノー本社のゴーン会長が解任されたのは、やっと今年の4月で異常に遅かった。さらにフランスの司法が動いてゴーン会長の資金流用の捜査を発表したのは5月のこと。遅すぎる。
 この間、よくあることだが、フランス政府は日本側の捜査を甘く見ていたのだろう。 誰もが予想した通り、ゴーンは本社でも不正を働いていた。植民地総督は本国でも不正を行っていたのだ。
  最近のテレビと新聞の報道によれば、日産の株主総会に出席したルノーのスナール会長は日産との統合を目指す発言をし、来日中のマクロン大統領も統合に前向きの意見を述べている。ルノーは日産の植民地化をあきらめていない。 
 日産の西川社長はルノーが保有する43%の持ち株比率を下げる見直しを提言したが、拒否された。ルノーと日産の攻防はまだこれからだ。日産は抵抗し切れるか? 
 そもそも日本でもアメリカでもルノー車はまったく売れていない。日産はもうルノーを必要としないのだから、交渉力は日産にある。ルノーの要求を拒否し続け、けんか別れしてもよいのだ。

 ◇ 法制の違いは間違いではない
 フランスのメディアは当初から「抑留期間が長すぎる」とか「ワイフに会わせないのは人権無視」と批判した。彼らはフランス法制と比較した。 ここが大事なことであるが、要するに、日本とフランスの法制が違えば、日本の法制が間違いだと言うのだ。仮にゴーンがドイツで捜査を受けて、違いがあれば間違いと言うだろう。 日本の検察の抑留が長すぎという批判は国内でも聞かれたが、この事件は何しろ大きいから、一つの捜査を進める間に、新たな証拠が一つまた一つ出てくる上に、被告はとれも認めないのだから、捜査が長引くのは当然のことだ。
  将来には日本の刑法を改正してゆく部分があるにしても、検察は現行の法律の下で捜査を進めるべきで、海外からの批判に動かされることはない。海外のメディアは中国の強権裁判とだふらせて日本の司法を見ているのだ。

 ◇ ゴーン夫人がアメリカとフランスで毒をまきちらす
 夫人はフランスに帰国する時、わざわざアメリカに立ち寄り、アメリカのメディア に対し「日本では命を脅かせている」と発言した。フランスでも言った。 これはメディアがゴーンに援護してくれると期待したのだろう。東京では保釈中のゴーンと娘とともに動物園を訪れている。事実を知る東京の外国人特派員よりアメリカとフランスのメディアが日本叩きを支援してくれると思ったなら、女の浅はかさであるのか。
  普通なら日本の検察の心証を悪くするだけだ。 いずれゴーンが日産の金を使い、夫人を社長としてアメリカにつくった投資会社は脱税か不正利益の嫌疑でアメリカの検察が摘発するだろう。

 ◇ ゴーンの異常な自己顕示 
 こんな悪行を重ねたゴーンについて、私はキャリアの背景があると思う。 
 彼はレバノン生まれで、ミシュランとルノーのブラジル子会社で経営手腕を認められてやっとルノー本社の取締役に選ばれた。 
 レバノン、ブラジル、フランスの三重国籍を持つ彼はなかなかフランス人として認知されなかった。特にフランス上流社会では認知されなかっただろう。ルノーや日産の金で各国に四つの住宅を買わせ、バケーションの家族費用も会社に付けた。中でも600万円もの費用をかけてベルサイユ宮殿で結婚披露宴を開いたことは認知に対する不満が表れたもので、またフランスにおける鬱積した劣等意識の象徴だ。 
 日産においてもあの形相で英語をまくしたてられたのでは、日本人役員は抗することもできなかった。

 ◇ 戦後の技術提携 
 今では忘れられたことであるが、戦後の日本で日本メーカーが復興する原点は、ヨーロッパのメーカーとの技術提携だった。 因みに、ルノーは1953年、日野自動車にノックダウンさせて私が中学生だった頃、ワーゲンのビートルをひと回り小さい4CVがタクシー車として走り回っていた。よく売れていたにもかかわらず1962年に生産中止になった。これ以来ルノー車は日本市場から消えた。
  この頃いすゞ自動車は英国のヒルマンと、日産はオースチンと提携してノックダウン車を販売したが1960年に中止した。 これから日本の各社は独自に開発して国産車の製造で成功した。トヨタは一切提携に頼らなかった。

 ◇ サラリーマン川柳の傑作 
 不愉快な話題だったので、ここで味直しのために、第一生命が毎年出しているサラリーマン川柳コンクールから私の好きな川柳を二つ挙げてみよう。私は川柳が好きで時々つくってみるが、この川柳にはかなわない。

  「ノー残業 趣味なし金なし 居場所なし」第4位
  「メルカリで 妻が売るのは 俺のもの」第3位                          (完)        


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